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第9話:鍵を壊した日

『代償台帳』――それは、少女が数年をかけて書き続けた、復讐のための記録。


父を奪った男を見つけた夜、彼女は手錠を持って地下室の扉を叩く。

憎しみだけが、彼女を生かしてきた。

罰するべき相手を、ついに捕らえた。


だが、男は抵抗しない。

まるで、この日を待っていたかのように。


監禁された男が語る「あの日」の真実は、少女の記憶と食い違っていく。

そして、彼の腕に刻まれた火傷の痕が、すべてを変える――


これは、復讐の物語ではありません。

憎しみという名の自己欺瞞が、音もなく崩れ落ちていく物語です。


※重厚な心理描写を含みます。救いのある結末を求める方にはお勧めしません。

※全10シーン、約10,000字の中編です。

第一幕:準備された憎しみ


シーン1a:台帳をつける夜


六畳一間のアパートは、しんと冷え切っていた。隣室から聞こえるかすかな水の音だけが、世界の境界を告げている。

父の命日。テーブルに置かれたカレンダーの、赤い丸印だけが、この部屋で唯一の色彩だった。


少女は机に向かい、使い古された大学ノートを開いた。表紙には『代償台帳』とだけ記されている。机の引き出しの一つは、鍵をなくしてからずっと開けていない。だが、彼女がいつでも開けるのは、この『代償台帳』だけだった。開かなければ、生きていけないからだ。


ページをめくる。そこには、父の死に関する情報が、几帳面な文字でびっしりと書き込まれていた。新聞の切り抜き。古い写真。そして、彼女が「おじさん」と呼ぶ男の、歪んだ横顔。

父の隣でぎこちなく笑う、若い頃の男。かつて、この笑顔を信じていた時期があったことを、少女はもう思い出せない。


ふと、机の隅の手鏡に、自分の顔が映った。光のない瞳。固く結ばれた唇。

いつからか、顔つきが父に似てきた、とぼんやり思う。父の無念を継いだのは、血だけではない。


憎しみだけが、彼女の世界を確かにしていた。


少女はペンを手に取った。台帳の、白紙のまま残されていた最後のページ。そこに、彼女はたった一文を書きつけた。

『おじさんを殺す』

書かれた文字の上を、彼女は何度も、何度もペンでなぞった。はじめは静かな祈りのように、やがてそれは呪詛に変わる。カリ、カリ、と紙を削る音だけが部屋に響く。ペン先の震えが紙を裂く、その瞬間、彼女の呼吸が一度だけ止まった。インクが滲み、繊維が毛羽立ち、紙そのものが小さく破れる。

それでも、彼女はペンを止めなかった。


---


シーン1b:鍵を手に入れた日


高架下を電車が通り過ぎるたび、頭の中の何かがわずかに揺れた。少女は壁に背を預け、目の前の男を見ていた。薄暗い影が、彼女の輪郭を削り取っていくようだった。


「…これであんたとの契約は終わりだ。もう二度と俺の前に姿を現すな」


情報屋の男はそう言って、小さなメモを差し出した。その目は、引き返せない一線を越えた者を見る目だった。少女は震える指でメモを受け取った。そこに書かれた、たった一行の住所。


「やっと、見つけた」


声は、乾いていた。

復讐を遂げたら、何かが戻る気がしていた。でも、その"何か"が何なのか、思い出せなかった。


コートのポケットで、冷たい金属の感触を確かめる。それは、復讐の相手を拘束するための手錠と、その鍵だった。手錠は氷のように冷たかった。まるで、少女自身の凍りついた心臓を模しているかのようだった。


目的地の「鍵」は手に入れた。あとは、扉を開けるだけ。


彼女は冷たい風が吹き抜ける高架下を、振り返らず、ただ前へ、迷いのない足取りで去っていった。

足音は一つ一つ、冷たいコンクリートに響いた。それは、復讐という名のレールの上を走る、彼女ではない誰かの機械的なリズムのようだった。


---


シーン2:贖罪を待つ扉


古い雑居ビルの地下へ続く階段は、夜気よりもさらに冷たかった。一段降りるごとに、少女の息が白さを増していく。湿ったカビの匂い。錆びついた鉄の扉が、階段の先で彼女を待っていた。


