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第1章:すべての始まり

「ねぇ、お母さん。どこに行くの?」


車の後部座席で、無邪気な少年が問いかけた。彼の隣には、まだ2歳になったばかりの妹が座っている。


「ほら、前にお話しした遊園地よ。今、そこに向かってるの」


「本当、お母さん!?」


少年は目を輝かせて、身を乗り出した。


「ええ、本当よ。お父さんも、実はすごく楽しみにしてるんだから」


「べ、別にそんなんじゃない。お前たちが行きたいって言うから行くだけだ」


ハンドルを握る父親が、照れ隠しにぶっきらぼうな声を出す。


「ふふっ、お父さんは相変わらず素直じゃないわね」


「もう、お父さんの分からず屋! ぷんぷん!」


小さな少年は、可愛らしく頬を膨らませてふくれた。


「コらコら、そんなにお父さんをいじめないの。着いたらみんなで――」


その時、母親は自分を抱きしめる小さな腕の温もりを感じた。


「お父さん、お母さん、僕と妹を連れてきてくれてありがとう。大好きだよ」


母親は愛おしそうに微笑み、息子を見つめた。


「どういたしまして。いい、忘れないでね。私たちはいつまでも、あなたたちのことを守って、愛し続けるから……」


「お母さん、大好き……」


――ガシャァァァン!!


……


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


衝突の轟音は空中に消え、代わりに安っぽいアラームの執拗な電子音が響き渡った。


(くそっ……またか……)


17歳ほどの少年が、飛び起きるように目を覚ました。


最初に見えたのは、古びてひび割れた自分の部屋の天井だった。


色鮮やかな光など、どこにもない。


笑い声もない。


遊園地なんて、あるはずもなかった。


そこにあるのは、ただ静まり返った部屋だけだ。


彼は胸に手を当て、激しく打ち鳴らす心臓の鼓動を鎮めようとした。


身体が重い。だが、彼は重い腰を上げた。自分の両手を見つめ、血がついていないか確かめるようにした後、動き出す。トラウマに浸っている時間など、彼にはないのだ。


着替えを済ませると、彼は隣の部屋へと向かった。


部屋に入ると、そこにはベッドに横たわる幼い妹の姿があった。その顔色は、どこか青白い。


「……お兄ちゃん?」


小さく、弱々しい声だった。


少年はすぐに歩み寄った。


「おはよう、けい。今日の気分はどうだ?」


妹を怖がらせないよう、彼は無理に笑顔を作った。


「ちょっと疲れちゃった、お兄ちゃん。でも、元気だよ。……ねぇ、また怖い夢を見たの?」


その言葉に、少年の身体が微かに強張った。


「いや、ただ……早く目が覚めただけだ。変なことを聞くな」


兄が嘘をついていることを見抜き、圭は力なく首を振った。


「息が苦しそうだったから……泣いてるんじゃないかって思ったの」


彼は視線を逸らした。


「馬鹿言うな、俺が泣くわけないだろ」


圭は弱々しく、だが優しく微笑んだ。


「嘘つき……いつもそう言うんだから」


れんは歩み寄り、彼女の身体に毛布をかけ直した。


「もう少し寝てろ。俺はもう学校に行かなきゃいけない。朝飯を準備したらすぐに出るからな、いいか?」


「うん」


彼が部屋を出ようとしたその時、けいが最後にもう一度、彼の名を呼んだ。


「お兄ちゃん……」


「どうした、圭?」


「ありがとう……私と一緒にいてくれて」


少年はその言葉を噛みしめるように、数秒間沈黙した。そして、ついに微かな溜息とともに微笑みを浮かべた。


「礼なんて言うな。俺はいつだってお前のそばにいるし、お前を守ってやる。……な? だから、今は休め」


「分かった。……お兄ちゃんも、ちゃんと何か食べてね。……れん


自分の名を呼ばれ、彼は一瞬だけ身体を強張らせた。だが、妹にただ微笑みを返し、朝食の準備へと向かった。


蓮と呼ばれた少年は、手早く妹のために栄養のある朝食を作り上げた。一方で、自分は一日を乗り切るためのパンとコーヒーだけで済ませる。


妹の分を運び終えると、彼は自分の部屋に飛び込み、慌ただしく着替えながら鞄に荷物を詰め込んだ。


「あぁ、くそ……また遅刻しそうだ。次はもっと早く動かねえと」


彼はそう毒づきながら、学校に向かって家を飛び出し、全力で駆け出した。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇


