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『最後の肖像』第5話

古い文化住宅の前の、狭い路地までタクシーを呼びつけ、朔郎は息を切らしながら後部座席に滑り込んだ。


「あんずえんまで。……すみません、急いでください」


年配の運転手は、バックミラー越しに、ジャケット姿で汗だくになっている奇妙な客を一瞥したが、何も言わずに、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

タクシーが、大通りに出る。


夕暮れ時の、うんざりするような渋滞が始まっていた。

赤いテールランプの列が、どこまでも続いている。

朔郎は、苛立ちに舌打ちしながら、指先で、落ち着きなく膝を叩いた。


(間に合ってくれ、頼む……)


その祈るような気持ちとは裏腹に、タクシーは、牛の歩みのようにしか進まない。

焦りが、じりじりと、内側から彼を焼いていく。

気を紛らわすように、窓の外に視線を投げた。

流れていく景色の中に、ふと、小さな公園が見えた。

砂場で、母親が、幼い子供を高い高いしている。

その光景が、またしても、記憶の蓋をこじ開けた。


朔郎が、まだ、小学校に上がる前のことだ。

千代乃は、昼間は食堂で働き、夜は内職をしながら、たった一人で、朔郎を育てていた。

貧しかったが、不幸だと思ったことは、一度もなかった。


彼女は、どんなに疲れていても、朔郎を、近所の公園に連れて行ってくれた。

そして、砂場に、大きな絵を描くのだ。

泥だらけになるのも構わずに、彼女は、指で、城や、船や、見たこともないような動物たちを、次々と描いてみせた。


「ほら、朔ちゃん。これは、お空を飛ぶクジラだよ」


「こっちは、チョコレートでできたお城」


それは、彼女が、息子に与えることのできる、唯一の「物語」だった。

朔郎は、その、魔法のような時間が、大好きだった。

ある日、朔郎は、いつものように、公園で遊んでいて、転んで、ひどく膝をすりむいてしまった。

血が滲み、あまりの痛さに、大声で泣きじゃくる。


千代乃は、慌てて駆け寄ると、彼の傷口を、自分のハンカチでそっと押さえた。

そして、泣き止まない朔郎の耳元で、こう囁いたのだ。


「大丈夫、大丈夫。痛いの、痛いの、母さんのところに、飛んでいけ」


それは、ただのおまじないだ。

しかし、不思議なことに、彼女がそう言って、傷口に優しく息を吹きかけると、本当に、痛みが和らいでいくような気がした。

彼女の優しい声と、温かい息遣いが、何よりも効く、魔法の薬だった。


彼女は、いつも、朔郎の世界の、中心にいた。

彼女がいれば、何も怖くなかった。

彼女の笑顔が、朔郎の、たった一つの太陽だった。


「……お客さん?」

運転手の声に、朔郎は、はっと我に返った。

いつの間にか、タクシーは、渋滞を抜けて、比較的スムーズに流れ始めていた。


「ああ、すみません……」

朔郎は、ごまかすように、窓の外に視線を戻した。

頬に、冷たいものが伝う感覚があった。

彼は、自分が、泣いていることに、その時、初めて気づいた。


(母さん……)


あの頃、俺の痛みを、全て引き受けてくれた、母さん。

今度は、俺が、あんたの痛みを、引き受ける番なんだ。

だから、待っていてくれ。


もうすぐ、だから。

タクシーのメーターが、カチリ、と音を立てて、一つ数字を上げた。

それは、まるで、彼の人生の、残り時間を告げる、カウントダウンのように聞こえた。

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