扉の前で、少女は立ち止まった。

コートのポケットの中で、手錠を握りしめる。氷のように冷たい金属。この瞬間のために、何年を費やしてきたのか。


目を閉じる。

台帳に書かれた一文が、瞼の裏に浮かぶ。

『おじさんを殺す』


息を吐く。白い息が、暗闇に溶けて消える。

ノックの音は、三回。迷いはなかった。


長い沈黙の後、扉が軋みながらゆっくりと開いた。

中に立っていたのは、紛れもなく、少女が追い続けた男だった。

男は痩せ、まるでこの場所で「時が止まること」を望んでいたかのように見えた。頬は削げ、白いものが混じった髪は、長い間、日の光を浴びていないかのように色を失っている。部屋の奥には、逃亡用の荷物一つ見当たらなかった。


男は、少女の顔を見ると、驚きもせず、ただすべてを悟ったかのように、静かに息を吐いた。


「全部、聞かせてもらうから」


その声は、少女自身のものとは思えないほど冷たかった。


男は何も言わず、静かに両手を前に差し出した。その手首には、古い傷の痕が薄く残っている。少女は手錠を取り出し、震える指で男の手首に嵌めた。


カチリ。


冷たい金属音が、狭い部屋に響く。男は手錠を一度だけ見つめ、そして少女の目を見た。


「…ようやく、終わらせられる。待っていたよ」


男はそう言って、かすかに息を吐いた。それは、長い間、息を止めていた者の、ようやく訪れた解放のようだった。


---


第二幕:揺らぐ確信


シーン3:尋問と食い違う証言


部屋には、裸電球が一つ。その黄ばんだ光が、粗末なテーブルと椅子二つを照らし出している。それだけだった。壁には無数の染みがあり、湿ったカビの匂いが空気を重くしている。天井は低く、圧迫感があった。まるで、この部屋そのものが、男を長い間押しつぶしてきたかのように。


手錠をかけられた男は、促されるままに椅子に座った。少女はその向かいに立つ。見下ろす位置。それが今の力関係のはずだった。


少女は『代償台帳』をテーブルに叩きつけた。バン、という乾いた音が響き、積もっていた埃が光の中に舞う。

「父が死んだ日。あなたは何をしていた?」

声が、自分でも気づかないうちに上ずった。心臓が早鐘を打つ。


男は顔を上げない。ただ、テーブルの木目をなぞるように、視線をさまよわせているだけだった。

「…あんたの父親は、立派な男だった」

「そんなことは聞いてない。あの日、あなたは父を見捨てて逃げた。そうでしょう?」


「いや…」

男は、何かをこらえるように目を伏せた。その手が、無意識に左腕の袖を撫でる。まるで、古い痛みを思い出すかのように。


少女は、男のその態度に苛立ちを覚えた。やはり証言を拒否する気なのだと、無理やり自分に言い聞かせる。

彼女はノートを強く指で押さえつけた。

だが――

台帳のページが、かすかに歪んで見えた。何年もかけて書き込んだこの記録。父の死の真相。それは本当に「真実」だったのか。それとも、幼い自分が見た断片を、後から繋ぎ合わせた「物語」に過ぎなかったのか。


その疑念を振り払うように、彼女は男から一歩だけ、無意識に後ずさっていた。憎しみで満ちていたはずのこの地下室が、急に足元から崩れていくような感覚がした。


---


シーン4:手錠の痕の意味


重い沈黙が部屋を満たしていた。裸電球の黄ばんだ光の中を、埃がゆっくりと舞っている。


少女は、先ほどの動揺を押し殺すように、深く息を吸った。視線を落とす。男の両手を繋ぐ手錠。そして、その下にある手首。

そこには、新しい金属の痕に重なるようにして、古く、皮膚に食い込んだような、痣のような痕が残っていた。まるで、何年も、何年も、同じ場所に枷を嵌め続けていたかのような。