「さて、今日の授業のテーマは――」


その時、教室の扉が勢いよく開き、蓮は深く頭を下げた。


「先生、おはようございます。遅れて申し訳ありません。少し時間が取れなくて……。どうか、入室の許可をいただけないでしょうか」


クラス中の視線が彼に集まり、教師は落胆したような眼差しを向けた。


星野ほしの君……今週で三度目ですよ。一度や二度ならまだしも、三度も遅刻するなんて」


以前にも同じ過ちを繰り返している自覚がある蓮は、次第に焦りを感じ始めた。


「すみません、先生。二度とこのようなことがないよう気をつけます。必要なら減点していただいて構いません、ですから、どうか中に入れてください」


教師は彼をじっと見つめていたが、やがて小さく溜息をついた。


「分かりました、星野君。入りなさい。早くノートを出しなさい」


れんは急いで教室に入り、席に着いた。


「ありがとうございます、先生」


彼は教室の最後列に座り、誰の目にも触れないよう気配を消そうとした。周囲ではクラスメイトたちがひそひそと囁き合っている。彼らにとっての星野ほしの蓮は、今にも倒れそうな、どこか不気味な「変人」にしか見えなかった。


だが、他の誰よりも重く突き刺さる視線があった。


「相変わらずの遅刻……なんて無責任なのかしら」


数メートル先、中央列の席から**たちばな りん**が彼を冷ややかに見つめていた。それは同情の眼差しではなく、自分の完璧な教室の美観を、彼の乱れた存在が汚していると言わんばかりの嫌悪の視線だった。 彼女は常に完璧だった。シワひとつない制服、艶やかな髪、そして人生のすべてを約束された者だけが持つ、圧倒的な優越感。


蓮は自分に向けられる陰口も、彼女の棘のある言葉もすべて分かっていた。だが、彼はいつも通りそれらを無視し、授業に集中することに決めた。今の彼には、高慢な令嬢とやり合うような余力など残っていなかったのだ。

数時間後、教師は黒板を数式の列で埋め尽くした。それは数学というよりも、どこか異星の言語のように見えた。


交わり(インターセクション)。


結び(ユニオン)。


補集合コンプリメント


三つの集合が、まるで複雑な蜘蛛の巣のように重なり合っている。


「いいですか、皆さん。明日までに、この三つの集合の問題を解いてきなさい。最後の問題をノーミスで解けた人には、中間試験で加点を与えます」


教室中にざわめきが広がった。


「三つの集合……?」


「これ、もう地獄級だろ……」


りんは眉をひそめた。


彼女は自分のノートを見つめ……


それから黒板を仰ぎ……


もう一度、自分のノートに目を落とした。


彼女には、さっぱり理解できなかった。


「どうして、単純なことをわざわざ難しくするのかしら……」


不満げに、りんは低く呟いた。


その一方で、れんはすでにペンを走らせていた。


まず集合を定義し、図を描き出す。そして最後に、数式を組み立てる。


十分にも満たない時間で、彼はすべてを解き終えていた。


(よし……これで休み時間にやらなくて済む。少しでも寝ておこう)


今の蓮にあるのは、ただ「休みたい」という一心だった。放課後のアルバイトのために、少しでも体力を温存しておかなければならない。


チャイムが鳴ると、彼は振り返ることなく教室を後にした。


背後から、桃色の髪の少女が自分を追ってきていることなど、知る由もなかった。


(あの変人……どうしてあんなに早く解けたのよ?)


