第5話:なぜ、俺なんだ...?
「問題なのは、国内の待機リストは何年待ちだということだ。そして彼女には、数日という時間さえない。今必要なのは生体ドナーだ。完璧な適合性を持ち、今すぐ手術室に入る覚悟のあるドナーがな」
橘医師の言葉は、逃れられぬ死刑宣告のように蓮の耳に突き刺さった。
蓮はすぐには答えられなかった。
「時間がない」という言葉が、まるで金槌で叩かれているかのように、彼の頭蓋を激しく打ちのめし続けていたからだ。
彼は病院の磨き抜かれた床を見つめた。あまりにも清潔で、青白くやつれた自分の顔が鏡のように反射している。握りしめた拳は、指が痛むほどに力が入っていた。
「……少し、時間をください」
ようやく絞り出した声は、ひどく低かった。
「考えさせて……くれ」
凛が驚いたように彼を見つめた。
「星野……?」
橘医師は、わずかに眉をひそめた。
「君、我々にはもう時間がないんだ。決断を下すなら、今日中でなければならない。君の妹さんは、機械に繋がれた状態で何日も耐えられるほど強くはないんだよ」
蓮は顔を上げないまま、静かに頷いた。
「分かっています……ただ、少しだけ外に出させてください」
誰かが止める間もなく、彼は踵を返した。病院の出口へ向かう足取りは重く、一歩一歩が数トンもの重圧に耐えているかのようだった。
「星野、待って……!」
出口で凛の声が彼を呼び止める。しかし、彼は振り返ることさえしなかった。
「時間をくれ、橘……。数時間だけでいい。考えたいんだ」
その声は、深い井戸の底から響いてくるかのように虚ろだった。彼女は心配に駆られ、彼の後を追おうとしたが……。
橘医師が娘の肩に手を置き、それを制した。
「放っておきなさい、凛。彼に残された時間は夜明けまでだ。それまでにドナーが見つからなければ、透析だけでは間に合わない」
凛は拳を固く握りしめた。夜の街の闇へと消えていく、蓮の丸まった背中を見つめる。
彼女にとって、父親の命令などどうでもよかった。医師が背を向けた瞬間、彼女は彼を追って外へ飛び出した。一定の距離を保ち、建物の影に身を潜めながら。
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蓮は夜の街をあてもなく彷徨い歩いた。信号機の光が路面の水たまりに反射し、まるで血とネオンが混じり合ったシミのように見えた。街は、何事もなかったかのように脈打ち続けている。
(腎臓……)
彼は思った。
(俺の一部を……あいつのために……)
呼吸が乱れ始める。
(もし適合したら……もし失敗したら……もし、俺が死んだら……)
奥歯を噛みしめる。
(もし……やらなかったら……?)
台所で笑いながら、まるで世界が永遠に続くかのようにジュースをねだる**圭**の姿が、ナイフのように胸に突き刺さった。
四十分ほど歩き続け、蓮は街の端へと辿り着いた。ここの空気はより冷たく、より重い。彼は市営墓地の鉄門の前で足を止めた。
木陰に隠れていた凛は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(どうして……こんな場所に?)
蓮は中へと足を踏み入れた。砂利を踏みしめる音が静寂に響き、やがて彼は二つの灰色の墓石の前で足を止めた。月日の流れを感じさせるものの、雑草一つなく手入れされたその場所――彼の両親の墓だった。
凛は遠くから、そのすべてを黙って見守っていた。
静寂が流れたのは、ほんの一瞬だった。次の瞬間、蓮を支えていた心の壁が音を立てて崩れ去った。鈍い音を立てて、彼の膝が地面に叩きつけられる。
「なんで……俺なんだよ……っ」
最初は、絞り出すような囁きだった。しかし、それはすぐに夜の静寂を切り裂く絶叫へと変わった。
「なんで……! なんで俺を、こんな場所に一人で残して逝ったんだよ!!」
蓮は何度も、何度も拳で地面を殴りつけた。それを見守る凛の瞳に、恐怖と痛みが走る。
「俺は……そんなに強くねえんだよ! もう限界なんだ……! クソっ、俺はただ……普通に学校に行って、働いて、**圭**の笑顔を見ていたかっただけなのに……! 俺が何をしたって言うんだよ!? 前世で誰かを殺しでもしたのか!? なんで運命は、こんなに俺を憎むんだ!!」
叫びは次第に、嗚咽を交えた掠れた声へと変わっていった。
彼は泣いた。何年も蓄積させてきた沈黙の苦しみをすべて吐き出すように、しゃくり上げ、鼻水を流し、喉を詰まらせながら。
数メートル先で見守っていた凛は、自分の心臓が引き裂かれるような思いだった。かつてプライドを守るために自分にナイフを向けたあの少年が、今、死者の前でガレキの山のように崩れ落ちている。その姿に、彼女は思わず足を踏み出していた。
「蓮……」
彼は驚かなかった。顔を隠そうともしなかった。ただ、腫れ上がった瞳で、魂をさらけ出すように彼女を見つめた。彼女が初めて自分の名を呼び捨てにしたことさえ、今の彼にはどうでもよかった。
