『最後の肖像』第4話
押入れの中は、彼の人生そのもののように、雑然としていた。
古本、着古した服、そして、段ボールに詰め込まれた、かつてのボツ原稿の山。
その奥の、一番隅に、それは、ビニールカバーをかけられたまま、ひっそりと吊るされていた。
少し時代遅れなデザインの、チャコールグレーのジャケット。
朔郎は、それを、まるで壊れ物に触れるかのように、そっと取り出した。
指先が、わずかに震えている。ビニールを外すと、防虫剤の、懐かしい匂いがした。
これは、彼が大学を卒業して、初めて文学賞の最終候補に残った時に、母・千代乃が買ってくれたものだった。
「朔ちゃん、授賞式には、ちゃんとした格こしないと。作家先生になる人が、みすぼらしい格好してたら、なめられちゃうからね」
近所の、少しだけ高級な紳士服店。
千代乃は、そう言って、自分のパート代をはたいて、このジャケットを買ってくれた。
不採用の知らせが届き、結局、このジャケットが授賞式で着られることはなかったが、彼女は、少しもがっかりした顔を見せなかった。
「大丈夫、大丈夫。次があるよ。このジャケットは、その時まで、母さんが大事に取っといてあげるから」
彼女は、そう言って笑い、このジャケットに、丁寧にビニールカバーをかけて、自分の箪笥の、一番良い場所に仕舞い込んだ。
まるで、息子の「未来の栄光」そのものを、大切に保管するように。
朔郎が、彼女を施設に入れると決めた日。
荷物をまとめる千代乃は、もう、自分の名前すら、時々、おぼろげになっていた。
しかし、彼女は、このジャケットだけは、まるで宝物のように、最後まで、自分の手から離そうとしなかった。
「……これは、朔ちゃんの、大事な服だから……。私が、持っとかないと……」
その、か細い声を聞いた時、朔郎は、胸をナイフで抉られるような痛みに、その場で泣き崩れそうになった。
彼は、母親の記憶の中から、自分が消えかかっているという、残酷な現実から、目を背けた。
そして、彼女の手から、半ば無理やり、このジャケットを奪い取った。
「いいんだよ、母さん。これは、俺が持ってるから」
それが、彼が、母のプライドと、母との絆に対して犯した、数えきれない裏切りの、ほんの一つだった。
朔郎は、そのジャケットに、ゆっくりと袖を通した。
サイズは、ぴったりだった。
鏡に映った自分の姿は、ひどく滑稽で、場違いに見えた。
まるで、父親の服を、こっそり着てみた子供のようだ。
しかし、彼は、この服を着て、母に会いに行かなければならない。
これは、ただのジャケットではない。
母が信じてくれた、自分の「未来」そのものであり、同時に、自分が踏みにじってきた、母の「愛情」の、象徴でもあった。
「……母さん」
鏡の中の、情けない男に向かって、朔郎は呟いた。
「今度こそ、間に合ったよ」
その声は、ひどく、か細く震えていた。
彼は、財布とスマートフォンだけをポケットにねじ込むと、部屋を飛び出した。