階段を上がり、屋上へと向かう彼の背中を見届けたところで、彼女は意を決して声をかけた。


「ちょっと、そこの変人」


れんは目を開けることすらしなかった。


「……たちばなさん?」


彼女は腕を組み、不機嫌そうに言い放った。


「べ、別にあなたを探してたわけじゃないわ。変な勘違いしないでちょうだい……」


蓮は不思議そうに首を傾げた。


「じゃあ……何か用か?」


りんは、ふいっと視線を逸らした。


「……宿題よ」


沈黙が流れる。


「さっぱり分からなかったの」


蓮は瞬きをした。


「俺に解いてほしいのか?」


「ち、違うわよ! いえ……そうなんだけど、でも……ここではダメなの」


彼女は唇を強く噛んだ。


「誰かに見られたら、他人の宿題を代行してるってことで……あなた、処罰されるでしょ?」


蓮は真剣な眼差しで彼女を見つめた。


「……あぁ」


「だったら……私の家に来なさい」


れんは驚いたように目を見開いた。


「君の家に……?」


「お、教えなさいって言ってるのよ。それだけよ」


「……悪いが、無理だ。今日の放課後はもっと大事な用がある――」


「お礼はするわ。お金を払うってことよ」


その言葉が、彼の足を止めた。


「……何だって?」


(金か……。手早く済ませて、バイト代と合わせれば……けいの薬をもっと買えるかもしれない)

蓮は小さく溜息をついた。


「……分かった。だが今日だけだぞ」


りんは、ぱちくりと瞬きをした。


「えっ? 本当にいいの?」


「あぁ。だが、騒ぐなよ。誰にも言うな」


彼女は蔑むように視線を逸らした。


「……チッ。誰がこんなこと言いふらすもんですか」


だが、彼女の胸の内には小さな勝利の笑みが浮かんでいた。


(結局、世の中はお金で動くのね……。こんな変人でさえも)


知る由もなかった。その考えこそが、彼女が後に最も後悔することになる最初の「思い込み」になるとは。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇


放課後から数時間後、りん星野ほしのに自宅の住所を送り、彼を呼び寄せた。


「……誰かいますか?」


れんは、その巨大な屋敷の門の前で、誰かが出るのを待ちながら声をかけた。


しばらくすると、凛が自ら扉を開けて現れた。


「あら、意外と早かったわね。……び、びっくりしたわ。私は専用車で帰ってきたばかりなのに、あなたはどうやってこんなに早く着いたのよ?」


「そんなこと、どうでもいいだろ」


蓮は疲れ切り、どこか苛立ったような、急ぎ足のトーンで言い返した。


「早く中に入れてくれ。宿題を終わらせたいんだ」


「……チッ。入りなさいよ。さっさと二階へ上がって」


屋敷に足を踏み入れた瞬間、蓮の目に飛び込んできたのは、あまりにも豪華な内装だった。自分と彼女の間の、残酷なまでの社会的格差がそこにはあった。


(この甘やかされたお嬢様……。俺と妹が送っている生活とは、一体どれほどかけ離れているんだ……?)


彼女の部屋にたどり着くと、予想通り、そこは見事に装飾された空間だった。


(……部屋一つとっても、この広さかよ)


れんは驚きを隠せなかったが、時間を無駄にするつもりはなかった。彼は彼女のデスクに座り、教師が出した問題を猛烈な勢いで解き始めた。


「あぁ、字は綺麗に書きなさいよ。私の字が下手になったなんて思われたくないんだから」


「……チッ、分かったよ」


(この女……注文が多いな。せめて報酬が良くないと、やってられないぜ)


蓮が黙々と手を動かす間、りんはベッドに腰を下ろし、足を組んで彼を上から下まで値踏みするように眺めていた。


「ねぇ、あなた。替えの制服は持っていないの? それ、湿気たような跡があるし……。それに、あなたの手、豆だらけじゃない。暇な時に何をしてるの? 石でも運んでるのかしら?」


蓮の身体が強張った。彼はペンを握る手に思わず力が入る。この手の傷や豆は、すべて幼い妹の薬代を稼ぐために働いて得た、戦いの証だ。


「……あんたには関係ないだろ」


れんの怒りは隠しようもなく、りんもそれに気づいていた。彼が苛立つのを見て、彼女はさらに追い打ちをかけるように、数枚の五千円札を取り出すと、それを扇子のように仰いで見せた。


「そんなにお金が欲しいの? 単純な人生ね。お札を数枚見せただけで、犬みたいに尻尾を振って動くんだから」


「……あんたに何と言われようが知ったことか、この甘ったれが」


その言葉に凛の表情が変わり、彼女は勢いよく立ち上がった。


「あら、自分の立場が分かっているのかしら? ……報酬を減らしてもいいのよ?」


(くそっ……。もしそんなことをされたら、ここに来た意味がなくなる……!)


