第六章 それでも前へ
この章では、あまねのパニック発作や心の不調が描かれます。
呼吸ができなくなるような描写や、過去の記憶に触れる場面があります。
それでもこの物語は、「苦しみ」そのものではなく、
“そこからもう一度、息をする”という小さな再生を描いています。
あまねが少しずつ世界と向き合っていく姿を、
無理のない範囲で見守っていただけたら嬉しいです。
・・・
・・・・・!
息が、できない。
胸の奥が、ぎゅうって、何かに締めつけられてる。
それなのに、空気だけが喉をすべっていく。
肺が空っぽになる感覚が怖くて、必死に息を吸っても、どこにも“空気”が入ってこない。
ハッと目を覚まし、時計を見ると深夜3時になろうかというところだった。
だけど――苦しい。怖い。
……やだ、やだ……やだよ……
頭の中で、ざわざわとノイズが鳴っている。
窓の外の風の音も、時計の針の音も、
全部が混ざって、ぐしゃぐしゃになって押し寄せてくる。
“息して”“落ち着いて”
そんな言葉を自分に言い聞かせても、もう届かない。
喉の奥が焼けるみたいに痛い。
指先は冷たくて、手が震えて、スマホを握っても画面がぶれて見えない。
……ケンジ……どこ……
名前を呼んだ瞬間、涙が勝手にこぼれた。
苦しい。助けてって言いたい。
でも、言葉が出ない。
マスクの下で息が跳ね返って、自分の呼吸音が、まるで誰かに追われてるみたいに怖い。
フッと鏡に映る自分の顔が、知らない人みたいだった。
泣きはらして、ぐちゃぐちゃで、「ぼく」なんて言ってたあの頃の自分が、
心の奥から笑っている気がした。
視界が、急に狭くなってきた。
何もしていないのに、心臓がどくどくと速くなって、息が浅くなる。
外に出た日の記憶が、胸の奥でざわついて、音も光も、全部が押し寄せてくる。
あれ……なんで、こんなに……苦しいの……
いつもの発作と違う感じがした。
“また、壊れるんだね”
――さっさと壊れちゃえばいいのにさ。
もうひとつのあまね、ぼくが心の中から冷たく嘲笑うように呟く。
それが頭の中に響いて離れない。
その声に、胸がズキンと痛む。
違う、もうあの頃とはあたしは違う。
ちゃんと外に出たし、ケンジもいる。
頑張ってる、頑張ってるのに――。
どうして……どうして……!どうして……‼︎
手当たり次第にクッションを抱きしめて、呼吸を止めようとしても、止まらない。
心臓が暴れて、視界が白く滲む。
あぁ、わたしこのまま死んじゃうのかな。
その時、ドアが開く音がした。
「あまね!」
声が届いた瞬間、あまねの中で何かが崩れた。
堰を切ったように涙があふれる。
視界の中に、ケンジが駆け寄ってくるのが見えた。
「……ケンジ……っ」
叫ぶように名前を呼んだ。
自分でも驚くくらい、声が掠れていた。
ケンジはすぐに近づいて、何も言わず、ただあまねの背中をゆっくり撫でた。
「もういい、もう大丈夫。息して。俺がいる。」
「わたし……頑張っているのに……なんで……なんで?なんで!どうして壊れてるの⁈どうしてこうなるの⁈」
感情が抑えられずに子どものように泣きじゃくるあまね。
だけどそれをケンジは大きな体と心で受け止めてくれた。
「壊れてなんか無い。あまねはあまねだよ。
泣いたっていい、怒ったっていい。俺はどんなあまねでも受け止めるよ。」
その声が、遠くで響くみたいに聞こえる。
でも、その“遠く”の音が、だんだん近づいてきて――
世界が、ゆっくり形を取り戻していった。
朝の光が、レースのカーテンを透かして部屋に差し込んでいた。
まぶたの裏に、その白さがじんわりと広がる。
昨日のことを、思い出す。
息ができなくて、世界が壊れそうで、怖くて――泣きじゃくって、
最後に、ケンジの胸の中で眠ってしまった。
隣には、まだ彼がいた。
毛布の端に、ケンジの手がかかっている。
たぶん夜の間、ずっとそばにいてくれたのだろう。
顔を上げると、シャツの袖が少し濡れているのが見えた。
……たぶん、あのとき、ぼく――いや、わたしが泣いた涙の跡。
テーブルの上では、ケンジが淹れた湯気の立つお茶が、かすかに香っていた。
「……ごめんね、昨日はびっくりしたでしょ」
かすれた声でそう言うと、ケンジは首を横に振った。
「謝らなくていい。無理に話さなくてもいいよ。」
あまねは、膝の上で手をぎゅっと握る。
その小さな手が、まだ少し震えているのをケンジは見ていた。
「……怖くなっちゃったの」
その言葉は、まるで心の奥をそっと掘り起こすように出てきた。
「外に出るの、すごく頑張ったんだけど……人の声とか、街の匂いとか、風の音とか……