「…その痕、何?」

声は、かろうじて聞き取れるほど小さかった。


男は、まるで初めて自分の傷痕に気づいたかのように、ゆっくりと手首に視線を落とした。

「ああ、これか…」

彼は、諦めたように息を吐いた。

「時々、自分で嵌めていたんだ。外に出たいという欲を、断ち切るために」


少女は息をのんだ。

目の前の男は、ただ逃げていただけではない。

この薄暗い地下室で、自らを囚人とし――いや、囚人であり、同時に看守でもあった。たった一人で。刑期のない刑に。何年も。


少女の頭の中で、その光景が組み上がっていく。

誰もいない地下室で、男が自分の手首に手錠を嵌める。

鍵を遠くに置く。

届かない場所に。

そして、ただ待つ。

何かが終わるまで。


私は、彼に「罰」を与えたつもりでいた。しかし、私がしたのは、彼が何年も待ち望んでいた「執行」でしかなかった。私の憎しみは、この男にとっての「自由」だったのだ。


加害者を罰する。

それが正しいと信じていた。

だが、目の前にいるのは、すでに罰を受け続けている男だった。


では、自分は今、何をしているのか。


少女の手が、テーブルの端を握りしめる。指先から血の気が引いていく。膝が、かすかに震えた。それは寒さのせいではなかった。

彼女は、自分がいるこの地下室が、男にとっての「墓」であると同時に、組織にとっての「標的」であることを、今、初めて実感した。

そして、この男こそが、今や真実を知る唯一の「鍵」だと悟った。


---


シーン5:襲撃と守護の反転


しばらくの間、二人はただ沈黙していた。


少女は、テーブルの上に置かれた台帳を見つめていた。何年もかけて書き込んだ記録。だが今、それは頼りないものに思えた。本当の真実は、この台帳の中ではなく、目の前の男の記憶の中にある。


彼こそが、父の死の真相を知る、唯一の――


その瞬間だった。

鉄の扉が、外から乱暴に蹴られた。ガン、ガン、と鈍い金属音。狭い部屋全体が揺れる。


「開けろ! 中にいるのは分かってる!」


男の声。荒々しく、容赦のない声。扉の隙間から、バールのようなものが差し込まれ、こじ開けようとする激しい金属音が響く。


少女の体が凍り付いた。組織の残党だ。

男は、椅子から立ち上がると、手錠で繋がれた両手を、少女の肩に押し当てた。その力は、予想外に強かった。


「テーブルの下へ!」


少女は抵抗する間もなく、粗末なテーブルの下へ押し込まれる。手錠の鎖が、一瞬、少女の首筋に触れた。その冷たい金属の感触は、彼女が今や「囚人」に守られているという、絶望的な皮肉を突きつけた。

