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第8章 絵を描く

 日曜日の午後。

あまねはまた、ケンジと一緒に近くの公園まで歩いていた。

前回よりも、少しだけ足取りが軽い。


マスクの奥で、小さく息を吐くたびに、白い吐息が空に溶けていく。


「寒くないか?」

隣を歩くケンジが尋ねる。


「ううん、大丈夫。手袋あるし」


そう言って、あまねは両手をポケットの中でぎゅっと握った。

指先には、あのシルバーのリングが光っている。


公園に着くと、ベンチのそばで小さな犬が丸くなっていた。

その隣には、小学校低学年くらいの女の子。

ピンクの帽子を深くかぶり、真剣な顔でスケッチブックを覗き込んでいる。


あまねは思わず足を止めた。

女の子が描いていたのは、どうやらその犬の絵だった。

柔らかい色鉛筆の線。少し不器用だけど、やさしいタッチ。


その姿を見て、あまねの胸の奥がふっと温かくなる。


「……かわいいね」


つぶやいた声に、女の子が顔を上げた。


「あ、こんにちは!」


あまねは思わず一歩後ずさる。

けれど女の子は屈託なく笑い、スケッチブックを見せてきた。


「これ、うちのモカ! お姉さんも描くの?」


「えっ……う、うん……少しだけ」


口から出た言葉に、自分でも驚いた。

もう何年も、人とこうして話していなかったのに。

マスクの下で唇が震える。

でも、その震えは恐怖よりも――懐かしさだった。


「見せてあげる!」


女の子がスケッチブックを差し出す。

ページの端に、クレヨンで描かれた青い空。

そこには、犬と、笑っている“誰か”が並んでいた。


――たぶん、それは女の子自身。


「上手だね」


言葉にすると、女の子の顔がぱっと明るくなる。


「ほんと!? お姉さんも今度一緒に描こうよ!」


その言葉に、あまねの胸がちくりと痛んだ。

“誰かと一緒に描く”――その感覚を、もうずっと忘れていた。


ケンジが少し離れた場所から、やわらかく見守っている。

あまねは彼の方をちらりと見て、そしてまた女の子に目を戻した。


「……うん、また会えたらね」

「約束だよ!」


そう言って笑う女の子の声が、冬空に響いた。

その笑顔を見た瞬間、あまねの中で、何かがほんの少しだけ動いた気がした。


――外の世界、やっぱり怖いけど。

でも、こういう笑顔があるなら、もう少し近づいてみたい。


帰り道、ケンジがそっと尋ねる。

「久しぶりに人と話したな」

「……うん。なんか、不思議な感じ」

「どうだった?」


少しの間を置いて、あまねは小さく笑った。


「……悪くなかったよ」


その言葉を聞いたケンジが、ゆっくり微笑む。

冬の空気の中に、確かな温もりが残った。



冬の空気は透き通っていて、指先が少し痛いくらいだった。

あまねはベランダに出て、両手をこすり合わせながら、昨日の光景を思い出していた。


あの公園で出会った女の子――笑いながらスケッチブックを見せてくれた小さな手。

“お姉さんも描こうよ!”


その言葉が、まだ胸の奥でかすかに響いている。


リビングのテーブルには、埃をかぶったスケッチブック。

ずっと触れられなかったそれを、あまねはそっと撫でた。


――“また描いてみようかな”