「待て……今の冗談だ」


蓮は屈辱に耐え、プライドを押し殺して言葉を絞り出した。けいのために、この金はどうしても必要なのだ。


「ふん、最初からそう言えばいいのよ。目上の人間にはもっと従順になりなさい。……ねぇ、もっと報酬が欲しいなら、あなたの事情を話してみたらどう?」


蓮の怒りは限界に達しつつあった。


「それはあんたには関係な――」


凛は冷笑しながら、さらに一枚の札を財布にしまい込んだ。


「これ以上お札が減っていくのは、見ていて悲しいわよね? ……星野ほしの君?」


れんの怒りはさらに膨れ上がったが、それでも彼は耐え続けた。


「さぁ、答えなさいよ、変人君。どうしてそんなにお金が欲しいの? ……まさか、彼女とのデート代も払えないのかしら? あぁ、ごめんなさい。そもそも、あなたみたいな人を愛してくれる人なんて、この世にいるのかしらね?」


彼女は小馬鹿にするようなトーンで、彼をあざ笑った。


「……たちばな。黙れ」


彼の声は、押し殺した怒りで震えていた。そして、ついに限界が訪れた。


――パキッ!!


机の上で鉛筆が折れる音が、静まり返った部屋に銃声のように響いた。蓮は砕けた木の破片を放り出し、ゆっくりと立ち上がった。りんの目を見ることはなかった。


「……楽しいか?」


彼の声は、彼女が期待していたような従順さなど微塵もない、低く掠れた囁きだった。凛は不敵に片方の眉を上げた。


「楽しいかって? ……あなたのその惨めな現実を見てること?」


れんは歯を食いしばった。


「違う……。あんたはこの部屋に、このエアコン、高い柔軟剤の香りがする服……。そんなものに囲まれて、ただ今日を生き抜こうとしてる人間を踏みにじって楽しんでるだけだ」


部屋の空気が一変し、その威圧感にりんは思わず一歩後退りした。


「ちょ、ちょっと。ただの冗談じゃない。そんな陰気な顔しないでよ……」


蓮は机の上に、折れた鉛筆を乾いた音とともに放り投げた。


「……宿題は終わった」


彼は背を向け、扉の方へと歩き出した。


「ちょっと! どこへ行くつもりなの!?」


蓮は一瞬足を止め、彼女の目をまっすぐに見据えた。その瞳の中に、凛は世界の底辺を見てきた者の深淵を見た。


「仕事だ」


「宿題はどうするのよ!?」


「そこに置いてある」


凛は眉をひそめた。


「……まだ、報酬を払ってないわ」


蓮は視線をそらし、吐き捨てるように言った。


「……その汚い金は、あんたが持ってろ」


凛は絶句した。手にしていた五千円札の束が、急にただの価値のない紙屑のように感じられた。


「えっ……?」


「あんたの金なんて、いらない」


彼は扉を開けた。


「……二度と、あんたの顔なんて見たくない」


――バタン。


扉が閉まり、後に残ったのは、重苦しい沈黙だけだった。


「……チッ」


りんは、手の中の札束を強く握りしめた。


「一体、何なのよ……あいつ……」


だが、その時、彼のあの表情を思い出した。 それは単なる怒りではなかった。 ……絶望、だった。


凛は窓の外に目を向けた。 そこからは、表の通りが見渡せた。 そして、彼の姿を捉えた。 れんは鞄を肩にかけ、目に見えない何かを背負っているかのように背を丸め、足早に歩き去っていく。


「……」


考えるより先に、彼女は上着を手に取っていた。


「あの馬鹿……私をあんな風に侮辱して、ただで済むと思ってるのかしら?」


彼女は勢いよく扉を開けた。 そして、彼を追った……。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


(くそっ……あの女の宿題なんて、引き受けるんじゃなかった……!)


