『裂けたのは、女の口か、少年の心か』第4話
終章:語れない者へ
山から戻り、分厚いゴム手袋を外した指先は、まだ微かに震えていた。
自室のパソコンに向かい、僕は検視調書の作成に取り掛かる。
いつも通りの、淡々とした作業のはずだった。
【所見】の欄に、カーソルが点滅している。
僕は打ち始めた。
『遺留品の状況から、昭和後期に死亡したものと推定。着衣はベージュのトレンチコートか。致命傷となる外傷は認められず、死因は…』
そこまで書いて、僕は指を止めた。
脳裏に、あの錆びついた鋏が浮かぶ。
あれは、本当に致命傷を与えなかったのか。そもそも、なぜあんな場所に?
僕は一度、すべての文章を削除した。そして、もう一度書き始める。
『現場の状況には不可解な点が多い。特に、遺留品であるトレンチコート、大型の鋏、そして被害者のものと思われる黒髪は、昭和五十四年頃に全国で流布した"口裂け女"の噂と奇妙な符合を見せる。この遺体は、その怪異譚の…』
馬鹿な。
僕は自嘲気味に首を振り、再び削除キーを押し続けた。
文字が、一文字ずつ、画面の中から消えていく。
彼女の痕跡が、また一つ、僕の手でなかったことにされていく。
子供時代、僕は信じることをやめた。
そうして手に入れた「安心」は、僕を無味乾燥な大人にした。
僕は、怪異を語る資格を自ら放棄したのだ。
そして今、僕は"語れない事実"を抱えた大人になっていた。
あの日、噂を「確かめに行った」少年は、皮肉にも、誰よりも深く「見てしまった」大人になった。
これが、代償だったのだ。
信じなかったことの代償は、"知ってしまった者"として、この記憶を墓場まで一人で抱えて生きていくことだった。
結局、僕が書き上げた報告書は、当たり障りのない、事実だけを羅列したものだった。
「…以上です」
報告書を差し出すと、上司はそれにさっと目を通し、僕の顔を見ずに言った。
「まあ、こんなもんだろうな。身元不明の古い白骨じゃ、これ以上は難しいか。ご苦労」
「はい」
僕は黙って頷いた。
その時、机の下で握りしめた僕の手が、わずかに震えていたことに、上司は気づかなかっただろう。
その一言で、彼女の物語は、公式には終わりを告げた。
一つのファイルに綴じられ、誰の記憶にも残らない、ただの記録となる。
すべての作業を終え、庁舎の裏口から外に出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。
街路樹の根元には落ち葉が積もり、足元のアスファルトには、前日の雨の名残がまだ光を鈍く弾いていた。
僕はポケットに手を入れたまま、人気のない夜道をゆっくりと歩き出す。
その時だった。
ざあ、と街路樹が大きく揺れる。
風の音に混じって、乾いた衣擦れの音が聞こえた気がした。
僕は、はっとして振り返る。
誰もいない。
だが、確かに感じた。
通りの向こうの暗がりから、誰かがこちらをじっと見ている、あの山中と同じ、濃密な視線を。
幻覚か、光の悪戯か。
だが、僕にはわかった。
彼女は、僕が「語らなかった」ことを確認しに来たのだ。
そして、静かに去っていく。
まるで、物語の女神が、その役目を終えたかのように。
僕はもう、彼女を追いかけない。
確かめようとも思わない。
ただ、静かにその場に立ち尽くす。
裂けたのは、本当に女の口だったのだろうか。
それとも、信じることをやめ、真実から目を背けた、僕の心だったのだろうか。
その答えもまた、僕だけが知る、語れない事実の一つとなった。