そんな気持ちが、ふと湧き上がる。

けれど、同時に胸の奥がざわついた。

外に出るのは、怖い。

誰かに見られるのも、もっと怖い。


それでも、昨日の女の子の笑顔がその恐怖を少しずつ溶かしていく。


「……ケンジ」


声をかけると、キッチンでコーヒーを淹れていたケンジが顔を上げた。

「ん?」

「今日、少しだけ外で……描いてみたい」


その言葉に、ケンジの目が驚きで少し見開かれる。

けれど、すぐにやわらかく笑った。


「いいじゃないか。ちょうど天気もいいし」


それだけで、少し勇気が湧いた。



公園に着いたのは、午後の日差しが柔らかくなり始めたころ。

ベンチの端に腰を下ろし、スケッチブックを広げる。


冬の空は高く、木々の枝はすっかり葉を落としていた。

そのシルエットを、鉛筆でそっとなぞる。


線はまだぎこちなく、手は少し震えていた。

それでも――描ける。描けている。


マスクの奥で、あまねは小さく息を吸った。


ケンジは隣のベンチに座って、黙って空を見上げていた。

ときどき風が吹くと、彼のコートが音を立てる。

あまねはその音を聞きながら、少しずつ筆圧を強めていく。


世界が、白紙の上に戻ってきてくれるような感覚。


「……できた」


そうつぶやいた声は、冬空に吸い込まれていった。

描かれていたのは、公園の木とベンチ、そして――小さな犬と女の子の後ろ姿。

昨日の記憶を、あまねなりの温度で閉じ込めた一枚。


「見てもいいか?」


ケンジの声に、あまねは少しだけ迷った。

でも、首を縦に振った。


スケッチブックを手渡すと、ケンジはしばらく黙って見つめ、

それから静かに言った。


「……あまねの絵って、あったかいな」


その一言で、胸の奥がじんわりと熱くなった。

涙が出そうになって、慌てて俯く。

マスクの下で笑いながら、あまねはつぶやく。


「……ありがとう。ぼく、もう少し描いてみるね」

「うん。好きなだけ描いてこい」


夕暮れの光が、スケッチブックの上に差し込む。

あまねの手の動きは、もう最初の震えを忘れていた。


外の世界は、まだ少し怖い。

でも、その中に“描きたい風景”があるなら、きっと、少しずつ進める。



朝、窓を開けると、ふわりと柔らかい風が頬をなでた。

まだ少し冷たいけれど、どこか春の匂いがした。


「……今日、行ってみようかな」

自分に言い聞かせるように呟く。


ケンジと約束していた“公園までの散歩”。

外に出ることが少しだけ怖い。

けれど、あの場所には――もう一度行ってみたいと思えた。



靴を履く時、手が少し震えた。

外の音が近づくにつれて、胸の奥がざわつく。


「大丈夫、ゆっくりでいい」

ケンジがそう言ってくれる声が、背中を押してくれる。


公園に着くと、あのベンチが見えた。

柔らかな春の日差しが、まるで優しく迎えてくれるみたいだった。


わたしはそっとスケッチブックを開き、鉛筆を握った。


「久しぶりだな……」


紙の白さがまぶしくて、手のひらが少し汗ばんだ。

でも、描き始めると、胸の奥のざらつきが少しずつほどけていく。



しばらくして、どこかから子どもの笑い声が聞こえた。

顔を上げると、前に会ったあの少女がこちらに駆けてくる。


「おねえちゃん、また絵かいてる! わたしも描いてー!」


その勢いに一瞬たじろいだ。

でも、少女の無邪気な笑顔を見ていたら、

なんだか怖さよりも――あたたかさの方が大きくなっていった。


「……うん。いいよ」


鉛筆を持つ指が、今度は震えなかった。

風が髪を揺らし、光の粒が紙の上に落ちる。

私は夢中で描いた。

頬の丸みも、手のしぐさも、笑っている目の形も。



「わあっ、似てる! かわいい!

 ママにも見せる!」


少女は大はしゃぎで走っていった。

そのあと、母親が近づいてきて、少し頭を下げる。


「素敵な絵ですね。本当に……ありがとう」


その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。

「ありがとう」――その言葉を、こんなに優しく感じたのは久しぶりだった。



帰り道、ケンジが隣を歩きながら聞いてくる。


「どうだった?」


「……楽しかった。

 外って、怖いだけじゃないんだね」


「うん。

 優しい人も、ちゃんといる」


夕陽が街を金色に染めていた。

歩くたび、風が少しずつ温かくなっていくような気がした。



夜。

部屋に戻って、スケッチブックを開く。

描いた笑顔を見つめながら、ペンを取り出して小さく書き添える。


“また、あの公園で描きたい”


ベッドに横になった時、ケンジの声が聞こえた。


「次は、ピクニックにしようか」


私は少し照れくさく笑って、うなずいた。

外の風が、少しだけ、好きになった夜だった。

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。

第8章では、あまねが「絵」を通して再び世界とつながる姿を書きました。

誰かと関わることの怖さもあるけれど、

同時に“あたたかさ”も確かにそこにある。

そんな瞬間を感じていただけたなら嬉しいです。

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