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第6話:奇跡と悲劇が交差する場所

回復室のカーテンの隙間から、朝の光が力なく差し込んでいた。モニターが刻む一定の電子音は、どこか厳か(おごそか)なリズムを刻み続けている。


橘医師はわずかに眉をひそめながら、タブレットに表示されたデータを確認していた。


血圧、安定。

 脈拍、正常。

 腎機能……正常化しつつある。


彼はベッドに歩み寄り、一人の患者を見つめた。

 **けい**は青白い顔をしながらも、穏やかな表情で眠っていた。鼻の下には酸素吸入のチューブが通り、胸は静かなリズムで上下している。手術前に彼女を苦しめていた喘ぎも、病的な肌の色も、もうどこにも見当たらない。


医師は彼女の細い手首に二本の指を添え、脈を確認した。


「……移植への反応は良好だ」


橘医師は、自分自身に言い聞かせるように呟いた。


「予想以上の結果だ。完璧と言ってもいい」


その時、部屋の扉が静かに開いた。

 りんが、まるで呼吸一つで部屋の均衡を壊してしまうのを恐れるかのように、ゆっくりと入ってきた。目の下には隈が浮き出し、制服の代わりに着た簡素な私服は、彼女がまともに眠れていないことを物語っていた。


「……様態は?」


蚊の鳴くような声で彼女は尋ねた。

 医師は背筋を伸ばし、娘に向き直った。


「当面の危機は脱したよ」


プロらしい、冷静な声が返ってきた。


「体は拒絶反応を起こすことなく、腎臓を受け入れた。このまま順調にいけば、透析からは完全に解放されるだろう」


それを聞いた瞬間、凛は膝から崩れ落ちそうになった。


「じゃあ……**けい**は……」


**けい**は、ゆっくりと瞳を開いた。


「……りんお姉ちゃん……?」


凛はすぐにベッドへと駆け寄った。


けい……本当、みんなを怖がらせたんだから。急いで手術をしなきゃいけなかったのよ」


震える笑みを浮かべながら、彼女は言った。**けい**は状況を飲み込もうとするかのように、何度か瞬きをした。


「しゅじゅつ……?」


橘医師が深く頷いた。


「手術は成功したよ。新しい君の腎臓は、しっかり働いてくれている」


その言葉を理解するのに、数秒の時間がかかった。


「……お兄ちゃんは? お兄ちゃんはどこ?」


その瞬間、重苦しい沈黙が、まるで巨大な石板が落ちてきたかのように部屋を支配した。

 凛は耐えられずに視線を落とした。

 医師は言葉を発する前に、窓の外へと目を向けた。


「ドナーは……君のお兄さんだった。だが、移植の最中に深刻な合併症が起きてしまったんだ」


彼はついに、その事実を口にした。


「彼の体は、あまりにも衰弱しきっていた。……なんとか容態を安定させることはできたが」


医師はそこで言葉を切り、重苦しく続けた。


「……まだ、目が覚めないんだ」


**けい**の瞳に、絶望の色が走った。


「そ、それって……どういうこと……?」


凛は耐えかねるように、ベッドのシーツを固く握りしめた。


れんは……今、昏睡状態なの」


彼女は絞り出すような声で囁いた。

 部屋の空気が一気に冷え込み、狭くなったかのような錯覚に陥る。**けい**は震える手を自分の胸に当てた。


「そん、な……嘘……嫌だよ……っ」


橘医師は、重みのある、けれど揺るぎない声で説明を続けた。


「脳の機能は安定している。不可逆的なダメージはない。だが、外部からの刺激に全く反応しないんだ。手術中のトラウマと、極度の疲弊による昏睡だと言えるだろう」


凛は医師の方を見ることなく、ただ一点を見つめて口を開いた。


「もう……二日間、ずっとあのままなの」


**けい**の体が激しく震えた。


「じゃあ……私は……お兄ちゃんのおかげで、生きてるの……?」


彼女は最期まで言葉を紡ぐことができなかった。大粒の涙が、その頬を伝い落ちる。

 りんは唇を強く噛みしめた。


「ええ」


彼女は短く、けれど確かな重みを持って言った。


「彼が、あなたを救ったのよ」


**けい**は両手で顔を覆った。


「こんなの望んでない……。私は、お兄ちゃんがこんなことになるなんて……っ」


凛はすぐにシーツから手を離し、**けい**をその腕の中に抱き寄せた。


「ダメよ、けい……。これは彼が、自分の意思で決めたこと。あなたという存在が、彼にとって何よりも大切だったからよ……」


凛の腕の中で、**けい**は声を上げて泣き崩れた。

 心拍計のモニター音だけが、人の世の悲しみなど知らぬげに、冷淡で一定のリズムを刻み続けている。


橘医師は静かに背を向けた。


「休みなさい、星野さん。今は体力を戻すことが先決だ。我々にはまだ、守らなければならないもう一人の患者がいるのだから」


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


402号室に響くのは、モニターの電子音だけだった。単調で冷たいその音は、一時停止した人生の秒数を刻み続けている。

 しかし、れんにとっての「今」は、それとは全く異なるものだった。


寒さはない。

 騒音もない。

 恐怖さえない。

 ただ……静寂だけがあった。


やがて、蓮は瞳を開けた。

 視界に入ってきたのは、病院の眩い白光ではなかった。


彼は、果てしなく続く緑の草原に立っていた。どこまでも広がる白い花々を、穏やかな風が揺らしている。遠くには丸みを帯びた丘陵が連なり、雲一つない澄み切った青空に溶け込んでいた。