夕焼けが空を真っ赤に染め上げる中、れんは街を駆け抜け、一軒のレストランへと辿り着いた。


「店長、遅れてすみません! 実は――」


言いかける前に、店長が彼の顔にエプロンを投げつけた。


「このクソガキが! 言い訳してねえで、さっさと客の相手をしやがれ! 遅れた分は給料から差し引くからな、分かったか!?」


店長は威圧的な怒鳴り声を上げた。


「……はい、店長」


蓮が必死に客の対応に追われる中、りんは店の外から、できるだけ身を隠しながらその様子を窺っていた。


「……何なのよ。どうしてあんな奴に言い返さないの? それに、あんなの……人道に反するような労働環境じゃない」


りんは好奇心の入り混じった眼差しで、そのすべてを見つめていた。恵まれた家庭に育った彼女は、生活の困窮など一度も経験したことがない。自分の殻の外にある世界を目の当たりにし、彼女の心には言いようのないざわつきが生まれていた。


二時間が過ぎ、客足が途絶える頃、夜の闇が街を包み始めた。


「店長、これで今日の最後の客です」


「当たり前のことを言うんじゃねえ、ガキが。給料が欲しけりゃ、さっさと掃除しやがれ!」


れんは奥歯を噛み締め、生唾を飲み込んで頷くと、黙々とテーブルを拭き始めた。


数分後……。


「……テーブルの清掃、終わりました」


店長は一つ一つのテーブルを舐めるように点検して回り、最後に卑劣な笑みを浮かべた。


「ふん、悪くねえな。ほら、給料だ。取っとけ」


店長はポケットから、しわくちゃの札と小銭を放り投げるように蓮に渡した。


「……これだけ、ですか?」


「あぁ? 単純な作業に大金を払うとでも思ってんのか、ええ?」


蓮は目を閉じ、静かに首を振った。


「よし。だったらさっさと失せろ。明日は遅れるんじゃねえぞ、分かったか!」


「……はい、店長」


少年は店の外へ出ると、小銭と札を数え始めた。その目は虚ろで、背を丸めて歩く姿には、フラストレーション、ストレス、そして崩壊寸前の疲労が滲み出ていた。誰かが自分を追っていることなど、知る由もなかった。


(……どうして? 理解できないわ。星野ほしの、どうしてあんな屈辱に耐えてまで……。一体、何のためにそんなにお金が必要なのよ……)


りんは距離を保ちながら、彼がどこへ向かうのかを見守っていた。やがて、彼は一軒の薬局へと吸い込まれていった。


(薬局? 一体、何のために……?)


れんは店に入ると、自分の番が来るのを静かに待った。


「こんばんは。今日はどうされましたか?」


「こんばんは。……この薬を、お願いします」


彼の声には隠しきれない疲労が混じり、酷いくまの浮き出た瞳がその過酷さを物語っていた。


「はい、かしこまりました。……お会計は七千八百円になります」


蓮は心臓が止まるかと思った。


「えっ……。い、今……七千八百円と言いましたか?」


「はい、左様でございます」


れんは手元のお金を数え直し、残酷な現実に直面した。まだ半分近くも足りない。


「す、すみません。……今は半分しか持っていなくて。残りは明日、あるいは分割で払わせてもらえませんか? お願いします、どうしてもこの薬が必要なんです」


薬剤師は疑わしげな目を向けたが、やがて小さく溜息をついた。


「……分かりました。ですが、今回だけですよ」


蓮の顔に、疲れ切ってはいたが、心からの安堵の笑みが浮かんだ。


その様子を、りんは影からじっと盗み見ていた。


(七千八百円なんて、大した額じゃないはずなのに……。あんなに必死に食い下がるなんて。本当にお金に困ってるの? ……くそ、やっぱり宿題の報酬を渡しておくべきだったわ。あんな風に追い返したりせずに)


彼女は微かな、自分でも気づかないほどの悲しみを込めて溜息をついた。蓮が薬の袋を手に店を出てくると、彼女は素早く身を隠した。


(あの薬の量……。本人のためだとしても、多すぎるわ。あんなに大量の薬を見たのは、お父様の病院にいた時くらい……)


