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第2章 寄り添う日々

 この章では、あまねとケンジが外の世界との距離の中で、

過呼吸や悪夢といった心身の不調に向き合う姿が描かれます。

苦しい場面もありますが、その先で少しずつ“光”が見えていくお話です。

無理のない範囲で、そっと見守っていただけたら嬉しいです。

 あんなことがあったあと、ダメ大学生の俺,松橋謙二,26歳と——四ノ宮天音、25歳は一緒に住むことになった。

 だけど俺が住んでいたワンルームのアパートじゃ狭くて、あまねの在宅の仕事——イラストレーターやデザイナーの作業もできないってことで、引っ越すことになった。


 新しい部屋は3LDKのマンション。

 俺の部屋、あまねの部屋、共同のリビングにキッチン、風呂とトイレ。

 県庁所在地から少し離れた駅近くのマンションに、俺たちは住み始めた。


(職場とジムには遠くなったけど……幸せだな、俺)


 引っ越し費用をあまねに出してもらったこともあって、正直、肩身が狭くなるかと思った。

 でも、あまねは自分から「生活のルールを話し合おう」と言ってくれた。


「お互いの自室は、許可がないと入っちゃダメ。あと、お洗濯は各自でやってね」


 そんな話をしたあと、俺はあまねの“違和感”に気づき始めた。

 ほとんど家からで出ず,朝起きる時間が遅く、俺が出勤するころにようやく起きて、眠たそうな顔で「おはよう」と言う。

 それに——あまねは食事時以外、常に“マスク”をつけていた。


(なんでだろ……まぁマスクフェチの俺としては全然いいけど。事情があるなら、無理に聞かなくていいか)


 それから、たまに部屋の中で過呼吸のようになっていることがあった。

 「大丈夫?」と声をかけても、「だいじょうぶ」と、震えた声で強がる。


(本当に大丈夫なんだろうか……でも、あまねが自分から話さない限り、俺が聞いたって話してはくれないよな)


 そんなことを思いながら、俺は先輩の高須和哉と夜のドライブをしながら相談していた。


「お前、なんか不思議な子と付き合ってるな」

「そうっすね。でも、一緒にいると落ち着くんすよ」


 山道を走らせながらそんな話をしていると、先輩が口を開いた。


「ケンジ、お前、あまねちゃんの過去とか、無理に聞くなよ。その子、なんか事情がありそうだ」

「……そうっすね。和哉さんに相談してよかったです。自分の中で考えが整理できた気がします」

「ならいいさ。まぁ、こんなスロカスニートでも力になれんならいくらでも話聞くぞ。今度、あまねちゃん紹介してくれよ」

「ウィっす」


 この人、見た目だけならヤバい奴だけど、自分の信念を持ってて、俺は尊敬してる。相談してよかったと思った。


 その夜、俺は布団の中で眠っていると、夢を見た。


(……ゴール!決めました! 決めたのはアバンツァーレのサン! 柴原決めた!逆転ゴール! 敵地でアウェイ・アバンツァーレ、勝ち越し!……松原、きたー!プレーオフにつながる値千金のゴール!……やったな!ウェーイ……結果を残してから言ってよ)