「……え?」


彼は自分の両手を見つめた。そこには傷一つなく、健康そのものの肌があった。彼は絶望的な心持ちで自分の胸をまさぐり、手術の痕跡を探した。


「俺は……死んだのか?」


自分の声は、あまりにも普通に響いた。あまりにも、いつも通りに。

 そのことが逆に、れんの鼓動を速めた。


「嘘だ……。そんな、嘘だろ……っ」


彼は後ずさりした。


けい……りん……病院は……」


何か、意味のあるものを探して、彼はその場で何度も周囲を見渡した。

 その時だった。その声が聞こえたのは。


「まだ早いわよ、おバカさん」


蓮の身体が凍り付いた。その声に、聞き覚えがあった。

 ゆっくりと振り返ると、大きな一本の木の木陰に、一人の女性が草の上に座っていた。


艶やかな黒髪。

 穏やかな微笑み。

 そして、幼い頃からずっと知っている、あの瞳。


「……母さん?」


膝が震え、崩れ落ちそうになった。けれど、れんは歩かなかった。走った。

 かつての五歳の子供に戻ったかのように、彼は彼女の胸へと飛び込み、その膝の上で千々に砕け散った。墓前では流しきれなかった涙のすべてが、今、溢れ出した。


「母さん……っ!!」


持てる限りの力で、彼女を抱きしめた。

 母の体は温かかった。確かな、生身の温もり。

 夢なんかじゃない。


「ごめん……遅くなって、ごめん……っ」


彼は嗚咽を漏らした。


「ごめんなさい……ごめんなさい……っ」


母は彼を両腕で包み込み、その頭にそっと頬を寄せた。


「大きくなったわね……蓮」


彼は恥じることもなく、ただ泣きじゃくった。


「全部……めちゃくちゃだったんだ……」


掠れた声で、彼は吐き出した。


「**けい**が病気になって……怖くて……どうすればいいか分からなくて……疲れたんだ……。もう、すごく疲れたんだよ……」


母は優しく、彼の髪を撫でた。


「知っているわよ」


蓮は少しだけ体を離した。


「じゃあ……俺は本当に……?」


彼女は穏やかな微笑みを浮かべ、静かに首を横に振った。


「いいえ」


母は木の背後を指さした。


「お父様なら、あそこにいるわよ」


れんは袖で乱暴に目を拭った。


「あのバカ親父……まだ隠れてるのかよ」


彼は笑みを浮かべて立ち上がり、歩み寄った。そこには、生前と変わらぬ冷徹な面持ちを崩さない父の姿があった。


「……親父」


男は一つ、大きなため息をついた。


「相変わらず、無鉄砲な奴だ」


蓮はその胸に飛び込んだ。


「うるせえ、このクソ親父!」


力任せに抱きしめる。


「あんたたちをどれだけ恨んだか分かってんのか!?」


涙混じりの声で叫んだ。


「一人きりで残されて……どれだけ痛い思いをしたと思ってんだよ!」


父は、その大きな手を蓮の背中にそっと添えた。


「分かっているさ。……私たちは毎日、お前を見ていたからな」


蓮は体を離し、父の顔をまじまじと見つめた。


「ほ、本当……なのか?」


いつの間にか隣に並んでいた母が、彼の肩に優しく手を置き、二人の傍らに腰を下ろした。


「そうよ、蓮。あなたが私たちの可愛い**けい**のためにしてくれたこと、全部見ていたわ」


れんはふっと笑みをこぼし、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 彼は深く、大きな息を吸い込む。


「……それで、ここはどこなんだ?」


母は遠い地平線を見つめた。


「休息の場所よ」


父が言葉を継ぐ。


「お前の体には休みが必要だったんだ、蓮。そして私たちは……もう重荷を下ろしていいんだと、お前に伝えたかった」


蓮は拳を固く握りしめた。


「……休みたくなんてない」


彼は地面を見つめた。


「あっちには……待ってる人がいるんだ」


りんの姿が脳裏に浮かぶ。

 そして、けい


「戻れるのか?」


母は誇らしげに、彼に微笑みかけた。


「もちろんでしょう?」


彼女が草原の先を指さす。

 花々の向こう側、虚空に光の亀裂が走っていた。まるで、空そのものが引き裂かれたかのような。


「あそこに向かって走りなさい」


蓮は躊躇した。


「ま、待ってよ……父さんと母さんは?」


父は蓮をじっと見据えた。


「私たちはいつもここにいて、お前を見守っている。心配するな」


蓮は唾を飲み込んだ。


「でも、俺……」


言いかけたその瞬間、父が蓮の頭に強烈な拳骨げんこつを見舞った。


「いったあああ! 何すんだよ、いきなり!!」


父はただ不敵に笑い、母は不満げに頬を膨らませた。


「何をためらっているの、このおバカさん。あっちには**けい**だっているし、あんたを待っている女の子だっているんでしょう? ……不思議ね、あの子、若い頃の私にどこか似ている気がするわ」


