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第10章 動き出した世界

あの日、公園で描いた少女の絵。

帰ってからも、あの子の笑顔がずっと頭から離れなかった。


だから、その夜、わたしはそのスケッチに少しだけ色を足した。

頬の赤、空の青、手をつなぐ二人の指先のあたたかさ。


描いているうちに、胸の中がほんのりと温かくなって、

気づけば、外の世界の冷たさを忘れていた。



翌日。

仕事帰りのケンジが、スマホを片手にリビングへやってきた。

眉を少し上げて、何かを見せるように画面を差し出す。


「なぁ、あまね。これ……お前の絵じゃないか?」


そこには、公園で見かけた少女と、その絵の写真。

“今日、公園で出会った優しいお姉さんが描いてくれました”という文章と一緒に、わたしの描いたスケッチがSNSに投稿されていた。


“素敵な絵ですね”“心があたたかくなりました”

そんなコメントが、いくつも並んでいる。


胸がドクン、と跳ねた。

手のひらがじんわりと汗ばんでくる。


「……なんで、これ……」

「嬉しいのに、なんか、怖い……」


マスクの中で声が震える。

誰かの目に、自分の絵が触れてしまった。


ずっと閉じていた“外”の扉が、少しだけ開いた気がして――

その隙間から、冷たい風と、あたたかい光が同時に流れ込んできた。


「……見られるの、まだちょっと怖い」

「でもね、見てくれた人が“好き”って言ってくれたの、嬉しかった」


ケンジは何も言わずに、わたしの頭を軽く撫でた。

その手の温かさに、胸のざわめきが少しずつ落ち着いていく。



数日後、ケンジのスマホにひとつのメッセージが届いた。


娘がすごく喜んでいて、またお姉ちゃんに会いたいと言ってます。

もしよかったら、お礼をさせてください。


わたしは画面を見つめたまま、しばらく何も言えなかった。

また外に出るのが、少し怖かった。


でも……。


スケッチブックをめくると、あの日の絵がそこにある。

画用紙の上で、あの少女は笑っていた。


その笑顔を見ているうちに、心の奥がふっと軽くなった。


「……“あの子たち”を描いたの、楽しかったな」


小さくつぶやくと、ケンジが優しく笑った。


「じゃあ、会いに行こう。次は、色鉛筆も持っていこうな。」



そして週末。


空気はまだ冷たいけれど、空は少しだけ春の気配をまとっていた。

わたしはマスクを整え、ヘッドホンを首にかける。


指先のリングが光を受けて、淡くきらめいた。


公園には、あの少女が待っていた。


「おねえちゃん、きょうも描いてくれる?」


声をかけられた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


「うん。今日は、もっといっぱい色を使おうか。」


笑って、スケッチブックを開く。

ケンジは少し離れたベンチに腰を下ろし、静かに見守っている。


風が頬を撫で、ページをめくるたびに、心の中にも風が通り抜けていく。


“外の世界は、怖くない”

――少なくとも、今この瞬間は。


あまねはそう思いながら、空の色を描き足した。

小さな線が、ひとつの“つながり”になっていく。



ユースの試合――。

冬の終わりを告げる柔らかい風の中、スタジアムに太陽の日差しが眩しく輝いている。


観客席には懐かしい顔があった。


「よう、ケンジ。仕事休みだから来たんだ。」


かつて一緒に走り続けた相棒、空也くうやだ。


「……お前、来てたのか」

「おう。最近は客席から見る方が楽しくてな。」


ふたりの間に、少しだけ照れくさい沈黙が落ちた。


空也の視線の先で、少年たちが全力でボールを追っている。

その姿に、いつかの自分たちが重なった。


「お前、元気そうで良かったよ」

「……まぁ、なんとか。支えてくれる人がいてさ」


ケンジがそう言うと、空也は小さく笑って「そっか」とだけ答えた。


あの頃、言葉にできなかったものが、今はただ温かく胸の奥に溶けていく。


「この絵、ケンジだろ?」


空也がスマホを取り出し、あまねが描いたユースのゴール裏の絵を見せる。


「……あぁ。俺の大事な人が描いてくれたんだ。」


ケンジは少し照れながらも話す。


「かつての楽しかったゴール裏だよな。今もトップの試合をたまに観ているけど、あの頃の輝きはない。だけど――ここならある。」


空也はそう言って笑った。


あの頃の輝きがまたゴール裏に戻ってくる。

それはケンジにとっても、あまねと同じ“外の世界”を取り戻すようなものだった。



夜。


部屋に戻ると、あまねがリビングのソファに座っていた。

毛布にくるまり、膝の上にはスケッチブック。


描きかけの絵には、昼間の公園の空が広がっていた。


「おかえり」

「ただいま」


ケンジはコートを脱ぎ、彼女の隣に腰を下ろす。

静かな部屋に、時計の針の音だけが響いていた。


「外、どうだった?」

「寒かったけど……いい試合だったよ。」


ケンジがそう言うと、あまねは小さく笑った。

「そっか……。あの子たちも、きっと頑張ってるんだね。」


ふと、ケンジの手があまねの手に触れた。

冷えた指先が、ゆっくりと温まっていく。


「……ありがとな。」

「え?」

「お前が描いてくれた絵。空也も含めて、見た人たちが優しい気持ちになってる。

 俺も、その一人だ。」


その言葉に、あまねはそっと顔を伏せた。

胸の奥で、何かがほどけていく。


長い間閉じ込めていた“怖さ”が、少しずつ形を失っていった。


「……ねぇ、ケンジ」

「ん?」

「わたし、ちゃんと“生きてる”って思えるようになったんだ」

「うん」

「まだ怖いこともあるけど、もう逃げてばかりじゃない。

 だって……あなたがいるから。」


ケンジはその言葉に、何も返せなかった。

代わりに、彼女の頬にそっと手を添える。


あまねはマスクを外し、少しだけ目を細め、ゆっくりと顔を上げた。


唇が触れたのは、ほんの一瞬だった。

けれどその温もりは、ずっと心に残った。


外の世界の冷たさとは違う、確かな“生きている”感触。


窓の外では、街の灯りが静かに瞬いていた。

小さな部屋の中、二人の影が寄り添う。


――もう、独りじゃない。


その確信が、静かな夜に灯っていた。


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

第10章「動き出した世界」では、あまねが“外”ともう一度向き合い、

そしてケンジと共に「生きること」を確かに感じ始める姿を書きました。


小さな一歩でも、それが“つながり”になる瞬間がある。

誰かの言葉やぬくもりが、心を少しずつ解かしていく――

そんな静かな希望を、この章に込めました。


次回は最終章。

あまねが“ぼくのあまね”と向き合い、

そして、自分自身としてケンジと未来を選ぶ物語になります。


どうか最後まで見届けていただけたら嬉しいです。

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