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『点滴作家』第2話

 もう、アラームは鳴らない。

その代わりに、私は自らスマホを手に取った。


 設定画面を開く。通知の項目へ。

指は、もう震えない。


 アプリのアイコンが並ぶ中から、慣れ親しんだそれを見つけ出す。

通知を許可する、という緑色のスイッチ。

そこに、指を置く。


 カチリ、と。

画面の中で、緑が白へと変わった。


世界で一番、無音の断絶。


 次に、予約投稿のリストを開く。

明日、明後日、その次の日。

未来へ向かって並んでいたはずの言葉の残骸。

すべてを選択し、削除ボタンを長押しする。


 一拍、また一拍。

画面が震え、すべてが消える。

私の未来を縛っていた鎖が、音もなく消え去った。


 最後に、プロフィール画面を開く。

一番上に、ピンで留められたツイート。

これまでで最も多くの数字を稼いだ、私の代表作。

その三点リーダーから、「固定ツイートを解除」を選ぶ。


これで、いい。

これで、全部。


---


 ふと、顔を上げる。

モニタの黒い画面に、ぼんやりと自分が映っている。


 乱れた髪。

目の下の影。

頬の窪み。

疲れ果てた、知らない女。


違う。


 私は、私の名前を知っている。

ハンドルネームじゃない。

誰かにもらった記号じゃない。

親がつけてくれた、私の名前。


 そっと、唇が動く。

今度は、声にする。

小さく、けれど確かに、私は私の名を口にした。


主語が、身体の中心に戻ってくる感覚。


 そうだ。

私は、ここにいる。


 終了の宣言は、しない。

誰かに何かを伝える必要はない。

これは、誰のためでもない、私だけの儀式だから。


 目を閉じる。

腕に繋がれた、見えない点滴のチューブを幻視する。

冷たい液体が、絶えず私に流れ込んでくる。

創作という名の、栄養であり、呪い。


 その留め具に、指をかける。

ゆっくりと、しかし、確かな力で。


引き抜く。


 痛みはない。

ただ、何かが身体から抜け落ちていく感覚。

腕が、わずかに軽くなる。

皮膚の温度が、少しだけ上がる。

呼吸が、深くなる。


 空洞のような喪失感。

そして、それ以上の、途方もない解放感。


 画面の右上を見る。

六百という数字が、まだそこにある。

右上が、軽く傾く錯覚。

消さない。

消せない。

それは、記録として、そこに在り続ける。


 もう、書かなくていい。

誰にも見送られず、私は静かにサーキットを後にする。


 右上の空白に、風が触れる。

呼吸が、その速さを覚え直す。


 掌を腹に重ねる。

皮膚の下で、微かな律動が返事をする。


---


 部屋に、朝の光が差し込んでいる。

白い壁に、薄く影が伸びている。

いつもと同じ光のはずなのに、角度が少し違う。


 腕に残る、見えない点滴の痕跡。

針を抜いた場所を、指でなぞる。

わずかな窪み。

もう、そこに管は繋がれていない。


 ふと、掌を腹に当てる。

深く、呼吸を整える。

吸って、吐いて。


 その奥で、何かが応えるように、微かに脈打った。

私の心臓ではない、もう一つの鼓動。

まだとても小さく、か細いけれど、それは確かに、ここに在る。


 作品ではない。

数字でもない。

誰かに評価されるためのものでもない。


ただ、ここにある、命の始まり。


---


 彼女は、六百話書いた。

数字のために、誰かの"いいね"のために。


 けれどそのどれにも、彼女の本名はなかった。

書きたいから書いた一文など、一度もなかった。


それでも、書かなければ存在できないと信じていた。


 だから今、彼女は自分の手で、

点滴を外すことを選んだ。


 その代わりに、彼女の胸には、

静かに鼓動を打つ何かが宿っていた。


---


遠くで、低いエンジン音が途切れ、朝がひとつ進む。


 窓の外で、朝が始まろうとしている。

数字のカウンターは、停止したままだ。

けれど、別のリズムが、私の内側で、ゆっくりと時を刻み始めている。


 レースは、降りた。

誰にも見送られず、静かにサーキットを後にした。


 心の中で、ひとことだけ呟く。

名を、ひとつ。


「汚れた英雄へ」


 窓の外から、風が入ってくる。

掌の下で、また小さく、律動が返事をした。



『小説を愛し、投稿サイトに消えていったすべての作家に捧げます』


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