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第3章 十一月の息

夜の空気は、冬の入り口のように冷たかった。

あまねの発作を初めて見た後も、時々あんなことがあったが、それ以外は平穏で幸せな日々を送っていた。


そんな中、部屋でレポートを書き終わった俺は時計に目を向けた。

針は深夜の11時を過ぎていた。


――もうこんな時間か。あまね、いるかな。


タバコを持ってベランダに出た。

部屋の灯りの下、毛布を肩にかけてウイスキーを飲んでいるあまねの姿が見えた。


「……眠れないの?」

あまねが低い声で尋ねた。


マスクの下の声は、いつもより疲れたようで、少し掠れている。


「ん。レポート書き終わってタバコ吸おうと思って、なんとなく。そっちは?」

「ぼくも。考えごと」


あまねは自分のことを“ぼく”と言う。

そのたびに、俺の胸の奥が少しだけざらつく。

それは、あまねが何かから自分を守ろうとする盾のようなものだと、俺は解釈していた。


けれど、それを口に出したのは今夜が初めてだった。


「……あのさ、あまね」

「ん? なに? 改まって」


あまねが不思議そうな顔でこちらを見た。


「“ぼく”って、どうしてそう言うんだ?」


俺は勇気を出して聞いてみた。

すると、あまねは真剣な目でこちらを見て話した。


「“わたし”って言うと、昔の“わたし”が出てきそうでね」

「昔の?」

「うん。泣き虫で、黙ってるしかなかった“わたし”。あの頃のあまねに戻るくらいなら、“ぼく”でいいと思ったの」


言葉の最後が、風にさらわれた。

俺は何も言わず、ただタバコを指で転がした。


あまねは続けた。

「“ぼく”は、あの頃つくった影武者みたいなもの。怖いこととか嫌なこと、ぜんぶそいつに押しつけて、“わたし”は眠ったふりをしてた」


キャンプ用の椅子の背もたれに背中を預ける。

彼女のマスクが、かすかに曇った。


「そうなんだ……じゃあ、そのマスクも“ぼく”のあまねの一部?」

少し間をおいて、あまねは笑った。


「そうかもね。マスクしてると“ぼく”でいられるんだ。外すと“わたし”が息を詰める。あのね、ヘッドホンも同じ。世界の音を少し遠くにしてくれるの。ちゃんと呼吸できる距離を作るっていうか」


その言葉を聞いたとき、俺ははじめて理解した。

彼女にとって“音”や“視線”は、ただの刺激じゃなく、心の奥にまで届いてしまう刃みたいなものだということを。


あまねは、現実の世界と距離を保ちながらも、ちゃんと生きていくための防具としてマスクやヘッドホン、そして“ぼく”という人格のようなものを使っていたのだ。


「でもね、ケンジの声だけは、ちゃんと届くんだよ。不思議だよね」


あまねはふっと笑った。

ああ、そうか――不器用な笑顔だ。

そう思ったのは、あまねが自分を守るために、笑ってはいけないと思っていたからかもしれない。


「……昔ね、好きな人に言われたんだ。“口を閉じろ”って。声がうるさいって」

「……」

「それ以来、マスクがないと喋れなくなった。マスクは“沈黙”の代わりなんだ」


俺は煙を吐き出して小さく言った。

「苦しくないか? ずっと昔からそうだったなら」

「ううん。……苦しいけど、落ち着く。変だよね」


あまねはウイスキーを飲み干し、グラスをベランダの手すりに置いた。

俺は毛布を直してやり、そっと肩を抱いた。


あまねは目を伏せたまま、小さく呟く。

「ねぇ、ケンジ。ぼくが“わたし”に戻れたら、少しは好きになってくれる?」


ケンジは迷わず答えた。

「もう好きだよ。“ぼく”のあまねも、“わたし”のあまねも。だからこうして今、この場所で一緒にいるんだよ」


風がやんだ。

街の灯が遠くで瞬く。


「ねぇケンジ? ぼくも秘密を教えたから、ケンジも秘密を教えてよ」

あまねがいたずらな顔で話す。


「……秘密なんてないけどな」

「嘘だ。人の感情が素で出る、生きてる音がいっぱいある場所の話、まだ聞いてないよ」

「その話か……いいよ。でもここじゃ話が長くなる。寒くて風邪をひいてしまう。俺の部屋で話そう」


少しの沈黙の後、2人は俺の自室へ移動した。

部屋のこたつとストーブの電源を入れ、冷蔵庫から取り出したビールを注ぎ、俺は口を開いた。


「……あまねさ、俺は昔、サッカークラブのサポーターグループの中心にいたんだ」

「サポーター?」


きょとんとした顔をすると、俺は続けて話した。

「応援団みたいな感じだな。その頃チームは弱くて、昇格も優勝も夢のまた夢。でも、みんな楽しく応援してた。勝てば喜び、負ければ悔しがる。そんな中で、相棒の空也と一緒にいたんだ」