男がテーブルを盾にするように立ちはだかった瞬間、鎖はギリギリと音を立てて、最大限に引き絞られていた。


扉の向こうで、怒声が続く。

「記録はどこだ! そいつに喋らせる前に始末しろ!」


少女は、テーブルの下で息を殺した。自分の心臓の音が、扉を叩く音よりも大きく聞こえる。

監禁は、彼を組織から守るための「保護」に変わってしまった。


――殺すのは、私だ。あんたたちに殺させるわけにはいかない。


その独占欲にも似た感情が、復讐心から生まれたものなのか、それとも別の何かなのか、もう彼女自身にもわからなかった。

ただ、長年彼女を包んでいた「憎しみ」という名の冷たい硬い皮膚が、今、男の背中によって守られ、温められ、そして溶け始めていることだけが、理屈抜きに怖かった。


どれだけの時間が経ったのか。

扉を破壊する音が、突然止まった。外から、舌打ちと、何かを諦めたような呟き。

「……クソッ、時間がない。撤収だ」

足音が遠ざかっていく。階段を駆け上がる音。やがて、静寂が戻った。


少女は、テーブルの下で息を殺したまま、しばらく動けなかった。男も、扉の前で立ち尽くしている。

やがて、男がゆっくりと振り返った。手錠をかけられた両手を、力なく下ろす。

「……大丈夫か」


その言葉に、少女はようやく自分が無事だと気づいた。

彼女はテーブルの下から這い出した。膝が震えていて、うまく立てない。男が手を差し伸べようとして、手錠の鎖が音を立てる。

その音で、少女ははっと我に返った。


自分は、この男を監禁していたのだ。

なのに、守られていた。


少女の視線は、床に落ちた。もう、男の顔をまっすぐ見ることができなかった。


---


シーン6:父の手紙の存在を知る


気まずい沈黙が、襲撃の痕跡が残る部屋に満ちていた。

歪んだ鉄の扉が、かろうじて閉まっている。少女は、まだ床に視線を落としたままだった。男の顔をまっすぐ見ることができない。膝の震えも、まだ収まらない。


監禁者として、尋問者として、ここにいたはずだった。

だが今、自分は守られた者として、ここに座っている。


「すまなかった」

男が、静寂を破った。

「俺がここにいたせいで、あんたを危険な目に…」


「…違う」

少女は、かろうじて声を絞り出した。

「彼をここに閉じ込めたのは、自分だ。巻き込んだのは――いや、そもそも――」

思考がまとまらない。


男は、部屋の隅にある古いロッカーへ向かった。そして、錆びた扉を開け、中から一つの封筒を取り出した。

それは、長い年月を経て、黄ばんでしまった古い封筒だった。

「時間がないのかもしれない」

男は、襲撃者がいつ戻ってきてもおかしくないことを悟っていた。

「だから、これを渡しておく。あんたの父親から、預かったものだ」


少女は、息をのんだ。

男の手の中にある、古びた封筒。宛名は、ない。


「あの日、あんたの父親は、俺に二つのものを託した。一つは、あんただ。そしてもう一つが、これだ」

男は、震える手で封筒を差し出した。その指は、何度も封筒の縁を撫で、視線は少女の顔と手元を行き来している。

「俺には、これを渡す資格がないと思っていた。だが、今日、こうしてあんたが来てくれた。…受け取ってくれ」


少女は、差し出された封筒を見つめた。

黄ばんだ紙の向こうに、父の命の体温が今も残っているような気がした。

手を伸ばしかける。指先が、かすかに震えた。

幼い頃、父と交わした最後の、何気ない会話が、脳裏をよぎる。


開けるのが、怖かった。

ここに書かれた父の言葉が、もし「お前を愛している」ではなく「俺を助けなかったあいつを憎め」という、自分の復讐を肯定する言葉であったとしても。あるいは、「憎しみから解放されて生きろ」という、自分の復讐を否定する言葉であったとしても。