「うぉっ!」


 ハッと目を覚ました。時計を見ると深夜0時を回っていた。


「……こんな夢見るとはな。俺もまだ、あそこに魂が残ってるんだな」


 そう呟いて、タバコを吸おうとベランダへ出ると——あまねがいた。


「あまね、まだ起きてたのか」

「ケンジ……起きてたんだ。ぼくも眠れなくて。ウイスキー、少しだけ残ってる。飲む?」

「あぁ、いただくよ。ちょっと待ってて」


 キッチンからグラスと氷、炭酸水を持ってベランダに戻る。

 あまねから角瓶を受け取り、ハイボールを作って乾杯した。


「ぼくさ、こうやって話してる時間が、一番“生きてる”気がする」


 茶色のロングカーディガンに黒のレギンス。くすんだモカブラウンのマスクに厚手のストール。

 冷えた夜風を防ぐような格好で、ウイスキーのロックを嗜んでいた。


「冷えるな」

「……でも、悪くないね。静かで」


 タバコの火があまねの横顔を照らした。

 その横顔は、透明なガラスのように繊細で、壊れそうな静けさを纏っていた。


「ぼくね、音が好きなんだ。音楽も、ケンジの声も、風の音も、生活の音も。どれも“生きてる音”って感じがする」

「生きてる音か……俺もそんな音をずっと聴いていたよ」

「そうなの?」

「あぁ。話したことなかったけど、人の感情が素で出る——そんな環境に俺はいたんだ」


 タバコを灰皿に落とし、ハイボールを一口飲む。

 すると、あまねが静かに言った。


「ねぇ、夜ってさ、人間の素が出る時間だと思わない?」

「あぁ。人間の本質的な部分が出る時間だな」

「本質……?」

「人って昔は狩りをしてたろ。夜は暗くて危ない時間だから、本能的に恐れてたんだ。だから“夜に出る素”ってのは、信頼の試金石みたいなもんだと思う」

「……面白いね、ケンジ。そんな風に考える人、あんまりいないと思う」

「かもな。哲学者になりたかった時期があるからかも」


 そんな話をしていたとき、


「くちゅんっ!」


 あまねが小さなくしゃみをした。


「さすがに寒いな。これ着るか?」


 自分のパーカーを脱いで、あまねの肩にかけた。

 あまねは一瞬、目を細めて息を吐く。


「ありがと……ケンジの匂いする」

「煙草と酒と……あと、汗の匂いだろ」

「ううん。安心する匂い」


 夜風が二人の髪を揺らした。

 遠くの街灯が、白い息を金色に照らしていた。


「ああいう夜が、ずっと続けばいいのにね」


 俺は返事をせず、ただその言葉の余韻を胸に、静かに煙を吐いた。



 平日のボクシング練習を終え、帰路についたのはすっかり夜も更けた23時過ぎ。


(すっかり遅くなっちまったな。あまね、心配してるよな……)


 LINEで「これから戻る」と送ったが、返事はない。

 仲間と話し込んでいたらもうこんな時間になっていた。


(怒ってるかな……遅くなる日は寝てていいって言ってるけど、気にするよな)


 そんなことを考えながら部屋に戻る。


「ただいまー、あまね、ごめん!遅くなった!」


 呼びかけるが、部屋は静まり返っていた。

 ……そのとき、浅く早い呼吸の音が聞こえた。


「……あまね?」


 リビングに向かうと、ソファの上で膝を抱えているあまねがいた。

 肩が小さく震えている。


「……っ、ケンジ……息、できない……」


 一瞬、俺の頭が真っ白になった。


「そうか……俺はどうしたらいい? どうしてほしい?」


 震える声で尋ねると、あまねが答えた。


「ケンジ……ここにいるよね……? ちゃんと、いるよね……?」


 俺は彼女の手を握った。


「大丈夫。俺はここにいる。ほら、俺の手を握って。ゆっくり吸って、吐いて……」


 指先が触れた瞬間、あまねの目に涙が浮かぶ。


「……世界が、ぐるぐるするの……音が……全部頭の中に入ってくる……」


 ヘッドホンからは大音量の音楽が漏れていた。


「大丈夫、大丈夫。俺ここにいる。俺はここにいるよ」


 手を包み、肩を抱き寄せる。

 あまねの呼吸は浅く、泣き声とも嗚咽ともつかない音が漏れていた。


「ケンジ……こわい……また壊れちゃいそう……体が、ぼくのじゃないみたいで……やだ……こわい……息ができないのに、息が止まらない……」


 パニックの波が強くなる。俺は抱きしめる腕に力を込めた。


「俺はここにいる。あまねの気持ちが落ち着くまで、ずっとここにいる。大丈夫。現実はここにある。俺が保証する」


 その言葉に、あまねの手が少しだけ強く握り返した。


 やがて呼吸が整い、震えが収まっていく。

 あまねは俺の胸に額を押しつけ、かすかに笑った。


「見せちゃったね、かっこ悪いとこ。ちゃんと分かってるのに、どうにもできないんだ……」


「いいんだ。人はみんな、そんな面を抱えてる。……俺は、あまねがその面を見せてくれたことが嬉しいよ。信頼してくれた証だから」


 あまねは涙を拭い、震える声で言った。


「ちゃんと分かってるのに、どうにもできないんだ……ぼく、壊れてるのかな……?」

「壊れてなんかない。あまねはここにいて、飯を作ってくれて、俺と笑って、泣いて、怒って、一緒の時間を共有してくれる。それを“壊れてる”なんて思うわけない」


 俺は力強く抱きしめた。


「……もう少し、このままでいい?」

「いいよ。あまねの気が済むまで」


 沈黙の中、しばらく体を寄せ合っていた。


 あまねが落ち着いたあと、ぽつりと呟いた。


「……変な顔、見せちゃったね」

「気にすんな。そんな時もある」

「発作の時、ぼくの中の世界がぐちゃぐちゃになるんだ。でも、ケンジの声だけはちゃんと残るの。不思議だよね」

「俺の声、通るって言われるからな。あまねの世界にも届いたのかもな」

「そうかもね」


 不器用に笑うあまねを見て、俺も笑った。


 その夜、二人で俺の部屋のベッドに横になりながら——


「……ねぇ、ケンジ。ぼく、ちゃんと生きてるよね?」

「生きてる。ちゃんとここにいる。俺の隣に」


 静かな寝息が聞こえる部屋。

 二人の呼吸だけが、冬を迎える夜の静けさを、ほんの少しあたためていた。


 ここまで灯火(ともしび)第2章・寄り添う日々を読んでくださってありがとうございます。

灯火ともしび”は、心が壊れそうになった人がもう一度立ち上がるまでの物語です。

あまねも、ケンジもまだ始まったばかり。

少しずつ、世界の輪郭を取り戻していく姿を見守ってもらえたら嬉しいです。

次章もどうぞよろしくお願いします。

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