父がこらえきれずに高笑いすると、母は怒って彼の耳をぎゅっと引っ張った。


「ちょっと! なんで余計なことまで話してんのよ!」


悶絶する父の姿を見て、れんは思わず吹き出した。


「……はは、二人とも、相変わらずだな。……そうだね、その通りだ」


二人は動きを止め、蓮を見つめた。


「あっちの世界で……俺、**けい**以外にも生きる理由を見つけたんだ。……俺、あいつと一緒にいたい。そのために生きたいんだ」


その言葉に、両親は驚きに目を見開き、やがて息子への誇らしさで胸を熱くさせた。


「……ねえ、蓮がいつの間にこんなに大人びちゃったのかしら」


母がしみじみと呟く。


「さあな……。だが、どうやらあの娘がこいつを変えてくれたようだな」


二人は優しく、蓮に微笑みかけた。


「蓮、もう行く時間よ」


母が告げる。視線の先では、光の亀裂が少しずつ、静かに閉じようとしていた。


「待って、行かなきゃ……行かないと……っ」


れんは、両親と過ごせる時間が残りわずかであることを悟った。


「行きなさい。忘れないで、私たちはいつだって——」


二人が言い終える前に、蓮は最後にもう一度だけ両親を強く抱きしめた。二人は優しく、その抱擁を返した。


「私たちの蓮が、こんなに大きくなって……」

「全くだ。誰が想像できたかな……」


蓮は瞳に涙を溜めたまま、二人から離れた。


「……っ。もう、行くね?」


彼は背を向け、閉じかけている光の亀裂へと歩き出した。焦りが募り、足が速まる。けれど、飛び込む直前で彼は足を止めた。


「なあ! 二人ともっ……!」


彼は緊張で唾を飲み込み、震える声で言葉を絞り出した。


「お、俺と……あいつとの仲、認めて……くれるかな?」


「「ええ」」


二人の声が重なった。あまりにも迷いのない即答に、蓮は呆然としたが、すぐに今日一番の笑顔を見せて亀裂へと飛び込んだ。


「ありがとう……父さん、母さん!」


視界が暗転していく中、最期に二人の声が届いた気がした。


「元気でね、蓮。あなたも、けいも……。そして、何より……幸せになりなさい」


そして、すべてが深い闇に包まれた。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


世界が、強烈な痛みと消毒液の臭いと共に引き戻された。

 れんは瞳を開けた。喉は砂漠のように乾ききっている。傍らを見ると、ベッドの縁に身体を預けているりんの姿があった。髪は乱れ、目の下には深い隈がある。彼女は、力尽きたように眠っていた。


「凛……」


かすれた、今にも消えそうな声。けれど、それは彼女の意識を呼び覚ますには十分だった。

 凛は弾かれたように飛び起き、目を見開いた。蓮の瞳が自分を捉えていることに気づくと、彼女の表情は驚愕から、彼がかつて見たこともないような、純粋な涙へと崩れ去った。彼女は手術のことなど忘れたかのように、彼に飛びついた。


「この、バカアアアアッ!! 目が覚めなかったら、私が殺してやろうと思ってたんだから!」