復讐という名の拠り所を失うことは、私という存在の核を失うこと。父の最後の言葉を、私が受け入れられないかもしれないという事実が、何よりも怖かった。


「……今は、いらない」

絞り出すような声で、そう言うのが精一杯だった。


男は、何も言わなかった。ただ静かに頷き、封筒をそっとロッカーへ戻そうとする。


「待って」

少女は反射的に声を上げた。男の手が止まる。

「……そこに、置いておいて」


なぜそう言ったのか、自分でもわからなかった。受け取らないと決めたはずなのに、遠くへ行ってしまうのは嫌だった。

男は、テーブルの上、少女が叩きつけた『代償台帳』の隣に、その封筒をそっと置いた。

黒いインクがにじんだ台帳。それは、少女の数年間の「負の積み重ね」と、歪んだ正義の結晶だった。

黄ばんだ古い封筒。それは、父の「最後の言葉」という、復讐のすべてをひっくり返す可能性のある、ただ一つの爆弾だった。

二つの「真実」が、地下室の黄ばんだ光の下で、静かに火花を散らすように、少女の決断を待っていた。


「すべてを話そう」

男は静かに言った。

「あの日、本当は何が起きたのか。あんたの父親が、何のために死んだのか。そして――」

男は、自分の左腕をそっと撫でた。

「――俺が、なぜここにいるのか」


少女は、男の目を見た。その目には、真実を語る覚悟が宿っていた。

第二幕の扉が、静かに閉まろうとしていた。そして、第三幕の扉が、重く開き始める。


---


第三幕:真実の代償


シーン7:記憶の上書きと火傷の痕


男は、言葉を探すように、何度か口を開いては閉じた。その声は、長い間封印してきた記憶の扉を、無理やりこじ開けるかのように、軋んでいた。


「組織の連中に……追い詰められた。逃げ場は、なかった」

男の声が震える。

「あんたの父さんは、俺に言った。『こいつを連れて逃げろ』と。俺は拒否した。三人で逃げられると――だが、父さんは俺の肩を掴んで、叫んだんだ」

男の手が、無意識に少女の肩を掴む仕草をする。

「『お前が生き延びろ。娘を頼む』と」


「嘘だ」

少女は立ち上がった。椅子が床に擦れる甲高い音を立て、後ろに倒れる。

「嘘だ! 私は聞いたの。父の叫び声を。炎の中で、助けを求める声を!」

彼女は両手でテーブルを叩いた。『代償台帳』が跳ね、数ページが乱れる。

「それが私の真実なの! その真実がなければ、私は何のために生きてきたのよ! 私の人生は、何だったのよ!」

『代償台帳』のページをめくり、震える指で一行を指し示す。

「ここに書いてある!『父は、裏切り者の名を叫んでいた』って!」


男は、悲しげに首を横に振った。

「あんたの父さんが叫んでいたのは、俺の名前じゃない。あんたの名前だ」


その言葉が、少女の心臓を貫いた。


「父さんは、あんたがちゃんと逃げているか、確認しようとしていた。だが、燃え落ちてきた梁が、行く手を塞いだ。父さんは、炎の向こうから、あんたの名前を叫び続けた。助けを求めていたんじゃない。あんたの無事を、祈っていたんだ」


少女は、激しく首を横に振った。認めたくなかった。

「私は見たの。父が燃える天井の下にいるのを。あなたが、それを見捨てて、私を引きずって逃げたのを! 私の記憶が、間違ってるはずがない!」


男は、もう何も言わなかった。

ただ、黙って、左腕の袖をゆっくりとまくり上げた。

黄ばんだ電球の光の下に、醜いケロイド状の火傷の痕が、肘から手首にかけて、生々しく広がっていた。それは、まるで炎の記憶が、皮膚に焼き付いてしまったかのようだった。

「あんたを庇って、燃え盛る壁の間を抜けた時に、負った傷だ」


少女の呼吸が、止まった。

幼い頃、確かに見たことがある。この火傷の痕を。だが、いつからか、その記憶に蓋をしていた。見たくなかった。認めたくなかった。


記憶の角度が、強制的に、暴力的に変わっていく。

炎の向こうから、父の最後の視線が、逃げていく幼い自分を、確かに見つめていた。

それは、絶望の目ではなかった。

見捨てられた者の目ではなかった。

愛する娘の未来を、友に託す、最後の祈りの目だった。


少女の頭の中で、『代償台帳』の最終ページに血のように刻んだ「おじさんを殺す」という文字が、インクごと剥がれ落ちていく、乾いた音が響いた。自分の脳が、何年もかけて作り上げた「憎しみ」という物語を、自ら壊し、書き換えている。それは、肉体が裂かれるような、耐え難い痛みだった。


自分は、見ていたのではない。

見られていたのだ。

父に。そして、この男に。

守られていたのだ。


少女の膝から、力が抜けた。

彼女は、その場に崩れ落ちるように、床に座り込んだ。

声も出ず、涙も出なかった。

ただ、空っぽになった頭の中で、父の最後の視線と、男の火傷の痕が、飽きることなく、何度も、何度も、何度も、繰り返し再生されていた。

世界から、音が消えた。


---


シーン8:静寂の崩壊


どれだけの時間が経ったのか、少女にはわからなかった。


世界から音が消えていた。

代わりに、キーンという鋭い耳鳴りが頭蓋の内側で鳴り響いている。


彼女は床に座り込み、ただ一点を見つめていた。目の前には、倒れた椅子と、男の靴先が見えるだけ。


憎しみも、悲しみも、怒りも、すべてが燃え尽きて、そこにはただ、広大な灰色の空虚が広がっていた。体が鉛のように重く、指先は氷のように冷たい。まるで、魂だけが肉体から抜け落ちてしまったかのようだった。


