『最後の肖像』第2話
現場監督に頭を下げ、ふらつく足で工事現場を後にした。
早退の理由は、正直に話す気にはなれなかった。
「体調が悪いので」とだけ告げると、監督は「熱中症か、無理すんなよ」と、意外なほどあっさりと解放してくれた。
バス停のベンチに座り、先ほど編集者の小林がまくし立てていた言葉を、頭の中で反芻する。
「授賞式は来週」「すぐに会見のセッティングを」「とにかく、すぐに東京に来てください」。
そのどれもが、まるで遠い国の出来事のように、現実感がなかった。
やがて来たバスに乗り込むと、生ぬるいクーラーの風が、火照った体を撫でていく。
一番後ろの席に座り、窓の外を流れる、見慣れた、しかし、今日はどこか違って見える街並みを、朔郎はぼんやりと眺めていた。
(……受賞?俺が?あの、『最後の肖像』が……?)
まだ、信じられない。
それは、彼が、たった一人で、あのカビ臭い部屋で、自分の血をインクに変えるようにして書き上げた物語だ。
母を施設に入れた罪悪感から逃れるためだけに、紡いだ言葉の連なりだ。
それが、評価された。認められた。
その事実が、じわじわと、しかし、確かな熱を持って、体の芯を温め始める。
と、その時だった。
バスが、大きな交差点で信号待ちのために停車する。
横断歩道を、小さな子供の手を引いた母親が渡っていく。
母親は、何かを子供に話しかけ、楽しそうに笑っていた。
その、ありふれた光景を見た瞬間、朔郎の脳裏に、一つの記憶が、何の脈絡もなく、鮮やかに蘇った。
あれは、小学校の作文コンクールだった。
『ぼくのおかあさん』という、ありきたりな題名で書いた作文が、市の賞を取った。
放課後の教室で、担任教師から賞状を受け取った帰り道、朔郎はそれを丸めたまま、千代乃の働く小さな食堂へと走った。
「母さん!これ!」
店の裏口で、息を切らしながら賞状を広げると、千代乃は、驚いたように目を丸くし、それから、顔をくしゃくしゃにして、朔郎よりも大きな声で喜んだ。
「すごいじゃない!朔ちゃん、すごい!うちの子は、作家先生になれるかもしれないねぇ!」
彼女は、小麦粉で白くなった手で、朔-郎の頭を、少し乱暴なくらいに、何度も何度も撫でた。
その時の、彼女の誇らしげな笑顔と、手のひらの温かさを、朔郎は、今でもはっきりと覚えていた。
「……作家先生、か」
朔郎は、誰に言うでもなく、そう呟いた。
バスの窓に映る自分の顔は、ひどく間抜けな、泣き笑いのような表情をしていた。
あの頃、母が冗談のように言った言葉が、今、現実になった。
一番に、報告しなければ。
あの時のように、「すごいだろ」と、胸を張って。
その思いが、胸の中で、確かな形を結び始めた。