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第9章 春の色、声のある場所の魂

 春の訪れを感じるようになった平日の午後。

 あまねが外に出て絵を描くようになってから、ケンジの心にも少しずつ変化が生まれていた。


 あの日、あまねが公園のベンチに腰かけて、初めて外の光の下でスケッチブックを開いた時——

 その姿を見つめていたケンジの胸の奥で、何かが静かに溶けていった。


 長い間、自分もまた“外に背を向けていた”ことに気づいたのだ。


 昔、彼には「居場所」があった。

 サッカースタジアムのスタンドで、旗を振り、声を張り上げ、チームを支えたあの頃。


 けれど、クラブが上昇気流に乗り、仲間が分裂し、新参に追い出された。

 そのうちに、いつの間にか“声を出すこと”が怖くなっていた。


 あまねが部屋に籠もっていた時間——それは、どこかケンジ自身の姿でもあった。


 ……あまねが前を向いているんだ。俺だって。


 そんな彼が、その夜、あまねに言った。


「俺も、外に出てみようかな。今度の日曜日、出かけてきてもいい?」

「どこに?」

「……サッカー。ユースって、高校生年代の応援に」

「いいけど、どうして?」

「……あまねが外の世界へ前を向いて生きているんだ。俺も前を向かなきゃって思ってさ」


 あまねはスープカップを両手で包みながら、少し首を傾げて笑った。

「ケンジも、再デビューだね」



 日曜の朝。

 俺は会場のグラウンド近くの駐車場に車を止め、旗の道具入れを運んでいた。


 以前は仲間たちと並んでいたはずの場所も、今は選手の保護者と、新参派に追い出されたかつての仲間がちらほらいるぐらいだ。

 それでも、懐かしいチャントが遠くから微かに聞こえる。胸の奥で鼓動が高鳴る。


 ……この感じだ。俺は、ここに戻ってきたんだ。


 ユースチームの選手たちがピッチでアップを始めていた。

 まだ高校生くらいの若い彼らが、真剣に声を掛け合っている。


 その時、声をかけられた。

「……!松橋くん!松橋くんじゃないか⁈」

「お久しぶりです、柴山さん」


 彼は柴山さん。初代アバンツァーレ石浜のコールリーダーで、チームカラーのタンクトップがトレードマークの熱狂的なサポーターだ。

 新参派にコールリーダーの座を渡したあと、ユースが発足した時にふたたびドラメガを手にした。


「どうした?ユースの応援なんて。確かトップチームの応援をやめたって、ソウさんから聞いたよ」

「……そうだったんですけど、俺、今付き合ってる女性がいて。

 そいつがいろんなことがあって殻にずっと閉じこもってたんです。

 だけど、今そいつは俺と一緒に前を向いて生きてる。……だから、俺も」


 そう言うと、俺は上着を脱ぎ、チームカラーのタンクトップ姿になった。


「……俺はこの魂があるんです。かつて弱くても、前を向き続けた柴山さんの魂が。

 俺が、“黄金の魂”の二代目だ!」


 そう宣言すると、タブレットを持った男性が嬉しそうに近づいてきた。


