第7章 心の扉をたたく日
今回の章では、あまねが心療内科を受診し、自分の“心”と向き合う姿が描かれます。
過呼吸や不安、トラウマに関わる描写がありますが、必要以上に重くならないよう丁寧に書いています。
痛みを描くことは、苦しみを広げるためではなく、
“それでも生きようとする光”を伝えるため。
無理のない範囲で、そっと見守っていただけたら嬉しいです。
白い廊下に、柔らかな木の香りが満ちていた。
壁際には観葉植物が並び、控えめなピアノの音がスピーカーから流れている。
ここは、あまねが自分の意思で選んだ場所。
心療内科《古寺クリニック》の待合室だった。
「ケンジに向き合ってみる」——そう言ったあの日。
ケンジに教えてもらった。
病院に行って、自分自身の中にある“何か”と向き合うために来た。
手の中の診察券を見つめながら、あまねは小さく息をのむ。
指先が微かに震えている。
胸の奥では「怖い」という感情と「前に進みたい」という想いが、せめぎ合うように渦を巻いていた。
ケンジ、ぼく、今。
手が震えて、上手く文章が打てない。
そんな中、彼から返信が届いた。
大丈夫。無理に話さなくてもいい。
ここは、あまねが自分のペースでいられる場所だから。
女性専用のクリニックのため、男性の付き添いは受付のあと、裏口から別室へと案内される。
ケンジはそこで待ってくれていた。
その言葉を見て、あまねは小さく頷いた。
かつて外の世界で押しつぶされそうになった日々。
自分の声が誰にも届かなかったあの夜。
それでも今、自分はここにいる——その事実が、少しだけ誇らしかった。
「四ノ宮さん、四ノ宮天音さん。診察室にお入りください。」
看護師の声に導かれ、あまねは立ち上がった。
ドアを開けると、白衣の女性医師が穏やかに微笑んでいた。
「こんにちは、あまねさん。初めまして。今日は来てくださってありがとうございます。」
「……はい。あの、ちょっと緊張してます。」
「大丈夫ですよ。ここでは無理に話さなくてもいいですからね。
話したいことを、少しずつ教えてもらえれば。」
あまねは小さく唇を噛み、言葉を探した。
そしてゆっくりと、両手を膝の上に置く。
「……怖くて、外に出られなかったんです。
でも、外に出たいって気持ちは、まだ消えていなくて。
この前、頑張って外に出たんです。そしたら心の中のもう1人の自分が嘲笑うんです。
“もう壊れてるのに”って。
そしたら、息ができなくなって……。
この前も呼吸ができなくなって、泣いてしまって……。
それまでは大丈夫だったのに、突然怖くなって……どうしてか分からなくて。」
「息ができなくなったのは、パニック発作のような状態だったかもしれませんね。
そのとき、どんな気持ちが一番強かったですか?」
「……“壊れる”って思いました。
また“ぼく”に戻っちゃうんじゃないかって……。
せっかく外に出られるようになったのに、全部崩れそうで怖かったです。」
医師は頷き、机の上のペンを軽く転がした。
その仕草が、焦らず話を聞く姿勢を感じさせた。
「とてもよく話してくださいましたね。
あまねさん、怖い気持ちをちゃんと“言葉”にできているのは、それだけ自分を見つめている証拠です。
“壊れる”って思うほどの痛みを、一人で抱えてきたんですね。」
あまねの目が、少し潤む。
「……ケンジがそばにいてくれたから、なんとか。でも、いつか見放されるんじゃないかって……。」
「大切な人の存在が“支え”になるのは素晴らしいことです。
でも、あまねさん自身の“支え”も、少しずつ育てていけるといいですね。
それが、自分の中に小さな“居場所”を作ることにつながります。」
「……わたし、自分の中に居場所を作ってもいいんですか?」
「もちろんです。
誰かのためだけじゃなく、自分のためにも“生きていい”んですよ。
外の世界も、あまねさんの世界も、どちらもちゃんと存在していい。」
あまねは静かに頷いた。
手の上で、少しずつ力が抜けていく。
医師の言葉が、胸の奥に柔らかく染み込んでいくようだった。
「今日はここまでにしましょうか。
次は、少し“呼吸の練習”をしてみましょう。苦しくなったときに使える方法を、一緒に覚えていきましょうね。」
「……はい。なんだか、少し楽になりました。」
「よかった。
“怖かった”を“怖かったです”って言えたこと、それだけで一歩なんですよ。」
その声は震えていたが、確かな芯を持っていた。
医師は静かに頷き、優しくペンを走らせた。
「ありがとう、あまねさん。じゃあ、待合室で待っててくださいね。」
あまねが診察室を出ると、看護師がケンジを呼んだ。
「失礼します。」
ケンジが入室し、椅子に腰を下ろす。
「あなたは……四ノ宮さんの恋人?」
「はい、そうですが。」
ケンジが答えると、医師は静かにうなずいた。
「彼女、とても頑張っていますよ。
話は以上です。あなたも四ノ宮さんを支えてあげてください。
私たちも最大限にサポートします。」
診察室を出たあとも、あまねの鼓動はしばらく速いままだった。