「橘……怖いんだ」
傲慢さの欠片もなく、彼は初めて本心を口にした。
「もし俺の腎臓をやって、何か手違いがあったら……。俺が手術台の上で死んだら、誰があいつを守るんだ? でも、もしやらなかったら……あいつは、両親のところへ行っちまう」
震える手で、彼は墓石を指さした。
凛はその場に膝をついた。冷たい土が、高級なブランド服を汚すことなど目にもくれなかった。彼女は彼の肩を掴み、自分の額を彼の額に押し当てた。
「私を見なさい、バカ。見なさい」
凛もまた泣いていた。けれど、その声は荒波の中の錨のように力強かった。
「あなたは死なない。お父様がそんなことさせないわ。それに、もし……万が一、何かが起きたとしても。私の命に代えて誓う。**圭**を二度と一人にはさせない。でも、あなたはどこへも行かせない。あなたは生きて、あの子の成長を見届けるの。そして私は、あなたのそばで、あなたが意地を張るたびに罵ってあげるわ」
蓮は瞳を閉じ、影に覆われた世界で唯一の現実であるかのように、凛の制服にしがみついた。
「本当に……そばにいてくれるのか?」
「何があってもよ、蓮。必要なら世界を敵に回してでも。……でも、決めるのはあなた自身よ。恐怖に支配されるんじゃなくて、あなたの心で決めなさい」
蓮は希望を宿した瞳で彼女を見つめ、彼女の隣で立ち上がった。
「……病院へ行こう、凛」
彼女は彼の頬についた泥をそっと拭い、何も言わずにその手を取った。病院へ戻る道中、彼女はその手を一度も離さなかった。
二人が冷たい夜の街を歩きながら病院へ向かう途中、最後に対話を交わした。
「ねえ、蓮……。あなたには、遠い親戚とか、そういう人はいないの?」
蓮は驚き、街灯の光に照らされながら記憶を辿った。
「うーん……。親父がまだ生きていた子供の頃に聞いたことがある。絶縁状態で連絡も取っていない、遠く離れた兄弟が一人いたって。叔父さんの名前は教えてくれなかったけど、息子が一人いるとは言っていたな。それに……。確か、向こうはかなりの上流階級だって言っていた気がする。つまり、どこかに従兄弟がいるはずなんだ。……どこにいるかも、俺を受け入れてくれるかも分からないけどな」
凛は思案に暮れるような視線を向けた。
「そう……。それで、決めたのね?」
蓮は力強く頷いた。その瞳には、もう涙はなかった。
「ああ、俺の腎臓を移植する。……でも」
彼は足を止め、凛を真っ直ぐに見つめた。
「……お願いだ、約束してくれ。もし、俺が耐えられなかったら……その時は、**圭**を本当の妹だと思って守ってほしい。それが俺の最後の願いだ。頼む……」
彼女はその言葉に衝撃を受け、震える声で視線を落とした。
「ば、バカ……そんなこと言わないでよ……っ」
凛の瞳から涙がこぼれ落ち、蓮は驚きに目を見開いた。彼女は涙を拭うこともせず、顔を上げた。
「あ、あんたなら、絶対に手術に耐えられる……私には分かるわ」
彼女は繋いだ手に、さらに力を込めた。
「そして手術が終わったら……また三人で、新しい思い出を作っていくのよ……っ」
頬を伝う涙をそのままに、彼女は必死に訴えかけた。蓮はそんな彼女を静かに見つめ、不意に彼女を抱きしめた。予期せぬ抱擁に、凛は息を呑む。
「……ああ、そうだな。俺は大丈夫だ」
彼はゆっくりと体を離し、凛の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「約束する……」
凛は彼を見つめ返し、もう一度、愛おしそうに微笑んだ。
「……あ、ありがとう。バカ……」
二人は再び、病院へと続く夜道を歩み始めた。
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「もうすぐ着くぞ、凛」
蓮は、相変わらず慌ただしく動き続ける病院を視界に捉えながら、静かに呟いた。
「ええ、分かっているわ。蓮……」
彼女が繋いだ手に力を込める。蓮は彼女の方を見ないまま、言葉を続けた。
「なあ……。もし俺が生き残れなかったら、これだけは一生後悔するだろうな。誰かを愛すること、そして誰かに愛されることがどんな感覚なのか……それを知らないまま死ぬことを」
不意の告白に、凛は虚を突かれたように固まった。
「え……っ?」
最初は驚きに声を震わせた彼女だったが、やがて、小さく吹き出した。
「……本気? 死ぬか生きるかの手術を前にして、考えていることがそれなの?」
「ああ、正直な。幸せそうに歩いているカップルを見ては、いつも羨ましいと思っていたよ。どうしてあいつらは一緒に笑い合えるのに、俺には誰もいないんだって。……特に、キスとかさ」
蓮は、やり場のない苛立ちと悲しみが混じったような声で漏らした。
「……まあ、今となってはどうでもいいことだけどな」
凛が足を止め、蓮は驚いて彼女を振り返った。
「どうでもいいわけないでしょ、バカ。そんな想い、ずっとずっと、**圭**のために押し殺してきたんでしょう?」