「松橋さんじゃないですか⁈ 流石ですね。素晴らしい体です!」

「久しぶりです、スリーナインさん」


 彼はニシチローくん。Twitterでは“スリーナイン”と呼んでいる。


「けんちゃん?けんちゃんだよね? 久々!俺もユースに流れてきたよ」

「道さん、お久しぶりです。申し訳ありません。かつて直さんに投げるように逃げてしまって」

「いいんだよ。今こうして来てるからね」


 初老の男性、道さん。トップで一緒に旗を振っていたが、派閥争いに敗れて去った仲間だ。


「松橋くん! 来てくれたんだね!」

「松橋くん。ありがとう。久々に会えたよ」


 髭面の白銀さん、太鼓を持ったメガネの中湖さん。

 かつての仲間たちがそこにいた。


「みなさん、ご無沙汰しております。俺、ここで……いや、かつての仲間と呼べる人たちがいるここで、もう一度旗を振りたいんです! ダメですかね?」

「ダメなわけないだろ! 君の魂を見せてくれるか?」

「はい!」



 観客席には数えるほどの人しかいない。

 俺はかつての相棒とも呼べる旗を手に取り、ゆっくりと立ち上がった。


「よっしゃ!いくぞぉぉぉ!!」

 柴山さんが声を張り上げる。

「さあ行こうぜ!アバンツァーレ!」


 俺も仲間と一緒に声を出す。

 最初は震えて、かすれて、思うように届かない。——でも構わない。


 あまねがあの日、震える手でスケッチブックを開いたように。

 その一歩が、すべての始まりになる。


 (あまね、俺も一歩を踏み出すことができたよ。お前のおかげだ。ありがとう)


 スタジアムに響く、久しぶりのケンジの声。

 風が旗を揺らし、太陽の光が汗を照らす。


 その瞬間、俺の中で何かが確かに動いた。

 ——もう一度、自分も外の世界に立てる。あまねと一緒なら。



 試合は2対2の引き分けだった。

 でも、かつての興奮を噛みしめるように、試合後スマホを取り出し、あまねに写真を送る。


 旗と、青い空の下のピッチ。

 すぐに返信が届いた。


「ケンジ、かっこいいね。ぼくも、また描きたくなった。」


「おっ、噂の彼女かい?」

「道さん、はい。俺の大事な……大事な人です」

「そうか。いい顔してるよ、今」

「そうですか?」

「ああ、とても輝いているようだ」


 春風はまだ冬の気配を残していた。

 だけど俺の心は、チームカラーのように真っ赤に燃えていた。



 ユースの試合が終わったあと、ケンジは久しぶりに声が枯れていた。

 それでも心地よかった。

 旗を振りながら叫んだ80分間、胸の奥で長い間止まっていた歯車が、ようやく動き出したようだった。



 「久々に君と昔話がしたい」

 かつての仲間たちの言葉に、俺たちは競技場近くのファミレスへ向かった。


 時刻はすでに夕方。

 新参派がSNSで注目を集めたり、ゴール裏の雰囲気を支配したり、周りから結果を求める応援、いわゆる自己満足な応援とは対照的に、彼らはただ“楽しむために、選手と心を通わせるために”旗を振る。そして声を出す。