蓮は沈黙の中、重い足取りで歩き続けた。極度の疲労のせいで、背後に誰かがいることなど、今の彼には察する余裕もなかった。


「……はぁ。やっと、家に着いた」


彼は疲れ果てた溜息をついた。家に入る直前、腹がグーッと鳴った。朝から何も食べていないのだ。


「……くそ。いや、けいにこんな姿を見せるわけにはいかない。嘘を通し通さなきゃ」


彼は家の中へと入ったが、極度の疲労とストレス、そして空腹のせいで注意力が散漫になっていた。無意識のうちに、玄関の扉をわずかに開けたままにしてしまったのだ。


「……ただいま」


狭い家の中を通り、二階にある妹の部屋へと向かった。そこには、小さな机に向かって勉強している彼女の姿があった。


「お兄ちゃん!」


圭は立ち上がると、おぼつかない足取りながらもれんに駆け寄り、力いっぱい抱きついた。


「お兄ちゃん、寂しかったよ! 今日はどうだった?」


蓮は一瞬圧倒されたが、すぐに優しい微笑みを浮かべ、幼い妹の頭をそっと撫でた。


「……少し大変な一日だったけど、心配ないよ。全部うまくいってるから」


「よかった! ……ねぇ、お兄ちゃん。その袋の中身は何?」


れんは袋を差し出した。


「お前の薬だ、けい。これでしばらくは心配いらないからな……」


二人の兄妹が言葉を交わす様子を、りんは外から息を潜めて聞き入っていた。


(……あの子のための薬だったのね。信じられない……。だからあんなにお金に執着してたの? あの店長に屈辱を味わわされてまで……。くそ、私はあなたのことを完全に勘違いしてたわ、星野ほしの。このお金は、私よりもあなたのほうがずっと必要なはずなのに……)


彼女はためらいながらも、意を決して扉に近づいた。ノックをしようとしたその時、扉がわずかに開いていることに気づいた。


(……えっ? 鍵を閉め忘れたの? 何を考えてるのかしら。……いえ、あんなに疲れ切ってたら無理もないわね。ノックをしても、追い返されるだけかもしれない。だったら、このまま入るほうが……。でも、これは……いけないことだわ)


一瞬の葛藤の後、持ち前の衝動的な性格が勝った。彼女は静かに、忍び足で中へと足を踏み入れた。 凛は、自分の高価な靴が古い木の床の上で音を立てないよう、細心の注意を払いながら一歩を踏み出した。


そこは狭く、つつましい場所だった。家具は古びていたが、清潔に保たれている。贅沢も快適さもない……ただ、そこにあるのは「懸命に生きる足跡」だけだった。 家の至る所から欠乏の叫びが聞こえてくるようだった。カビの浮いた壁、数枚の清潔な皿だけが置かれた台所、そしてチカチカと点滅する黄色い電球。


りんは、半開きになった部屋の扉の前で足を止めた。


「お兄ちゃん、ご飯食べた? 朝残していったスープ、少し取っておいたよ……」


けいの声は小さかったが、大勢の使用人に囲まれて育った凛が、自分の家では一度も聞いたことのないような深い慈愛に満ちていた。


「心配いらないよ、圭。店で食べてきたんだ。遅くまで残ったからって、店長がご馳走してくれたんだよ」


れんは妹を心配させまいと、優しい嘘をついた。


それを聞いた凛は、思わず拳を握りしめた。それが嘘だと分かっていたからだ。彼はあそこから、空っぽの手と鳴り響く腹を抱えて出てきたのを、彼女はこの目で見ていた。


「本当? よかった! ……じゃあ、これ、お兄ちゃんにあげる」


凛は数ミリだけ、中を覗き込んだ。少女が、しわくちゃの紙に包まれた小さな飴玉を蓮に手渡しているのが見えた。


「カバンの中にあったの。お兄ちゃんが疲れないように……あげるね」


れんは、その飴玉をじっと見つめていた。一瞬、彼の肩が微かに震えた。泣いてはいなかったが、まるで世界中の重みがその背中にのしかかっているかのようだった。彼は屈み込むと、切実な思いを込めて妹を抱きしめた。


「ありがとう、けい。……ちょうど、これが欲しかったんだ」


りんは喉の奥が熱くなるのを感じた。彼女には札束ならいくらでもあるが、こんな風に抱きしめてくれる相手は一人もいなかった。幼い頃から使用人に囲まれ、父は多忙な医師、母は国々を飛び回る女性。彼女にとって、この光景は未知のものだった。ポケットの中の金が、急に鉛のように重く感じられ始めた。


その時、彼女の足が床に転がっていた空き缶に触れた。


――カーン!!


