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第5章後編 スノードロップ


 朝の光は、やわらかく部屋に差し込んでいた。

外はまだ冬の冷たい空気に包まれているけれど、カーテン越しに見える空の色はどこか穏やかだった。


「今日は……外、行ってみようかな。」


自分でも驚くほど自然に、その言葉が口をついた。

ケンジはちょうど仕事に出る準備をしていた。わたしの声を聞くと、振り返って少し目を丸くする。


「大丈夫か?」

「うん……少しだけ、街を歩いてみたいの。」


彼はしばらく考えてから、優しく頷いた。


「無理はすんな。でも、いいことだと俺は思う。」


わたしはお気に入りのマスクと、薄いグレーのコートを手に取った。

鏡の前で髪を軽く整え、耳にはいつものヘッドホンをかける。冬の光に包まれた自分の姿を見つめながら、小さく「大丈夫」と呟いた。


――外の空気は、やっぱり冷たかった。

でも、それが悪くなかった。


白い息が流れるたび、街の色が少しずつ目に入ってくる。

交差点の信号音、パン屋の甘い匂い、遠くから聞こえる子どもの笑い声。


前は全部“怖い音”にしか感じなかったのに、今は少しだけ、世界が“生きてる”ように見える。


ベンチに腰を下ろし、カップのコーヒーを手のひらで包んだ。

あたたかさが指に伝わり、その小さな温もりが心の奥まで染みていく気がした。


スマホを取り出し、ケンジにメッセージを送る。


『いま、街にいる。風が冷たいけど、ちょっと好きかも。』


返信はすぐに届いた。


『ゆっくりでいいよ。帰りは気をつけろよ。

あとで温かいスープでも作っとくよ。』


――その文字を見て、ふっと笑った。

街のざわめきの中で笑ったのは、いつぶりだろう。


帰り道、花屋の前を通ると、小さな白い花が並んでいた。

「スノードロップ」という札が立っている。

“希望”という花言葉が添えられていた。


私はひとつだけ、そっと手に取った。

冷たい指先に触れる小さな命。

なんだか、少しだけ自分と似ている気がした。



夜。ケンジが帰ってきて、玄関で靴を脱ぎながら言った。


「おかえり。今日は、どうだった?」


「うん……街が、少しだけ好きになれた。」


「あまね」と呼ぶ声がやさしくて、思わず顔を上げる。

ケンジの手の中に、私が買った小さな花が見えた。


「これ、あまねの?」

「うん。スノードロップ。希望の花なんだって。」

「……あまねに似合うな。」


その言葉に、マスクの下でふっと微笑んだ。

冷たい夜の空気が、少しだけ甘く感じた。



昼下がりの街は、冬の光に包まれていた。

あまねはコートの襟をきゅっと握りしめながら、ケンジの隣を歩いていた。


人の声、車の音、カフェから流れる音楽——

ひとつひとつがまだ胸の奥をざわつかせる。

それでも今日は、ほんの少しだけ心が軽かった。


“また外に出よう”と決めたのは、自分だったから。



「ちょっと寄っていい? 新しい画材見たいの。」

「もちろん。好きなだけ見てこい。」


俺の言葉に、あまねは微かに笑った。


美術店のドアを開けると、木の香りとインクの匂いが混ざって鼻をくすぐる。

店内には数人の客がいて、店員の女性が柔らかい声で「いらっしゃいませ」と言った。


その一言に、あまねの肩が小さく震える。

いつもなら、ただ会釈して逃げるように商品を眺めるだけ。


でも今日は、ほんの少し違った。



「すみません、このペン、試してもいいですか?」


その声は自分でも驚くほど小さかったけれど、確かに外へ出た。

店員がにこっと笑い、「もちろんどうぞ」と差し出す。


わたしはペンを受け取り、試し紙にゆっくりと線を引いた。

思ったよりも滑らかで、インクの伸びが心地いい。


「……これ、ください。」


その瞬間、胸の奥に小さな鼓動が広がった。

“話せた”。“ちゃんと伝わった”。


店員が袋を渡してくれる時、わたしはマスクの下で小さく笑いながら言った。


「ありがとう、ございます。」



外に出ると、ケンジが自販機の前で温かいコーヒーを買っていた。


「お、終わったか?」

「うん。……買えた。」

「そっか。すげえじゃん。よく頑張ったよ。」

「……たぶん、今年いちばん頑張ったかも。」


あまねは小さく笑って、買ったばかりの画材の袋をぎゅっと抱きしめた。


「なんかご褒美に甘いもんでも食べるか?」