 その信念だけが残っていた。



 「すっかり遅くなっちまった」

 そんな独り言を嬉しそうに言いながらマンションのドアを開けると、あまねが出迎えてくれた。


「おかえり。……楽しかったんだね」

「どうしてそう思う?」

「……だって顔が楽しそうなんだもん。……よかった」

「あぁ、ありがとう、あまね。……ただいま」



 その後もユースの応援に通うようになった俺は、仲間にいじられながらも熱を取り戻していった。

 そんなある夜、荷造りしているとあまねが話しかけてきた。


「……ケンジ、次の試合、ぼくも連れてってくれる?」

 その問いに俺は驚いた。


 あまねを連れて行くということは、仲間たちと交流するということ。

 それは、あまねにとって大きな負担になると考えていたからだ。


「……いいけど、いいのか?朝早いし、それに他人と交流することになるぞ?」

「いいよ。ケンジの仲間だもん。それに描いてみたいんだ、その色を」


 ——あぁ、あまねもまた一歩を踏み出そうとしている。


「……いいけど、俺に惚れんなよ」

「……もう惚れてるよ……ばか」


 あまねが顔を真っ赤にして、恥ずかしそうに笑った。



 朝6時。

 試合会場は車で2時間の場所にあった。


「おはよう、あまね。起きれるか?」

「……おはよぅ……」

「30分くらいしたら出発するから準備してくれ。それと今日寒いから防寒しっかりな」

「……ふぁーい……」


 大きなあくびをしながらも、あまねは返事をした。



 春先の午前中。厚い雲の切れ間から光が落ちていた。

 吐く息は白く、手袋の上からでも鉛筆の感触は確かだった。


 ——スタンドの一角。


 あまねはスケッチブックを膝にのせ、グラウンドの端を見つめていた。

 そこに、ケンジがいた。旗を握り、声を張り上げる姿。


 あの日の言葉を思い出す。

 「俺も前を向かなきゃって思ってさ」


 ケンジの背中は大きく、まっすぐで、それでいて優しい。

 旗が光を弾き、春の風に踊るたび、あまねの胸の奥も揺れた。


 ——そこには、もう孤独の影がなかった。


 あまねは静かにペンを走らせる。

 カサカサと紙の上で鳴る音が、心臓の鼓動と同じリズムで響いていた。


「……ほんとに、外の色ってこんなに綺麗なんだね」


 春の光の中、旗の黄金と赤が重なって揺れる。

 その旗を振るケンジの姿を描きながら、あまねはその“声”が自分の中にも届いていくのを感じた。



 試合が終わり、観客がまばらに帰っていく。

 あまねはスタンドの階段をゆっくり降りた。

 スタンドの隅で旗をたたむケンジが手を振る。


「……見てたのか」

「うん。描いてたの」


 あまねはスケッチブックを胸の前でそっと開いた。

 そこには、旗と光、そしてケンジの背中。


「すごいな……これ」


 俺は言葉を失った。


「前に言ってたでしょ。“ゴール裏にいることは、生きてるってことだ”って。

 だから私も描いてみたの。“今、生きてるケンジを”」


 風が吹き、あまねの髪が頬を撫でた。

 ケンジはそっと彼女の手を握る。


「……ありがとう。あまねも、外の世界に帰ってきたんだな」

「ううん、まだ途中。でもね、外の世界にも“ケンジの色”があるってわかったから」



「お暑いねぇ、松橋くん」

「うわっ!白銀さん!」


 白銀さんと中湖さんが近づき、あまねに声をかける。


「松橋くんの彼女さん?キャー!可愛い! お名前は?」

「……あまね……です……」


「可愛い! お菓子あげていい⁈」

「……中湖さん、あまねを犬かなんかと勘違いしてません?」


 中湖さんは可愛い子が大好きだ。


 そこへ他の仲間たちも集まってくる。

「お、ウワサの彼女さんかい?」

「松橋くんがお世話になっています」


 あまねは泣きそうになりながらパニックになりかける。

 すると白銀さんが声を出した。


「まぁあとは若い者同士で。我々は引き上げますか」


 そう言って人の波は去っていった。

 放心状態のあまねの手を引き、俺は車へ戻った。



 助手席にあまねを乗せ、走り出して30分ほど。

 あまねが静かに口を開いた。


「……みんな、暖かい人たちだね」

「あまね? 大丈夫だったか? ごめんな、いきなりみんな集まってきちゃって」

「いいよ。ケンジの仲間だもん。

 ぼく、人って冷たくて怖い人たちしかいないと思ってたけど……ケンジの仲間たちって、なんかあったかいね。……いきなりでびっくりしちゃったけど」

「……だろ」

「また、連れてってよ」

「あまねがよければな」



 帰り道。街の灯りが遠くに瞬いていた。

 その灯りを見上げながら、あまねは心の中で思った。


 ——怖い場所じゃない。

 ——誰かと歩けるなら、もう少し、ここにいたい。


 春を告げる空は透きとおり、ケンジの持つ旗の色が、

 彼女のスケッチブックの中でそっと輝いていた。


第9章では、「外へ踏み出す」テーマを、今度はケンジの視点から描きました。

誰かの勇気が、もう一人の背中を押す。

それは恋人としてだけでなく、“生き方”としての共鳴でもあります。

あまねとケンジをどうぞ、最後まで見守っていただけたら嬉しいです。

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