やがて、少女は、壁に手をつき、おぼつかない足取りでゆっくりと立ち上がった。

男は、何も言わずに、ただその姿を見ている。その目には、深い疲労と、語り終えた者の、空っぽの安堵が浮かんでいた。


少女は、テーブルの上に視線を落とした。

憎しみのすべてを書き連ねた『代償台帳』。

父の最後の言葉が眠る、黄ばんだ手紙。


彼女は、その手紙を手に取らなかった。

『代償台帳』にも触れなかった。


何も持たず、彼女は扉へと向かった。


「待ってくれ」

背後から、男の声がした。

少女は歩みを止めた。だが、振り返らなかった。


沈黙。


男は、何か言いかけて、やめた。言葉が見つからない。

代わりに、かろうじて聞き取れるほどの声で、問いかけた。

「あなたは……私に、何を望んでたの?」


少女は、しばらく黙っていた。そして、扉に手をかけたまま、虚空に向かって呟いた。

「知らない」


鍵の場所を知らないのではない。

憎しみという、長年自分を動かしていた「感情の鍵」を、もうどこにやったか知らないのだ。


彼女は、扉の向こうへと消えた。


部屋には、手錠をかけられたままの男が残された。

そして、テーブルの上には、台帳と手紙。

二つの真実が、静かに横たわっていた。


---


後幕:空虚な自由


シーン9:開かれない手紙


地下室を出た後、少女は当てもなく歩いた。

夜の街は、どこまでも冷たく、無関心だった。車のヘッドライトが音もなく流れ、遠くで誰かの笑い声が聞こえる。自分以外のすべてが、確かな輪郭と「目的」を持って存在しているように思えた。そして、自分だけが、目的という名の皮を剥ぎ取られ、ただの空っぽの肉塊になってしまったかのようだった。

かつて、台帳を手にしていた頃は、道に迷うことなどなかった。目的地は、いつも一つだったからだ。だが今は、どの方角へ進めばいいのか、全くわからなかった。


ふと、コートのポケットに手を入れた。

冷たい金属の感触。

地下室を出る直前、テーブルの上から、無意識に掴み取っていたもの。

手錠の鍵。


なぜこれを取ったのか、自分でもわからなかった。

この鍵の冷たさだけが、自分が「何もかも許したわけではない」という、最後の言い訳だった。憎しみという役割を失った彼女が、男との繋がりを無理やり維持するための、呪いの道具。


もう一つのポケットには、父の手紙が入っていた。

公園のベンチに、少女は力なく座り込んだ。街灯の頼りない光が、手の中の黄ばんだ封筒を照らし出す。

開けることは、しなかった。

ただ、その紙の感触を、指先で確かめていた。

それは、もはや復讐の行方を左右する爆弾ではなかった。憎しみを失った今、この手紙は、ただの「父の手紙」だった。

黄ばんだ紙の向こうに、父の命の体温が今も残っているような気がした。


それが、憎しみを失った彼女が見つけた、新しい支えの形だった。


夜明けは、まだ遠い。

少女は、再び立ち上がり、歩き始めた。

自分の足で、道を探さなければならなかった。

どこへ向かうのかは、まだ、わからないまま。


---


シーン10:雑踏の中の独白


あれから、数日が経った。


あの夜、少女は夜明けまで歩き続けた。足が棒のようになり、もう一歩も進めなくなった時、ようやく安いビジネスホテルに入った。小さな部屋のベッドに倒れ込み、そのまま丸一日、泥のように眠った。