あまねが真剣な顔で話を聞いてくれた。

俺はタバコに火をつけ、話を続けた。


「そんな中、コールリーダー――一番上が変わって、6年くらいした後かな。ウチのチームが昇格の一歩手前まで行った時の翌年、一気にゴール裏の雰囲気が変わったんだ」


俺は寂しそうな顔で続ける。

「その頃から、楽しむ応援じゃなくて“勝たせるための応援”に変わっていった。昔の盛り上がるチャントや応援歌はなくなり、独創的だけど盛り上がらないものになっていった。新しく入ってきた人たちが中心になって、昔からの仲間を追い出すようなこともあった。……そんな派閥争いに巻き込まれたんだ」


「……そして、仲間だと思ってた人たちに利用されてたことに気づいた。そこから、一部の人に辞めるって話して、逃げるように離れた」


さらに続けた。

「その前にも、ずっと信頼していた人――信じた人間に利用されて、ボロ雑巾みたいに捨てられたことがあった。……それから、人と関わるのが怖くなった。誰かを信じるのが正しいのか、分かんなくなったんだ。俺の心に穴が空いちまった」


少し笑うような、吐き出すような声になった。


「だけど、ボクシングの仲間や草野球のチームメイト、和哉さん、空也、職場の人……そして、あまねがいたから。もう一度、人を信じようと思えた。裏切られても、俺は俺って人間を貫くんだって」


タバコを消した。

部屋の中に、時計の針の音だけが響いた。


あまねは何も言わず、テーブル越しに小さく身を乗り出した。

そして、マスクの上からでも分かる穏やかな声で言った。


「……それでも、話してくれたんだね」


俺が驚いたように顔を上げると、

あまねは小さく続けた。


「私、人の顔を見るのが少し怖いけど……ケンジには、ちゃんと見てもいい気がした」


あまねの声は小さいけれど、その言葉にはまっすぐな力があった。

俺は少し息を吐いて、ようやくグラスを手に取った。


「変な話、救われた気がするよ。俺のこと、どう思った? 変だろ? 不器用で古臭い男だろ」

「ぼくね、どっか壊れてるの、きっと。でもケンジの前だと、壊れてても“人”でいられる気がする。それはお互いに同じような傷を抱えているからだと思うんだ。……だから話してくれてありがとう」


その十一月の夜、二人の吐息が白く溶けていった。



朝。

あの後、お互いの過去や、つらかったこと、悲しかったことを話した。

それは、お互いの傷を支え合うためのような時間だった。


カーテンの隙間から、薄い光が差し込む。

俺が目を覚ますと、キッチンから「カタ、カタ」と控えめな音が聞こえた。


湯気の向こうにいたのは、あまねだった。

いつもは無造作に下ろしている髪を、今日は後ろでゆるくまとめている。


マスクは口元から少しずらしていた。

すっぴんのままの口元が、静かに湯飲みを傾けている。


あまねが俺に気づくと、

「おはよう、ケンジ。……ぼく、昨日けっこう飲んじゃったね」

湯気の中、彼女の声はやわらかかった。


アルコールの残り香がほんのり漂い、目の下のクマは少し濃い。

それでも、昨夜までの重たい影がどこか薄れているように見えた。


「おはよう。今日は俺の方が遅かったな」

「ベランダ、寒くなってきたね」


そう言ってあまねは、両手でマグを包みながら窓の外を見つめた。

「あぁ、もうすぐ冬だからな」


あまねの隣に座って、2人で窓の外をぼんやりと眺めた。

遠くの山間にはうっすらと雪が積もり、冬の足音がしていた。

鳥の鳴く声が遠くで響く。


その光景に、彼女はぽつりとつぶやいた。

「……こうして朝を迎えるの、なんか久しぶりかも」


それは独り言のようで――

けれど確かに「生きよう」とする小さな息づかいだった。


俺は何も言わなかった。

ただ、あまねの湯飲みに少しだけお湯を足してやると、彼女はまた少し笑った。


その笑みは、冬の訪れを知らせる朝の光みたいに、静かであたたかかった。

 今回も『灯火ともしび』を読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、あまねだけでなく、ケンジがなぜ人を信じられなくなったのか、

そして、そこから這い上がるために誰が支えてくれたのか――

その背景を少し掘り下げて書いてみました。

ふたりの“灯”が、少しずつ近づいていく過程を感じてもらえたら嬉しいです。

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