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『裂けたのは、女の口は、少年の心か』第3話

第三幕:再会と確信


 歳月は、人の記憶を容赦なく風化させる。

昭和は遠くなりにけり、という言葉が冗談ではなく実感として胸に落ちる頃、僕は警察組織の一員として、白衣を纏い、山中にいた。


 鑑識官。

それが、噂を信じなかった少年の成れの果てだった。

真実とは、証拠とデータによってのみ構築される。


 僕はその信条のもと、数えきれないほどの「事実」と向き合ってきた。

別の現場で見た、掌を重ねるように折りたたまれていた小児用の白い靴。

そんな、声にならない叫びのような事実たちと。


 あれから四十年後の秋の日。

通報は、キノコ狩りに来ていた老人からだった。

現場は、登山道から外れた、楢の木が鬱蒼と茂る斜面。


 車を降りた瞬間から、空気が違うのがわかった。

ひんやりと湿った土の匂いと、腐葉土が発する甘いような、それでいて死を連想させる匂い。

僕らは無言で機材を運び、急斜面を慎重に下った。


 現場に近づくにつれ、奇妙なことが起きた。

それまで聞こえていた鳥の声や虫の音が、ぴたりと止んだのだ。

まるで、舞台の幕が上がる直前のように、森全体が息を殺している。


 風が止み、木々のざわめきが消える。

ただ、僕らの足が落ち葉を踏む「カサ、カサ」という音だけが、不自然に大きく響いていた。

誰かが何かを言おうとする寸前、森の奥から、風とは違う何かがこちらを見ているような、濃密な視線を感じた。


そして、それはあった。


 腐葉土と落ち葉に半分埋もれるようにして、一体の白骨死体が転がっていた。

性別は女性と推定。

死後、かなりの年月が経過している。


 骨は脆く、土の色に染まっていた。

僕はいつも通り、冷静に、淡々と作業を開始した。

これは「モノ」だ。


 感情を挟む余地はない。

そう自分に言い聞かせながら、カメラを構える。

だが、ファインダーを覗いた瞬間から、胸の奥に、あの忘れたはずの疼きが微かに蘇るのを感じていた。


なんだ、この既視感は。


「班長、遺体の右側、何か布のようなものが」


 部下の一人が声を上げた。

僕は慎重にその場所へ近づき、ピンセットで泥の中からそれをつまみ上げた。

泥にまみれた、厚手の布の切れ端。


 指先で土を払うと、その色が露わになる。

ベージュ。

それは、紛れもなくトレンチコートの生地だった。

指でなぞると、生地の綾織りの感触が、なぜか記憶の中の何かを呼び覚ます。


 縫い目はほとんど解けかかっているが、その丁寧な仕事ぶりは、かつてこれが上質な一着であったことを物語っていた。

あの放課後、教室のドアの向こうを誰かが通った気がして、全員が一瞬黙った、あの時間の気配がした。


心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。


 さらに検分を進めると、骨盤のすぐそばの土中から、硬い感触があった。

金属探知機が甲高い反応を示す。

土を払いのけると、赤黒く錆びつき、もはや原型を留めないほどの金属の塊が出てきた。


 一丁の鋏だった。

それが何に使われるものか、すぐにはわからなかった。

ただ、異様に大きい。

持ち上げると、ずしりと重い。

そして、錆びついた刃と刃が、固く噛み合ったまま、決して口を開こうとしない。

その頑なさが、何か強い意志のようにも感じられた。


 そして、運命の瞬間が訪れた。


 骨盤の僅かな隙間に、黒い繊維が泥と絡みついていた。

最初は植物の根かと思った。

だが、ピンセットで慎重につまみ上げ、証拠袋の白い背景にかざした瞬間、僕は息を呑んだ。


 それは、紛れもなく人間の髪の毛だった。

長く、黒い、艶を失った髪。

粘土質の泥がこびりつき、まるで化石の一部のように固まっている。


 一本、指でつまんで光にかざす。

その黒さは、僕が子供の頃に想像した、闇夜の色そのものだった。

どこかから、チョークが黒板を滑る音が、なぜか耳の奥に蘇った。


 トレンチコート。大きな鋏。黒いロングヘア。


 昭和五十四年の教室。

西日。

友人の興奮した声。断片的な記憶が、目の前の「三種の遺留物」と重なり、一つの像を結ぶ。

僕の頭の中で、あの初老の警官の優しい声が木霊した。

「そんな女がいるなんて話、一件も届いてないで」


 そうだ。届いていなかっただけだ。


 彼女は、誰にも見つけてもらえず、誰にも語られることなく、ただ一人、この山中で朽ちていったのだ。


 記録上、これは「氏名不詳の女性の白骨死体」として処理される。

死因も、身元も、おそらくは永遠に不明のまま。

誰もこの"女"の名前を知らない。知る由もない。


 だが、僕だけは知ってしまった。


 これが、あの噂の女の、成れの果てなのだと。

この女のことを語れば、誰もが僕を"噂に踊らされた馬鹿"として見るだろう。

僕が一番嫌った、あの時の健太のように。


 信じなかった怪異が、数十年という時を経て、僕の目の前に「事実」として突きつけられた。

僕は、震える手でカメラのシャッターを切った。

その乾いた機械音だけが、静まり返った森に、やけに大きく響き渡った。


 その音を合図にしたかのように、止んでいた風が、ざあっと木々を揺らして戻ってきた。

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