目が覚めた時、窓の外はまた夜だった。

三日目の夜、少女は河川敷を訪れた。


川の流れる音だけが聞こえる、暗い土手。誰もいない。

少女は、コートのポケットから、父の手紙と、手錠の鍵を取り出した。

それを、小さなブリキの缶に入れる。蓋を閉める。カチリ、と小さな音。


彼女は、素手で土を掘り始めた。冷たく湿った土が、爪の間に入り込む。掌が痛い。だが、掘り続けた。

深く、深く。まるで『代償台帳』に刻んだ憎しみの文字を、この手で掘り返し、葬り去っているかのように。


穴の底に、缶をそっと置く。

そして、土を戻していく。

一掴み、また一掴み。

最後に、土を平らにならした。


何の目印もない。

どこに埋めたのか、明日には忘れてしまうだろう。

それでいい。


少女は、泥だらけの手を、川の水で洗った。冷たい水が、指先の感覚を奪っていく。

もう、二度と開けることはないだろう。そして、二度と、自分の痛みを誰かのせいにすることもないだろう。


そして今日、彼女は雑踏の中にいた。

駅前のスクランブル交差点。信号が青に変わると、無機質な電子音と共に、おびただしい数の人々が、それぞれの目的地に向かって歩き出す。誰も、彼女のことなど気にも留めない。彼女もまた、誰の顔も識別できなかった。ただ、人間という大きな流れの一部になって、歩いているだけ。

かつて憎しみを抱えていた頃は、この無関心な世界が、ひどく息苦しかった。だが今は、この匿名性が、心地よかった。


時々、街角で、誰かの背中におじさんの面影を探してしまうことがある。

あの男は、今、どうしているだろうか。

どちらでも、よかった。

もう、彼の人生は、彼女のものではない。


信号が、赤に変わる。

人々が、足を止める。

少女も、流れの真ん中で立ち止まった。


そして、彼女はそっと、何年も固く閉ざしていたコートの襟元を緩めた。冷たい夜明け前の空気が、喉の奥まで入ってくる。


憎しみが消えたら、自分は何を支えに生きていけばいいのか、わからなかった。

だが、答えは、案外簡単なことだったのかもしれない。


憎しみは、誰かを罰するためのものではなかった。

父を守れなかった自分を、責めずに済むための、言い訳だった。

父を失った悲しみを、誰かのせいにすることで、かろうじて立っているための、最後の杖だった。


その杖を失った今、彼女は自分の足で立たなければならない。

ふらつき、倒れそうになりながらも、一歩ずつ。


空を見上げる。

あの日と同じ、どこまでも広がる、灰色の空。


赦しが欲しかったのは、おじさんでも、父でもない。


――許されたかったのは、私だった。


誰かを赦すことで、自分が許される。

誰かを罰することで、自分が救われる。


そんな、都合のいい言い訳が欲しかっただけだった。


その事実に気づいた瞬間、止まっていた呼吸が、熱い塊となって、喉から漏れた。視界が、ほんの少しだけ滲む。だが、涙は流れなかった。ただ、空っぽだった胸の中に、ほんのわずかな隙間が生まれた。


青信号が点滅を始める。

少女は、再び歩き出した。

足の裏に、アスファルトの微かな振動を感じる。


雑踏の中へ。

まだ名前のない、明日へ。


(了)

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


この物語は、復讐の話ではありません。

「憎しみ」という支えを失った人間が、それでもなお歩き出す話です。


少女は、おじさんを赦したわけではありません。

父を忘れたわけでもありません。

ただ、自分が信じてきた「物語」が虚構だったと気づいただけです。


その虚無の中で、彼女は歩き出しました。

雑踏の中へ。まだ名前のない、明日へ。


―――


**ちょっとした裏話**


この作品の核心は、シーン7の「記憶の上書き」です。

「見ていたのではない、見られていたのだ」という視点の転換を書くために、6シーン分の積み上げをしました。


また、「未確定の父」という概念は、執筆中に生まれたものです。

手紙を開けない理由を考えているうちに、「開けない限り、無限の可能性を持ったまま」という発想が浮かびました。


少女にとって、それが新しい支えになる――そう信じています。


―――


重い作品でしたが、最後まで付き合ってくださり、本当にありがとうございました。


感想やご意見、お待ちしています。

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