『最後の肖像』第3話
バスを降り、錆びた鉄の門扉を軋ませて、古い文化住宅の敷地に入る。
玄関の引き戸を開けると、カビと埃の匂いが混じった、淀んだ空気が朔郎を迎えた。
ここが、彼の城であり、牢獄だった。
二階の自室に上がると、西日が差し込む四畳半の部屋は、彼の混乱した頭の中をそのまま映し出したかのように、雑然としていた。
脱ぎっぱなしの服、コンビニ弁当の空き容器、そして、部屋の壁という壁に、びっしりと貼り付けられた、無数のメモ用紙。
その全てが、今回受賞した『最後の肖像』の、プロットや、セリフの断片、登場人物の設定だった。
朔郎は、その壁の前に、吸い寄せられるように立った。
一枚一枚のメモに書かれた、自分の、のたうつような筆跡。
『主人公は、なぜ、妻の「今」ではなく、「過去の美しい姿」ばかりを描こうとするのか?』
『それは、老いという現実からの逃避であり、同時に、失われていく美しさへの、無力な抵抗である』
『愛しているからこそ、彼は、現実の妻を見ることができない』
その、書き殴られたような文字たちを、指でそっと撫でた。
その瞬間、だった。
(……ああ、本当なんだ)
受賞という、遠い世界の出来事が、初めて、腹の底にすとんと落ちる、確かな手応えを伴って、彼を貫いた。
この、部屋の片隅で、たった一人で、社会から見捨てられたように生きてきた自分の、その苦悩と、孤独と、そして、どうしようもない祈りのような言葉たちが、誰かに届いたのだ。認められたのだ。
込み上げてきたのは、純粋な歓喜だった。
全身の細胞が、沸騰するような感覚。思わず、「うおおっ」と、獣のような声が漏れた。
彼は、部屋の中央で、意味もなく拳を突き上げ、子供のように、何度も小さく飛び跳ねた。
しかし、その興奮の絶頂で、ふと、彼の視線は、机の上に置かれた、一枚の写真立てに吸い寄せられた。
笑っている、若き日の千代乃の写真。
その、穏やかな笑顔を見た瞬間、朔郎の脳天を、冷たい水が浴びせかけたかのように、熱狂は急速に冷めていった。
そして、その代わりに、全く別の、強烈な感情が、彼を支配し始めた。
(……母さんに、知らせなければ)
それは、もはや、単なる「報告」という言葉ではなかった。
強迫観念にも似た、抗うことのできない、絶対的な「義務」。
そして、焦りだった。
施設の面会時間は、午後五時まで。
壁の時計を見ると、針は、すでに午後三時四十五分を指していた。
もう、時間がない。
朔郎は、狂ったように部屋の中を見回し、クローゼット代わりの押入れを、乱暴に開け放った。