表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/14

最終章 さよなら

朝の光が、レースのカーテンを通してゆっくりと差し込む。

 そのやわらかな明るさの中で、あまねは静かに目を覚ました。

 ケンジの寝息が、すぐそばから聞こえる。胸の奥が、穏やかに満たされていた。


 ベランダの外では、春の風が小さく揺れている。

 あの日、絵を描いた公園も、もう新しい季節の色に変わりつつあった。

 あまねは毛布を肩まで引き寄せながら、ぽつりとつぶやく。


「……そろそろ、行かなくちゃね」


 その声に、ケンジがうっすらと目を開ける。

「もう起きたのか?」

「うん……ちょっとだけ、外の空気吸いたくて」


 ケンジは微笑んで、あまねの髪を軽く撫でた。

「行っておいで。今日は、いい天気だ」


 あまねはうなずいて、そっとベッドを離れる。

 窓を開けると、春の風が頬を撫でた。少し眩しくて、目を細める。

 世界は、もう“怖い場所”じゃなかった。


 ベランダから見える空は、まるで新しい朝を祝うように澄みきっていた。

 あまねはポケットの中で、シルバーのリングを指でなぞる。


 “ぼくのあまね”として過ごした日々。

 その一つひとつが、今では確かな“わたしの歩み”になっている。


「……ありがとう、ケンジ」


 小さくつぶやいたその声は、風に溶けていった。

 もう、誰かの手を借りなくても歩ける。

 でも、その手のぬくもりは、これからもずっと心に残る。


 部屋に戻ると、ケンジが微笑んでいた。

「おかえり」

 その言葉に、あまねは静かに笑って返す。

「ただいま」


 二人の間を、春の光がやさしく照らした。

 ――新しい季節が、ゆっくりと動き出していた。



 夕暮れ。部屋の中を淡い橙の光が包んでいた。

 カーテンの隙間から差し込むその光は、まるでゆっくりと沈む時間のように、静かにあまねの頬を照らしていた。


 ケンジは隣に座って、あまねの手を握っていた。

 その手の温もりを感じながら、あまねはゆっくりと目を閉じる。


 ――あの頃の“ぼく”が、心の奥で小さく息をする。


『……あまね。もう、いいんだよ。』


 その声は、やさしく、懐かしかった。

 ぼくのあまね――かつて孤独の中で寄り添ってくれた存在。

 苦しみの中で、外の世界とつながることを怖がっていたあの自分。


『怖かったけど、ちゃんとここまで来れたね。

 もう、“ぼく”がいなくても大丈夫。』


 光の中へ進もうとする“ぼく”を、あまねは首を横に振って止めた。


「いなくならないで。あなたがいたから、ここまで来られたのに。」


 ――いなくなるもなにも、もともとあなたの心の中にいる存在だよ。

 それに、もう“ぼく”は必要ないでしょ。


 あまねが寂しそうにすると、“ぼく”はやさしく笑った。


『大丈夫。消えたりしないよ。

 これからは――あまねの心の中で、ずっと静かに見ているから。』


 その言葉に、あまねの瞳が滲んだ。

 涙は、悲しみではなく、感謝の色をしていた。


「ありがとう、“ぼく”。

 ずっと、見ていてね。」


『うん。ずっと、ここで。じゃあね、あまね。』


 風がカーテンを揺らす。

 光が一度だけ強く差し込み、そして、そっとやわらいだ。


 ――“ぼくのあまね”は、微笑みながら静かに遠ざかっていった。


 残ったのは、“わたし”としてのあまね。

 世界をもう一度信じたいと願う、自分自身の心。



「……あまね?」


 ケンジの声に、あまねは目を開けた。

 視界が、今までより少しだけ明るく見えた。


「うん。……もう、大丈夫。」


 ケンジが少し身を寄せる。

 あまねはその瞳を見つめた。

 そこには、これまでの恐れや迷いを包み込むような、静かな温もりがあった。


「ケンジ……わたし、ちゃんと生きていくね。

 もう逃げない。ちゃんと“わたし”として。」


 ケンジは微笑み、そっと彼女を抱きしめた。

「それでいい。……お前は、もう一人じゃない。」


 あまねはその胸の中で、静かに目を閉じた。

 涙がこぼれた。でも、それはもう痛みの涙じゃなかった。


 やがて、ケンジの手が頬に触れる。

 あまねは顔を上げ、マスクを外す。

 二人の視線が、静かに重なった。


「……ケンジ。」


 その名を呼ぶ声は、もう震えていなかった。

 あまねはそっと顔を近づけ、唇を触れ合わせた。


 短く、静かなキス。

 でもその一瞬の中に、これまでの痛みと、希望と、すべての想いが溶けていった。



 夜の窓の外で、風がやさしく揺れていた。

 世界は、確かに動き始めている。


 “ぼくのあまね”が教えてくれた勇気と、

 “わたし”として掴んだ未来。

 その両方が、今のあまねを作っていた。


 ケンジの肩に頭を預けながら、あまねは静かに微笑む。

「ねぇ、ケンジ。……明日、あの公園行こう?」


「いいね。あの子たち、きっとまた喜ぶよ。」


「うん。今度はね、空を描きたいんだ。」


 外の風が、そっとレースのカーテンを揺らした。

 灯のようなぬくもりが、二人を包み込んでいた。


 ――そして、ケンジとあまねの物語は、静かに光の方へと歩き出した。


ここまで読んでくださった皆さまへ。

灯火(ともしび)』を最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。


この物語は、“心の中にあるもう一人の自分”との対話をテーマに描いてきました。

誰かに助けてもらうこと、寄り添ってもらうこと、そして最後には自分で歩き出すこと。

それは、現実の私たちが日々繰り返している小さな勇気の積み重ねでもあります。


あまねが“ぼく”と“わたし”を受け入れ、

ケンジと共に「生きる」ことを選んだラストは、

きっと彼女にとっての“始まり”だったと思います。


過去の痛みや孤独は、消えるわけではありません。

けれど、その痛みを抱えたままでも、誰かと手をつなぎ、笑えるようになる――

そんな小さな希望を、あまねの物語に込めました。


この作品を通して、少しでも「生きていくことのやさしさ」や

「誰かに寄り添うことの尊さ」を感じていただけたなら、

それ以上の喜びはありません。

最後に。

ここまで読んでくれたあなたの時間に、心から感謝を込めて。


――灯火のように、小さくても確かな光が、

 あなたの明日に届きますように。


ささやかながらエピローグもございます。そこまでお付き合いいただければ幸いでございます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