『点滴作家』第1話
胃の底が、冷えた。
画面の白さが、痛い。蛍光灯の光を吸い込んで、さらに白くなる。
「該当作なし」
四文字が、鼓膜の内側で黒く灼きついた。キーボードを打たない指先が、勝手に強張る。
タイムラインをスクロールする。
指の皮膚が乾いて、ガラスの上を滑る音がやけに大きく聞こえた。
祝福の言葉が、滝のように流れていく。
知らない名前と、見たことのあるアイコンが、おめでとう、とささやき合っている。私のための言葉は、どこにもない。
通知欄は、空白。
昨日までは、あんなに騒がしかったのに。
まるで、最初から何もなかったみたいだ。
六百話。
毎日、書いた。誰かのためのフックを考え、流行りのタグを追いかけ、決められた時間にアラームを鳴らした。
数字は正直だった。
積み上げた分だけ、それは増えた。
けれど、その数字のどこにも、私の本名はなかった。
灰色のアイコンが、壁のように並んでいる。
ブロック済み。
かつて私を傷つけた言葉の残骸。見えない壁を立てて、自分を守ってきたはずだった。
なのに、今、本当に私を傷つけているのは、壁の外の沈黙だった。
延長コードは壁側に奪われている。
指で辿ると、根元は見えない。
差し込み口の縁に、擦り傷のような痕がある。
評価という名のコンセントが、静かに緩み始めていた。
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三日が経った。
いや、四日か。曜日の感覚が、ぼやけている。
通知は、完全に止まった。
画面の右上に、赤い数字が浮かぶことはもうない。
タイムラインだけが、私を置き去りにして流れていく。
フォロワー数のグラフを、何度も開いた。
緩やかな右肩下がりの曲線。
一人、また一人。
音もなく、数字が削られていく。
まるで、誰かが消しゴムで丁寧に私の輪郭を消していくみたいだ。
画面の温度が、少しずつ下がっていく。
冷たさが、指先から這い上がってくる。
タイピングするほど、言葉が霧散していく。
指は動く。
キーは沈む。
画面には、意味をなさない文字の羅列が生まれては、消えていく。
自動更新の幻聴がする。
カチリ、と。
数字が一つ増える音。
でも、画面右上のカウンターは動かない。
7セグメント表示の「6」の一画が、かすかに欠けている。
停止の残光。
六百、という数字が、そこに固定されたまま光り続けている。
引用での揶揄が怖かった。
だから、当たり障りのないことしか書けなくなった。
尖った表現を避け、誰も傷つけない言葉を選び、流行に乗り遅れないように目を光らせた。
刃物は使わない。
ただ、刃物のある台所だけを毎晩拭いた。
気づけば、私は誰のためにも書いていなかった。
評価装置のためだけに、文字を並べていた。
ふと、過去作のフォルダに手が伸びた。
一番上にある、第1話。
タイトルもない、ただのテキストファイル。
ダブルクリックしようとして、止まる。
マウスカーソルが、ファイルの上で震えた。
開けない。
開いたら、何かが壊れる気がした。
六百話を積み上げてきた論理が、音を立てて崩れる気がした。
それでも、指は動いた。
画面に、文字が溢れた。
読んだことのない文章。
見覚えのある言葉。
一行、また一行。
目が文字を追う。胸が、締めつけられる。
そこには、書きたいから書いたはずの文章があった。
誰に読まれなくても、ただ、そこにあってほしかった言葉があった。
一度も、なかった。
この六百話の中に、そんなものは、一度も。
自覚が、冷たい針のように胸を刺す。
私は、一度も自分のために書いたことがなかった。
数字のために書いた。
評価のために書いた。
他者の視線のために書いた。
本名は、どこにもなかった。
体が、重い。
微かな吐き気が、昨日から続いている。
キーボードに置いた指先から、力が抜けていく。
理由は、わからない。
ただ、何かが間違っている。
書けないことへの罰なのか。
それとも、書き続けたことへの報いなのか。
身体の内側から、何かが静かに始まっていた。
まだ、その正体に名前はつけられない。
画面の白さが、また痛んだ。
六百という数字が、重力を持ち始める。
私は、存在しない人生を生きていた。
評価装置に繋がれた点滴で、辛うじて脈を保っていた。
そして今、その点滴が、静かに詰まり始めていた。
モニタの緑のランプが、点滅している。
その間隔が、少しずつ、伸びている。
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