小さな勇気を振り絞った身体が、緊張のあとに静かに震えている。
けれど、その震えは“怖さ”だけではなく、“安心”という新しい感覚を帯びていた。
クリニックを出て、ケンジと合流する。
「話してみて、どうだった?」
あまねは少し考えてから、小さく首を傾げた。
「うまく言えなかったけど……なんか、ちゃんと聞いてもらえた気がした。」
「そうか。」
ケンジの声は、いつもより少しだけ優しかった。
ビルの外に出ると、夕方の風が冷たく頬を撫でた。
人の話し声、車の音、遠くで犬が吠える声——
それらが一斉にあまねの耳に流れ込む。
少し眩暈がして、足が止まった。
けれど今回は、立ち尽くすことはなかった。
「ケンジ。」
「ん?」
「……音って、こんなにたくさんあったんだね。」
ケンジは少し驚いて笑った。
「そうだな。ずっと同じ街にいても、気づかないことのほうが多い。」
あまねは小さく息を吐く。
マスクの下で、笑おうとするように口角を上げた。
「前は、全部怖い音に聞こえてた。でも、今は……生きてる音に聞こえる。」
その言葉に、ケンジの胸が熱くなった。
彼女が“外の世界”に自分の居場所を少しずつ取り戻していく。
その瞬間に立ち会えることが、何より嬉しかった。
帰り道。
商店街の明かりが灯り始め、パン屋の前には焼きたての甘い香りが漂っている。
「寄ってみる?」
ケンジが言うと、あまねはほんの少し考えてから頷いた。
小さな袋を手にして外に出ると、あまねは歩きながら呟いた。
「パン屋の光って、あったかいね。……わたしも、あんな光を描けたらいいな。」
「描けるさ。」
ケンジの声に嘘はなかった。
その響きを、あまねは胸の奥で確かに感じていた。
部屋に戻ると、あまねはスケッチブックを開き、小さな文字で書き残す。
「また外に行ってみたい。少しずつ、怖くなくなりますように。」
その筆跡は、まだ震えていた。
けれど、その一行こそが——あまねが“生きる”と決めた証だった。
***
朝の空気は冷たくて、澄んでいた。
吐く息が白くほどけていくたびに、あまねの胸の奥が少しだけ高鳴る。
「……本当に、行ける?」
玄関の前で、あまねはマフラーの端を握りしめながらケンジに視線を向けた。
「無理はすんな。でも、外の空気くらいなら、きっと気持ちいいぞ。」
ケンジは穏やかに笑って、そっと手を差し出した。
あまねはその手を見つめ、ゆっくりと自分の手を重ねる。
指先が触れた瞬間、冷たかった指が少しだけ温かくなった。
「……じゃあ、ちょっとだけ。」
扉が開く。
外の光が差し込んだ瞬間、あまねの体がぴくりと震えた。
足元には小さく溶け残った雪。
街の遠くで聞こえる車の音、誰かの笑い声、風の音——
それら全部が、何ヶ月ぶりかに肌に触れるような感覚だった。
新たな最初の一歩。
靴底がアスファルトを踏む。
ほんの数秒のことなのに、心臓の音が耳の奥でやけに大きく響く。
「できたね。」
ケンジの声が優しく響いた。
あまねは少し照れたように笑い、息を吸い込む。
「うん……風、冷たいけど……気持ちいい。」
それから二人は、歩幅を合わせて並んで歩き出した。
角を曲がるたびに、あまねの視線が少しずつ上を向いていく。
カフェの看板、郵便ポスト、公園の並木道——
どれも以前は“遠い世界”だったのに、今日はそのひとつひとつがちゃんと“今ここにある”ように感じられた。
公園に着くと、風が枯葉を巻き上げた。
ベンチに腰かけたあまねは、空を見上げる。
白い雲の切れ間から、淡い冬の日差しが差し込んでいた。
「ねぇ、ケンジ。」
「ん?」
「……外って、怖いだけじゃなかったんだね。」
「そうだろ。寒いけど、ちゃんと暖かいもんもある。」
ケンジがポケットから小さな缶コーヒーを取り出し、あまねに渡した。
「ホット。手、冷えてるだろ。」
「ありがと……。」
缶を両手で包むようにして持つと、金属越しの熱がゆっくりと伝わってくる。
その温度に、あまねは少しだけ涙が出そうになった。
――怖くても、世界は優しさをくれるんだ。
そのまま二人は並んで座り、黙って空を見上げた。
どこかで子どもの笑い声が響く。
風が頬をなで、木々の間をすり抜けていく。
ほんの数分の外出だったけれど、あまねの中で、何かが確かに変わっていた。
その夜、ケンジに言おうと思っていた。
――「また一緒に外、歩きたい」って。
けれど、それは胸の中にそっとしまって、
もう少しだけこの余韻を味わうことにした。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第7章「心の扉をたたく日」では、
あまねが“自分の心”に静かに手を伸ばす姿を描きました。
壊れそうになりながらも、自分の言葉で「怖かった」と言えたこと——
それは小さくても確かな、一歩前の“生”の証です。
ケンジの支えがあっても、最終的に立ち上がるのは彼女自身。
この章を書きながら、“誰かの優しさに触れて自分を許せる瞬間”の尊さを、改めて感じました。
どうぞ、これからも灯火を見守っていただけたら嬉しいです。