蓮が少し気まずそうに、けれど静かに頷くと、彼女は一つため息をついて彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「本当、バカね、蓮。……でも」
彼女は両手で彼の頬を包み込み、背伸びをして……。
そっと、唇を重ねた。
強引なものではなかった。それは、ずっと胸の奥に閉じ込めていた愛情が溢れ出したかのような、優しい口づけ。
唇が離れた時、蓮はただ呆然と立ち尽くしていた。
「……自分の本当の気持ちを、いつまでも無視し続けちゃダメ。分かった、バカ? 手術が終わって戻ってきたら、誰かに愛されるっていうのがどういうことか、私が教えてあげるわ。べ、別にあんたのために言ってるんじゃないんだからね。勘違いしないで!」
顔を真っ赤に染め、瞳を潤ませながら彼女は言い切った。蓮はまだショックから抜け出せずにいたが、人生で初めての「体温」に、自然と笑みがこぼれた。
「……分かったよ、おてんばお嬢様。戻ってきたら、全部教えてくれ。いいな?」
彼は彼女の手を優しく握りしめる。
「……約束よ?」
赤みが引かない顔で、凛が念を押すように言った。
「ああ……約束だ、凛」
蓮は微笑み、目の前の巨大な病院を見上げた。
「……時間だ」
凛は、まだ心のどこかに恐怖を抱えながらも、深く息を吐いた。蓮の手の温もりを感じると、不思議と不安は消え去り、彼女は彼の手をより強く握りしめて歩き出した。
再び橘病院のロビーに足を踏み入れると、廊下では父・昭彦が時計を見つめながら待っていた。二人の姿を捉えた彼の視線は、繋がれた手と、泥で汚れた二人の衣服に一瞬だけ止まった。
「決めたよ」
蓮の声には、もう震えはなかった。彼は医師の前に堂々と立ち、真っ直ぐにその瞳を見据えた。
「検査をしてください。もし適合するなら、今日、今すぐにでも手術を始めてほしい」
橘医師はプロとしての冷徹な表情で頷いたが、一瞬だけ、その瞳の奥に一人の男としての「敬意」が宿った。
「第四オペ室と、即時適合検査ラボの準備を」
昭彦は無線で淡々と指示を下すと、再び蓮を見た。
「来なさい、少年。やるべきことは山積みだ、そして我々には時間がない」
検査室の自動ドアをくぐる直前、蓮は最後にもう一度だけ凛を振り返った。彼女は小さく、けれど確かな微笑みを彼に送った。それは、「世界は今日終わらない」という希望と、二人にはまだ「果たすべき約束」があることを思い出させる微笑みだった。
自動ドアが、金属的な音を立てて静かに閉まる。
「待ってるから……バカ」
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数分後、看護師たちが適合検査の結果を持って現れた。結果は「陽性」。蓮にはすぐに手術着が渡された。
「蓮君、本当にいいのか? 今ならまだ——」
橘医師が言い終える前に、蓮はその言葉を遮った。
「いいえ。決意は変わりません、橘先生」
彼は手術着を整え、静かに手術台へと横たわった。
「……分かった。麻酔を開始しろ」
蓮は注射の感覚を腕に感じながら、ただ静かに微笑んだ。
「信じてますよ、先生……」
手術室の眩い白光が、彼の意識を包み込んでいく。
手術台の金属の冷たさが、薄い手術着を通して肌に伝わってきた。モニターが刻む電子音は、ゆっくりと、一定の刻みで響いている……まるで、まだ抗い続けている心臓の鼓動のように。
蓮は、ゆっくりと瞳を閉じた。
(圭……もう少しだけ、耐えてくれ)
「カウントダウン開始……10、9、8……」
頬を赤く染め、声を震わせていた凛の姿が、稲妻のように脳裏を駆け抜けた。
(……俺は、一人じゃない)
「……7、6……」
麻酔が彼の意識を濁らせ始めた。
薄れゆく意識の最期に、彼は一つの約束を抱いた。
(待っててくれ、凛……。約束は、絶対に破らない)
世界が、消えた。
静まり返った廊下で、凛は冷たい壁に背を預けていた。彼女の指先が、そっと自分の唇に触れる。そこにはまだ、蓮の感触が微かに残っていた。病院の静寂は絶対的で、命を繋ぐ機械の微かな駆動音だけが、その沈黙を切り裂いていた。
手術室の扉が完全に閉ざされる。
そして運命は、初めて、宙に浮いたままその時を待つこととなった。
第5章の終わり
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こんにちは!皆さん、お元気ですか?
ようやく第5話、物語の核心部分までたどり着きました。
蓮は妹を救うために、自分の腎臓(そして、もしかしたら自分の命さえも)を捧げる決断をしました。
今日の回はいかがでしたか?
「良かった」「悪かった」「頼むからアカウント消してくれ(笑)」……などなど、皆さんの率直な感想をお待ちしています!
第5話はここまでです。
第6話も、ぜひ楽しみにしていてくださいね。
著者:零時卿




