表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/8

『最後の肖像』第3話

バスを降り、錆びた鉄の門扉を軋ませて、古い文化住宅の敷地に入る。

玄関の引き戸を開けると、カビと埃の匂いが混じった、淀んだ空気が朔郎を迎えた。

ここが、彼の城であり、牢獄だった。


二階の自室に上がると、西日が差し込む四畳半の部屋は、彼の混乱した頭の中をそのまま映し出したかのように、雑然としていた。

脱ぎっぱなしの服、コンビニ弁当の空き容器、そして、部屋の壁という壁に、びっしりと貼り付けられた、無数のメモ用紙。


その全てが、今回受賞した『最後の肖像』の、プロットや、セリフの断片、登場人物の設定だった。

朔郎は、その壁の前に、吸い寄せられるように立った。

一枚一枚のメモに書かれた、自分の、のたうつような筆跡。


『主人公は、なぜ、妻の「今」ではなく、「過去の美しい姿」ばかりを描こうとするのか?』

『それは、老いという現実からの逃避であり、同時に、失われていく美しさへの、無力な抵抗である』

『愛しているからこそ、彼は、現実の妻を見ることができない』

その、書き殴られたような文字たちを、指でそっと撫でた。

その瞬間、だった。


(……ああ、本当なんだ)


受賞という、遠い世界の出来事が、初めて、腹の底にすとんと落ちる、確かな手応えを伴って、彼を貫いた。

この、部屋の片隅で、たった一人で、社会から見捨てられたように生きてきた自分の、その苦悩と、孤独と、そして、どうしようもない祈りのような言葉たちが、誰かに届いたのだ。認められたのだ。


込み上げてきたのは、純粋な歓喜だった。

全身の細胞が、沸騰するような感覚。思わず、「うおおっ」と、獣のような声が漏れた。

彼は、部屋の中央で、意味もなく拳を突き上げ、子供のように、何度も小さく飛び跳ねた。


しかし、その興奮の絶頂で、ふと、彼の視線は、机の上に置かれた、一枚の写真立てに吸い寄せられた。

笑っている、若き日の千代乃の写真。

その、穏やかな笑顔を見た瞬間、朔郎の脳天を、冷たい水が浴びせかけたかのように、熱狂は急速に冷めていった。

そして、その代わりに、全く別の、強烈な感情が、彼を支配し始めた。


(……母さんに、知らせなければ)


それは、もはや、単なる「報告」という言葉ではなかった。

強迫観念にも似た、抗うことのできない、絶対的な「義務」。

そして、焦りだった。


施設の面会時間は、午後五時まで。

壁の時計を見ると、針は、すでに午後三時四十五分を指していた。

もう、時間がない。

朔郎は、狂ったように部屋の中を見回し、クローゼット代わりの押入れを、乱暴に開け放った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