静まり返った家の中で、その音は耳をつんざくほどに響き渡った。


蓮は弾かれたように振り向き、圭は怯えたように身を縮めた。


「お、お兄ちゃん……今の、何?」


蓮は一瞬で立ち上がり、自分の体で圭を庇うように立ちはだかった。その瞳には、再び追い詰められた獣のような鋭さが宿っていた。


「……誰だ、そこにいるのは!」


凛は、もう隠し通せないことを悟った。彼女はゆっくりと扉を押し開け、その悲惨な光景の中で、場違いなほど完璧な姿を現した。


「……私よ」


れんは呆然と立ち尽くした。


「……たちばな……?」


「わ、私……。扉が開いていたから……」


沈黙が流れる。


けいは不思議そうに蓮を見つめた。


「お兄ちゃん、その人……知り合いなの?」



そして、りんの方を向いて問いかけた。


「お兄ちゃんのお友達?」


蓮の身体が強張った。


「違う……。ただの、クラスメイトだ……」


凛は拳を握りしめた。


「……宿題を代行させた、金持ちの女よ」


圭は首を傾げた。


「宿題……?」


蓮は眉をひそめ、拒絶の意志を露わにした。


「凛、ここから出て行け。あんたが来るような場所じゃない」


凛がさらに一歩踏み込むと、蓮は即座に反応した。彼は圭の部屋の棚から、迷うことなく包丁を手に取った。


「……出て行けと言ってるんだ!」


凛の全身に緊張が走った。包丁を握る蓮の手は、激しく震えている。彼は怯えていた。人を傷つけたことなど一度もない。だが、妹のためなら、彼は恐怖を飲み込み、修羅になる覚悟だった。


「争いに来たんじゃないわ、星野ほしの。ただ……」


「黙れ! 出て行けって言っただろ!」


れんの動揺は激しくなり、包丁を握る手にさらに力がこもる。


「星野、聞きなさいよ! どうして言わなかったの? 妹さんの薬代のために働いてるなんて……」


蓮が絶句した隙に、りんは堰を切ったように言葉を重ねた。


「あんた、あんな店長に屈辱を味わわされて、酷い環境でこき使われて……。あんな、たった数枚の小銭のために。……全部、この子のためにやってたんでしょ?」


蓮は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばり、けいは信じられないといった様子で目を見開いた。


「……黙れと言ってるんだ!」


圭は、震える声で兄を見上げた。


「……お兄ちゃん。本当なの?」


蓮は視線を落とし、喉の奥で生唾を飲み込んだ。


「……あぁ。……そうだよ」


圭は、手元の薬の袋をぎゅっと抱きしめた。


「じゃあ……ずっと、私のために……」


れんは溜息をつき、一度はりんへと向けた包丁を強く握り直したが、意を決して幼い妹へと視線を向けた。


「聞きなさい、けい。……俺がどれだけ疲れようが、関係ないんだ。お前が、生きていてくれるなら……。俺には、それだけで十分なんだよ」


そのあまりにも純粋で重い言葉に、圭は堪えきれずに泣き崩れた。


「お、お兄ちゃん……。私のせいで苦しむなんて、嫌だよ……っ!」


「お前のせいじゃない。……圭、お前は悪くないんだ」


凛は、胸が締め付けられるような思いでその光景を見つめていた。しかし、蓮は怒りに満ちた目で彼女を射抜いた。


「これで満足か? 二度と顔を見せるなと言ったはずだ。それなのに、あんたは約束を破ったどころか、俺の家まで押し入って、妹を泣かせたんだぞ……!」


凛は生唾を飲み込んだ。彼の言う通りだ。返す言葉もない。


(……この人は、変人なんかじゃない。……一人で、世界を背負って戦っている人なんだ)


