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『彼の居場所に彼はいない』後編

【第三章:孤独の代償】


6


世界から、色が消えた。

武田部長の怒声が響き渡って以来、宮田拓也の日々は、モノクロームのフィルムのように味気なく過ぎていった。

超大型契約は、彼の功績ではなく、彼が引き起こした「巨大なトラブル」として処理された。


彼が独断で進めた納期の約束は、現場の状況を完全に無視したものだった。

その歪みを修正するために、設計部、資材部、そして営業部の全員が、連日深夜までの残業を強いられた。

拓也自身も、その後始末の渦中に放り込まれた。


彼がやるべきことは、かつてのような華々しい提案ではなく、関係各所に頭を下げ、スケジュールの再調整を懇願して回る、泥臭い作業だけだった。


「申し訳ありませんでした」


頭を下げるたびに、プライドのかけらが一つ、また一つと剥がれ落ちていく。

誰も彼を責めなかった。

ただ、誰の目にも、彼が「チームに甚大な迷惑をかけた厄介者」と映っていることだけは、痛いほどわかった。


孤立は、決定的なものになった。

以前のような「静かな排除」ではない。

彼は今や、チームという共同体にとって、明確な「負債」だった。


会社のトイレの鏡に映る自分の顔は、生気を失い、まるで知らない男のようだった。

これが、俺が望んだ結果か?数字を追い求め、トップに立ったはずの俺が、なぜこんな場所にいる?

答えは、出なかった。

ただ、自己嫌悪という名の底なし沼が、彼の足元で口を開けているだけだった。


7


その日も、拓也は関係部署への謝罪行脚を終え、疲れ果てて営業部に戻ってきた。

時刻は、夜の八時を回っていた。

自分のデスクに向かおうとした時、給湯室から、ひそやかな話し声が聞こえてきた。

自分の名前が呼ばれた気がして、拓也は思わず足を止めた。


「……宮田の件、ようやく落ち着きそうだな」


「全くだよ。あいつ一人のせいで、今月の残業時間、とんでもないことになってるぞ」


「自業自得とはいえ、見てて痛々しいよな。もう辞めるんじゃないか?」


壁一枚を隔てた向こう側で、自分の運命が、まるで他人事のように語られている。

心臓が、氷の手に掴まれたように冷たくなった。

もう、ダメかもしれない。


この会社に、俺の居場所は、もうない。

退職届の書き方をぼんやりと考えていた、その時だった。

これまで黙って話を聞いていた、穏やかな声が響いた。仁科祐樹の声だった。


「でも、」


仁科は、静かに、だがはっきりとした口調で言った。


「あの契約を取った時の彼の集中力は、すごかったよ。俺には、とても真似できない。きっと、何か、すごく焦ってただけなんだよ」


同僚たちが、意外そうな顔で黙り込む気配がした。仁科は、さらに言葉を続けた。


「甲子園のスタンドで応援してた時も、あいつ、誰よりも声出してたから。チームが勝つために、自分にできることは何でもやるって。……多分、根本は、あの頃から何も変わってないんだと思う」


――甲子園。


その言葉が、拓也の胸を貫いた。

忘れていた。

いや、忘れたふりをしていた、遠い夏の記憶。自分が主役ではなかった、あの場所。


仁科は、知っていたのか。

俺の過去を。

俺の、みっともないコンプレックスの根源を。


そして、その上で。

あの無様な俺の姿を、ただの一度も、見下したりはしなかったのか。

熱い何かが、喉の奥から込み上げてくる。


拓也は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死でこらえ、よろめくようにして、誰もいない非常階段へと逃げ込んだ。

冷たいコンクリートの壁に背を預け、ずるずると座り込む。

堪えきれなくなった涙が、頬を伝って、ぽたぽたと床に染みを作った。

それは、27年間、彼が一度も流したことのない種類の、熱くて、しょっぱい涙だった。


【第四章:彼の居場所】


8


翌朝、宮田拓也は、武田部長の前に立っていた。

その手には、退職届ではなく、今回のトラブルに関する詳細なレポートと、今後のリカバリープランが握られていた。


「部長。昨夜、全てまとめました。今回の件、改めて、俺の責任です。本当に、申し訳ありませんでした」


深々と頭を下げる拓也を、武田は厳しい目のまま、黙って見つめていた。


「……それで、どうするんだ。この後」


「辞めません」


拓也は、まっすぐに武田の目を見て言った。


「この会社に残って、俺が壊したものを、俺の手で修復させてください。どんな仕事でもやります。どんなに時間がかかっても、必ず、失った信頼を取り戻します」


その目には、もう以前のような焦りや傲慢の色はなかった。

ただ、静かで、揺るぎない決意だけが宿っていた。

武田は、ふっと息を吐くと、初めて、その口元に微かな笑みを浮かべた。


「……やっと、スタートラインに立ったな、お前も」


9


それからの宮田拓也は、まるで別人のように働いた。

プロジェクトの後始末のために、誰よりも早く出社し、誰よりも遅く退社した。

プライドを捨て、後輩にも頭を下げて教えを乞い、泥臭い調整作業に奔走した。


そして、全ての問題が解決した日。

拓也は、朝礼の場で、改めてチーム全員の前に立った。


「今回の件、本当に、申し訳ありませんでした」


彼は、もう一度、深々と頭を下げた。

特に、仁科の前に進み出ると、もう一度、言った。


「仁科。……本当に、すまなかった。そして、ありがとう」


何に対しての「ありがとう」なのか。その場にいた誰もが、正確には理解できなかったかもしれない。だが、仁科だけは、少し驚いたような顔をした後、いつものように、はにかむように笑って「もう、いいよ」とだけ言った。


10


数ヶ月後。

営業部のフロアに、宮田拓也の姿があった。

彼はもう、チームのエースではない。

彼のデスクの壁から、かつて誇らしげに貼られていた営業成績のグラフは、剥がされている。


その代わり、彼は、後輩が作成した資料の相談に親身に乗ったり、仁科が抱えている案件の、面倒な事務作業を黙々と手伝ったりしていた。


「宮田さん、これ、ありがとうございます!助かりました!」


「宮田、悪いな、手伝ってもらって」


「ありがとう」という言葉が、彼の周りで頻繁に交わされるようになった。

その言葉を受け取るたびに、彼の胸には、数字を達成した時の高揚感とは全く違う、穏やかで、温かい何かが満ちていくのを感じていた。


彼は、まだ知らないかもしれない。

自分が手に入れたこの新しい感情こそが、かつて自分が喉から手が出るほど欲しがっていた、本当の「承認」であり、「報酬」であるということを。


だが、彼の表情は、成功の絶頂にいたどの瞬間よりも、ずっと穏やかで、満ち足りていた。

そこにはもう、甲子園のスタンドにいた、孤独な彼の姿はなかった。

チームというグラウンドの中に、彼の、ささやかで、しかし確かな「居場所」が、確かに生まれていた。

【後編・完】

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