第4章 冬へ
晩秋の冷たい雨が降る中。
「ただいまー」
俺は今日、早上がりの日で他に仕事も予定も入っていなかったから、あまねと夕食を一緒に取ろうと昨日のうちに話していた。
しかし、玄関を開けた瞬間、ひんやりとした空気と、どこか沈んだ気配が漂っているのに気づく。
「……あまね?」
声をかけても返事はない。
リビングの照明は落とされたままで、部屋の奥から微かに寝息のような音が聞こえた。
ベッドに近づくと、毛布にくるまったあまねが、顔の半分をマスクの下に隠したまま、うっすらと額に汗を浮かべて眠っていた。
「……風邪か?」
ケンジはそっと髪を撫で、寝室を出た。
冷蔵庫を開けると、朝に作ったであろう食事が、半分以上手つかずで残っていた。
ふだんなら「これ美味しかったよ」なんて、少し照れたように感想を言う彼女なのに。
一体どうしたんだろう? とりあえず何して欲しいか訊いてみるか。
俺はあまねの隣に寄り添い、声を掛けてみた。
「……あまね、どうした? 風邪でもひいたか?」
「……違う……天気の移り変わりで……自律神経やられて……」
マスク越しにもわかるぐらい、辛そうな表情をしている。
「そっか。なら、なんか食べたい物や、して欲しいことはあるか?」
「……ご飯は、いい……朝食べても気持ち悪くなっちゃって……全部戻しちゃったから……そばにいて……」
「わかった。ちょっと待ってな」
俺は湯を沸かし、コーヒーを淹れたあと、自室で部屋着に着替えてから、読みかけの本を三冊ほど持って、あまねの寝ているベッドのそばに座った。
「お待たせ、あまね」
「あぁ……ありがとう……」
するとあまねは、安心したかのようにゆっくりと眠りについた。
窓の外では、冷たい雨がととと……と音を立てている。
あまねの寝息と、そのリズムがどこか重なって心地いい。
「無理すんなよ……」
小さくつぶやく。
あまねの呼吸が荒くなるたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
毛布の端から伸びた、あまねがこの前ねだってきたシルバーのペアリングをつけた右手が、ふいに俺の袖を掴んだ。
寝ぼけたような声が、かすかに漏れる。
「……ケンジ、いる……?」
「ああ、いるよ。起きちゃったのか?」
「よかった……寒くて怖い夢、見た……」
彼女の声は弱々しいけれど、どこか安心している。
ケンジはその手を包み、指先を温めるように軽く握った。
「もう寝てろ。雨止むまで、あまねが安心できるまで、俺ここにいるから」
「……うん……」
再び静かな時間が流れる。
窓の外の雨音と、あまねの寝息だけが、部屋の空気を満たしていた。
⸻
翌朝。
カーテン越しの光が、やわらかく部屋を満たしていた。
昨夜の雨はすっかり上がり、窓の外では水滴がきらきらと光っている。
俺は湯気の立つ味噌汁をテーブルに置きながら、寝室の方へ目をやった。
あまねが、毛布から半分だけ顔を出して、ぼんやりと天井を見つめている。
「おはよう、あまね。もう起きても大丈夫なのか?」
そう声をかけると、あまねは少し遅れてこちらを見た。
マスクの上からでも分かる、申し訳なさそうな目。
「……昨日、ごめんね。せっかく早く帰ってきてくれたのに……」
「謝ることないよ。俺、何もしてないけど」
「でも……」
言いかけたあまねの言葉を、俺は軽く手を伸ばして止めた。
「無理しなくていい。こうして話してくれるだけで十分だ」
そう。今は十分だ。
苦しさや辛さを話せなかった頃に比べれば、十分すぎるよ。
「ケンジ、夜ずっといてくれたんでしょ」
「まあな。雨の音、いい感じだったし。読みかけの本も読み終えれたし」
「……ありがとう」
短い言葉。けれどその“ありがとう”には、昨夜のぬくもりと安心が詰まっていた。
少しして、あまねはゆっくり起き上がり、毛布の端を胸元に抱えながらケンジの方を見た。
「ねぇ、ケンジ」
「ん?」
「夢でね、変な夢見たの。ケンジがいなくなっちゃう夢。だから起きた時、袖を掴んでたの、覚えてる」
俺は少しだけ笑う。
「ちゃんと覚えてるよ。寝言も言ってた」
「え、なに言ってたの……?」
「“寒くて怖い夢、見た”って」
あまねは顔を赤くして、毛布の中に半分隠れる。
「……恥ずかしい」
「そんなことないさ。ちゃんと“あまね”が戻ってきたって思った」
「戻ってきた?」
「うん。昨日は、“ぼく”も“わたし”も、どっちも疲れてたみたいだったから」
「……そっか。おかえり、あまね」
「ただいま、ケンジ」
二人は少しの間、寄り添いながら同じ時を過ごした。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
第4章「冬の灯」は、あまねの体調の揺らぎと、それを見守るケンジの静かな優しさを描きました。
誰かの隣に「ただいる」ということは、言葉以上に大きな支えになるのかもしれません。
この章で描きたかったのは、派手な出来事ではなく、
“寄り添うことでしか届かないぬくもり”です。
あまねが見た「寒くて怖い夢」が、少しずつ“あたたかい現実”に変わっていくように、
ふたりの物語もまた、少しずつ春へと向かっていきます。
次章もどうぞよろしくお願いします。