全部が一気に押し寄せてきて……息ができなくなっちゃって……」
ケンジは黙って頷く。
あまねの言葉を途中で遮らず、ただ聞いていた。
「ケンジに、“一緒に外出よう”って言ってもらえた時、嬉しかったんだよ。
ほんとに、少しずつ前に進めた気がして……でも、外に出たらね……“世界が怖い”って気持ちも一緒に出てきちゃって……
私、何やってるんだろうって……分からなくなっちゃったの。」
涙が、もう一度こぼれる。
ケンジは静かにその手を取って、包み込むように握った。
「外が怖いのは、悪いことじゃないよ。
怖いって思えるのは、それだけ真剣に外を見た証拠だ。
少しずつでいい。無理に慣れようとしなくていいから。」
あまねはケンジの手を握り返し、震える唇で小さく笑った。
「……ありがとう。ケンジがいてくれて、よかった。」
二人の間には、言葉よりも深い静けさがあった。
恐怖の残り香の中に、確かに“安心”という小さな光が灯っていた。
***
数日後、とある公共施設の会議室で俺は老人女性と面談していた。
「……というわけなんす。」
「そう……それは大変だったね。」
女性の名は釘崎先生。
俺が昔からお世話になっているカウンセラーで、心理学の師匠でもある。
「彼女は病院には?」
「昔行ってたみたいですけど、投薬治療が苦しくて辞めたみたいで。」
俺がそう話すと――
「そっか。ひょっとしたら、そこの先生が合ってなかったのかもね。
ケー君、あなたはあまねちゃんを支えていく覚悟はある?」
「……俺はあまねと出会って、あまねはいろんなものをくれた。
俺はあまねがいたから、もう一度人を信じようと思ったんです。
今度は俺が支えてみせます。」
そう答えると釘崎先生は、スマホを取り出して病院のホームページを見せた。
「ここ、女性専用の病院なんだけどどうかな?
私はカウンセラーの立場として病院を“紹介”はできないけど、
弟子と師匠の関係なら、“こういう形態もある”って伝えることはできるよ。
ただ、ここがあまねちゃんに合うかは保証できないし、本人が行きたくないなら無理に連れていくのは逆効果。
それだけは覚えておいて。」
翌朝。
カーテンの隙間から、やわらかな朝の光が部屋に流れ込んでいた。
ほとんど眠れていない目元に、その光がそっと触れる。
また発作が起きるんじゃないかと、不安で仕方なかった。
あまねは布団の中で、しばらくぼんやりしていた。
胸の奥はまだ少し重たい。
“圧迫されるような息苦しさ”は、不思議と少しだけ遠のいていた。
隣ではケンジがまだ眠っていた。
静かな寝息が、部屋の空気を穏やかにしている。
その音を聞いているうちに、あまねの胸の奥がふっと温かくなった。
(……もう一度、外を見てみようかな)
あまねはゆっくりとベッドから降り、窓のそばへ歩く。
カーテンを指先でつまみ、少しだけ開ける。
冷たい朝の空気が、隙間から流れ込んできた。
頬をかすめるその冷たさに、あまねの心臓が小さく跳ねる。
でも――怖くはなかった。
街の遠くで車の音がして、鳥の鳴き声が響く。
ベランダ越しに見える空は、冬の始まりを告げるように淡く白んでいた。
あまねは小さく息を吸い込む。
それは発作後、どうしてもできなかった「深呼吸」。
指先が少しだけ震えながらも、彼女はその空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
胸の奥の痛みが、少しずつ、柔らかくほどけていく。
「……おはよう。」
背後から、ケンジの少し寝ぼけた声がした。
あまねは振り返り、窓辺の光の中で笑う。
「ねぇ、ケンジ。外の空気、ちょっと冷たいけど……気持ちいいよ。」
ケンジは目を細めて、あまねの隣に立った。
二人で並んで見る朝の空は、どこまでも静かで、優しかった。
あまねの中で、「外」はほんの少しだけ――怖くない場所に変わっていった。
「ねぇ……ケンジ。」
「どうした?」
「わたし、向き合ってみようと思う。――ぼくと。」
ケンジはハッとした表情の後、静かに微笑んだ。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第6章では、あまねが自分の「壊れた部分」と真正面から向き合う姿を書きました。
息ができないほどの不安の中でも、誰かの声や温もりが“希望”に変わる瞬間があります。
人は弱くても、優しさに触れるとちゃんと前を向ける。
それをこの章で少しでも感じてもらえたなら、何より嬉しいです。
次章では、あまねがその一歩を胸に、
“心の扉”を少しずつ叩いていく物語が始まります。
どうぞ、これからも見守ってください。