嗚咽混じりに叫びながら、彼女は蓮を胸に強く抱きしめた。


「ま、待て、バカ! まだ傷口が……痛い、痛いってえええ!!」


蓮は悲鳴を上げたが、彼女を突き放そうとはしなかった。やがて彼女は自ら体を離した。


「……バカ、バカ、バカっ!」


彼女は蓮の腕を、弱々しく、何度も叩いた。


「どれだけ心配したと思ってるの!? 私が……私が、どれだけ夜を明かして泣いたか……っ」


蓮は言葉を失った。


「え……? 待ってくれ。一体、どれくらい……」


言いかける蓮を遮るように、凛が叫んだ。


「黙ってて! ……三ヶ月よ、蓮。あんたが戻ってこないんじゃないかって……最低な三ヶ月を過ごしたんだから……っ」


蓮は絶句した。三ヶ月?

 あの柳の木の下では、ほんの数分の出来事だったはずなのに。


「……けいは?」


りんは涙を拭い、半開きになったドアを指さした。そこには、まだ少し青白いながらも、頬に赤みの差した**けい**が立っていた。彼女は部屋に入るのをためらい、ドアの陰に隠れるようにして、その手を小刻みに震わせていた。


「あの子……自分のせいであんたがそんな目にあってるって、ずっと責任を感じてて……」


凛が小声で囁くと、れんはふっと微笑み、残った力を振り絞って叫んだ。


けい……今すぐここに来い。さもないと、俺がそっちまで歩いていくぞ。途中で傷口が開いても知らないからな!」


その脅しは効果絶大だった。**けい**は部屋に駆け込み、ベッドへとダイブした。蓮が息を詰まらせるほどの力で、兄にしがみつく。


「わっ、待て! お前まで!? 冗談だ、今の言葉は冗談だってばあああ!!」


蓮はあまりの痛みに悶絶したが、それでも片方の腕で妹を、もう片方の腕で凛をしっかりと引き寄せた。


廊下では、橘医師がその光景を静かに見つめていた。その口元には、誰にも気づかれないほどの微かな笑みが浮かんでいた。

 蓮は人生で最も過酷な試練を乗り越えた。それだけで、橘医師が彼を認めるには十分すぎる理由だった。


第6章の終わり



◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


皆さん、こんにちは。ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます!


ついに蓮が手術を乗り越え、目を覚ましました。……ですが、まさかの「三ヶ月」が経過。誰が予想できたでしょうか。


今回のエピソード、いかがでしたか?

蓮はようやく両親との心の傷を癒やし、決別することができました。そして、凛との関係についても、二人から「お墨付き(祝福)」をもらいましたね。


今日のチャプターを楽しんでいただけたなら幸いです。

改めて、応援ありがとうございます! 第7話もどうぞお楽しみに!


著者:零時卿

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