「……いいね。あ、プリンがいい。」

「おっけー、じゃあコンビニ寄ってくか。」


そう言って歩き出すケンジの背中を、あまねは静かに見つめた。


少し前まで、外に出るだけで息が詰まっていたのに。

今は風の冷たさすらも、どこか優しく感じられる。


帰り道。ふと、あまねは右手の薬指に光るリングを見つめた。


「ねえ、ケンジ。」

「ん? どした?」

「外の世界、ちょっと好きになれたかも。」


ケンジは振り返らず、笑い声だけを風に乗せた。


「はっはっは、そりゃ、いいことだ。」

「……うん。でもたぶん、ケンジがいるから。」

「それでもいいさ。最初の一歩ってのは、誰かの隣で踏み出すもんだ。」


あまねはその言葉に、胸の奥があたたかくなるのを感じた。

雪のような光が、街のイルミネーションの中に溶けていく。

彼女の“社会への扉”が、静かに、確かに開き始めていた。



夜のリビングは、ストーブの灯りだけで照らされていた。

ケンジが帰ってくると、あまねは毛布にくるまったまま、ソファで丸くなっていた。


目の前のマグカップからは、ミルクティーの湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。


「……もう帰ったの?」

「うん。思ったより早く上がれた。」


ケンジは上着を脱ぎ、手を擦り合わせながら笑う。


「外、めちゃくちゃ寒かったぞ。明日、雪かもな。」


あまねはうつむいたまま、小さく頷いた。

マスクの奥で、何かを言いたそうに唇が動く。

けれど声は出ない。代わりに、両手でマグカップを包む仕草が、いつもより少しだけ弱々しい。


「……今日、仕事どうだった?」


ケンジが尋ねると、わたしはしばらく考えてから、ぽつりと答えた。


「ぼく、午前中ね……デザインの依頼、ひとつ断っちゃった。」

「無理したくなかったんだな。」

「……うん。悪い人じゃなかったけど、なんか……心が、ざわざわして。」

「正直でいいと思うよ。そういうのは大事だ。」

「……ケンジは、そう言ってくれると思った。」


わたしはかすかに笑った。その笑みは小さくて、儚いけれど、確かに“生きている表情”だった。


ケンジはキッチンに行き、ポットでお湯を沸かす。


「コーヒー飲む?」

「うん……少しでいい。」

「じゃあ、俺が作る。濃いめにして、牛乳多めでな。」

「……ありがと。」


お湯の音と、外の風が窓を叩く音が混ざり合う。

テレビもつけていないのに、部屋は妙にあたたかかった。


コーヒーを受け取ると、わたしは両手で包むように受け取った。

指先に触れた瞬間、手が少し震える。


それに気づいたケンジは、何も言わずに隣に座った。

沈黙の中で、二人の間に流れる空気が変わっていく。


数分後、あまねがぽつりとつぶやいた。


「……ねぇ、最近、外が怖くなくなってきたんだ。」

「お?」


「この前、コンビニ行ったとき……マスクしてても、風の匂いとか、人の話し声とかが、ちゃんと聞こえた。……なんか、懐かしくて。」


俺はうなずく。

「そういう日が増えるといいな。」

「うん……でも、まだ“行きたい”って思うまで、あと少し。……もう一歩、だね。」

「無理すんな。ゆっくりでいい。あまねのペースで、な。」


しばらくの沈黙のあと、あまねがマスクの端を指で軽く触れた。


「……ねえ、ケンジ。」

「ん?」

「わたし、もし……もう少し自分を好きになれたらさ、ちゃんと見てほしいと思う。」

「・・・!」

――それは、思わず息を止めるほどの言葉だった。


ケンジは少しだけ間を置いて、あたたかな声で答えた。


「もう見てるよ、あまね。」


あまねは驚いたように目を瞬かせて、やがて恥ずかしそうに俯いた。

マスクの奥で、確かに笑っていた。


 ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

第5章後編では、あまねが「外の世界」に進んでいく姿と、素顔の自分を見せる姿を描きました。


スノードロップ――その小さな花は、彼女にとっての“希望”であり、

ケンジにとっての“信じる理由”でもあります。


次章では、ふたりの関係がさらに一歩、静かに進んでいきます。

どうぞ、これからも見守っていただけたら嬉しいです。


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