第5章前編 小さな一歩
ある夜。夕食を取ったあと、二人でリビングにいたときのこと。
「あまいの、食べたいな」
あまねが呟くように言った。
「俺もなんかデザート欲しいな……そうだ。ちょっと散歩がてら行ってみるか?」
俺がそう提案すると、あまねは一瞬ためらってから小さく言った。
「……マスク、それに外じゃ……人の目、気になる」
「嫌だったらいいけど」
思わず顔を上げると、彼は押しつけるようなこともなく、ただ優しく笑っていた。
冬の夜空。澄んだ空気。
その光景を見つめながら、あまねはマスクを指で触れ、無意識に下唇を噛んだ。
「……ちょっとだけ、なら」
「よし、決まりだな。支度してくるよ」
支度をしている間、心臓がずっと忙しく動いていた。
お気に入りのグレーのコートを羽織り、耳にヘッドホンをかける。
音楽を流すつもりはなかった。ただ、外の音を少しでも遮りたかった。
右手の薬指には、ケンジにもらったシルバーのペアリング。
光を反射して小さくきらめくその輝きに、息をひとつ吐いた。
玄関のドアノブに触れた瞬間、指先がかすかに震えた。
――ケンジが「ゆっくりでいい」と言ってくれたから。
わたしは一歩ずつ、冷たい空気の中へ踏み出した。
外の世界は、思っていたより静かだった。
雪解けの道を踏む音がやけに大きく響く。
マスクの中で呼吸を整えながら空を見上げると、灰色と青が混ざった冬の空が広がっていた。
「……冬の空って、寂しいけど……きれいだね」
「そうだな。ベランダから見る景色と違うだろ?」
ケンジが笑う。その笑顔に、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「……うん。なんか……生きてるって、感じする」
コンビニまでの徒歩10分が、思ったより短く感じた。
一人でいた時は永遠に感じる時間が、ケンジとならもっと一緒にいたいと思えた。
暖かい店内に入り、わたしはプリンを、ケンジはアイスを買う。
帰り道、自販機でホットコーヒーを買って、ふたり並んで歩いた。
マスクを少し下げて一口。湯気が頬を撫で、冷えた指先がじんわりと溶けていく。
ケンジは何も言わず、隣で同じように缶を口に運んだ。
その沈黙が、なぜか嬉しかった。
――あの日から数日。
少しずつ体調も戻り、気持ちも落ち着いてきた。
ケンジが「もう少し歩いてみようか」と言った時、
わたしは少しだけ迷って、でも「うん」と頷いた。
今日は、街へ行く。
人がたくさんいて、光と音があふれる場所。
――少しだけ怖くて、でも楽しみでもあった。
電車の揺れに合わせて窓の外を眺める。
雪の残る住宅街が少しずつ遠ざかっていく。
ケンジが隣でスマホを見ながら言った。
「着いたら茶店でも行こう。人混みが辛くなったらすぐ出ような」
「うん……ありがとう」
声が少し震えた。でも、ちゃんと返せたことが嬉しかった。
駅前に降り立った瞬間、街のざわめきが押し寄せる。
冷たい風と一緒に、コーヒーや焼き立てパンの匂いが漂ってきた。
「……すごい、人、多いね」
「うん。でも大丈夫。ゆっくり行こう」
ケンジの手が、そっとコートの袖を引いた。
その温もりが、不思議と現実に引き戻してくれる。
カフェに入り、窓際の席に座る。
温かいミルクティーを両手で包みながら、外を眺めた。
「……外って、案外きれいなんだね」
「ああ。寒いけど、ちゃんと生きてる感じするだろ?」
ケンジが笑う。
私はその言葉に、小さく息を吐いた。マスクの内側で唇が緩む。
帰り道、ショーウィンドウの前で足を止める。
小さなシルバーのピアス。指輪とおそろいみたいに光って見えた。
「……これ、かわいいね」
「似合いそうだな」
ケンジの言葉に、胸の奥がふわっと熱くなった。
「……また来ようかな」
その言葉を聞いて、ケンジがうれしそうに笑う。
――“次がある”ということが、こんなにも救いになるんだと気づいた。
夜、毛布の中の空気がいつもより少し柔らかく感じた。
窓の外の明かりが、もう「怖い」だけじゃない。
息苦しさの中に、小さな鼓動が混ざっている。
――少しずつ、わたしの世界が広がっていく。
右手のリングを見つめながら、小さく呟いた。
「……また、街に行けたらいいな」
夜のリビング。
暖房の音と外の風だけが響く。
ケンジがマグカップの湯気を見つめ、私もハーブティーを口に運ぶ。
「……外、どうだった?」
「うん……思ってたより、怖くなかった」
「そっか」
「でもね、人の声とか、音とか……最初は苦しかった。でも途中で気づいたの。
あのざわざわって、全部“生きてる音”なんだなって」
ケンジは黙って頷く。それだけで、私は安心できた。
「電車の窓に映った自分の顔が、ちょっと他人みたいで……でも、ケンジの袖を掴んだ瞬間、“あ、ここに戻ってこれる”って思えたの」
そう言いながら、指先でリングをなぞる。
「外の空気って冷たいけど……ちゃんと触ると、生きてる感じがするね」
「あぁ、俺もそう思うよ」
「……ケンジは、ずっとあの世界の中で働いてるんだね」
「まあ、そうだな」
少しの沈黙。
「ねぇ、ケンジ。ぼく、前はあんなふうに外を歩くのが、もう二度とできないって思ってたんだ。でも……今日はね、“怖い”よりも、“風が冷たいな”って感じられたの」
ケンジが静かに微笑む。
「それ、すごくいいことだと思うよ」
「……うん」
毛布を引き寄せ、ケンジの肩に頭を預けた。
ケンジは少し驚いたように固まり、それから静かに肩越しに手を包んだ。
「……また行けるかな?」
「行けるよ。ゆっくりでいい」
「うん……ありがとう」
夜の静けさが、少しだけ優しく聞こえた。
世界はまだ、ちゃんと生きていた。
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第5章前編では、あまねが「外の世界」ともう一度向き合う姿を書きました。
“怖い世界”が少しずつ“優しい世界”に変わっていく。
そのきっかけが、誰かの言葉や隣にある温もりであってもいいのだと思います。
後編では、そんな“変わり始めた日常”の中で、二人が見つける小さな希望を描きます。
最後までお付き合いいただければ幸いです。