凛は震える手で、コートのポケットからゆっくりと札束を取り出した。


「……星野ほしの


蓮の怒りは頂点に達し、包丁を握る手に一層力がこもる。


「……その金はいらないと言ったはずだ!」


りんは彼の方へ歩み寄り、手元にある机の上にそっと札束を置いた。


「……報酬じゃないわ」


沈黙。


「……助けよ」


れんは、困惑と恐怖、そして激しい怒りが入り混じった目で彼女を見つめた。


「……一体、何を企んでるんだ?」


凛は生唾を飲み込み、力なくこうべを垂れた。


「私は……。ただ、すべきことをしているだけ……」


蓮の身体が激しく震え、わずかに残っていた正気と忍耐がついに限界を迎えた。


「俺が毎日、何をどんな思いでしてるか分かってるのか!? 嘘をつき、働き、笑い……屈辱に耐え続けるんだ!」


彼は奥歯が砕けんばかりに歯を食いしばった。事態が最悪の結末を迎える、その直前――。


「お兄ちゃん、お願い。待って、やめて……っ!」


けいは、残された僅かな力を振り絞って兄の制服の裾を引っ張った。先ほどの衝撃的な告白に、彼女の涙は止まらない。それでも必死に兄を見つめるその瞳が、れんの心の中にある「何か」を決定的に打ち砕いた。


「お願い、お兄ちゃん……。そのお金を受け取って。それで、少しだけ休んでよ……。後悔するようなことはしないで、お願いだから……っ!」


彼女は泣きじゃくりながら、蓮の制服にしがみついた。その姿を目の当たりにしたりんは、言いようのない哀れみと、胸を強く締め付けられるような激痛を感じていた。


「……」


包丁が鈍い音を立てて床に落ちた。れんは片手で顔を覆い、激しく震えていた。怒りは霧散し、そこにはただ、限界を迎えて崩れ落ちそうな十七歳の少年の抜け殻だけが残されていた。


「……帰れ」


蓮が囁いた。今度は憎しみではなく、壊れそうなほどに切実な願いだった。


「……お願いだ、帰ってくれ……」


りんは、兄にしがみついて泣きじゃくるけいを見つめ、それから蓮に視線を移した。この貧しい部屋の中で、机の上に置かれた金の輝きが、まるで彼らを侮辱しているかのように見えた。


「私は……。お金のことなんて、一度も考えたことがなかった……。これは……、謝罪だと思って受け取って」


彼女はそれだけ言い残すと、出口へと向かった。


「……明日」


扉の前で、凛は足を止めた。振り返ることはなかった。


「……明日、学校に遅れないでね、星野。……待ってるから」


それは命令ではなかった。ただ、明日も彼がそこにいてほしいという、彼女の心からの願いだった。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆◆ ◇ ◆


りんは、冷え切った夜の街へと飛び出した。通りの空気は、もはや彼女にとってそれほど汚れたものには感じられなかった。


数ブロック先で待機していた自家用車に乗り込み、彼女は生まれて初めて、声を上げて泣いた。 自分の住む豪邸が、あの「変人」の荒れ果てた家よりもずっと空虚であることに、彼女は気づいてしまったのだ。


一方、あの狭い部屋では、れんが薬を一錠取り出し、けいに飲ませていた。それから、彼は机の上の金を手にした。それを胸に強く抱きしめ、彼は久しぶりに、あの「事故」の悪夢を見ることなく、深い眠りについたのだった……。


第1章の終わり


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ここまで読んでくださった皆さん、本当にありがとうございます! 今回の新しい物語は、少し深みのあるテーマを扱っていますが、きっと皆さんに楽しんでいただけると確信しています。 もしここまで辿り着いてくれたのなら、この作品を**「お気に入り」**に追加して、感想を聞かせていただけると大きな励みになります。

この第1章について、どう思われましたか? 良かったか、悪かったか……あるいは「今すぐアカウントを消せ!」なんて厳しい意見でも構いません(笑)。皆さんの判断に委ねます! 質問があれば何でも答えますので、気軽にコメントしてくださいね。

それでは、第2章も楽しみにしていてください!

執筆:零時卿また次回お会いしましょう!


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