『裂けたのは、女の口か、少年の心か』第2話
第二幕:ブームと距離
警察署で「お墨付き」を得てからというもの、僕の世界から怪異は完全に色を失った。
あれほど僕らを震え上がらせた口裂け女は、初老の警官が発した「一件も届いてないで」という一言で、まるで陽光の前に溶ける雪のように、ただの作り話へと成り下がった。
だが皮肉なことに、僕が真実の側に立ったと確信したまさにその時から、世間は僕らを追いかけるように、熱狂の渦へと身を投じていった。
火付け役は、平日の昼下がりに主婦層を狙い撃ちするワイドショーだった。
『昼のワイドスペシャル』。
大袈裟なテロップと効果音が売りのその番組で、眉毛の太い司会者が、視聴者の不安を煽るように、わざとらしく声を潜めて切り出した。
スタジオには赤と黄色の原色が溢れ、コメンテーターたちは皆、深刻そうな顔つきで身を乗り出している。
「さあ、奥さん! 今、全国の子供たちが震え上がっているという、この不気味な噂をご存知でしょうか!?」
画面には、血を思わせるどぎつい赤色のゴシック体で**【緊急特集】白昼の恐怖!謎の女"口裂け女"を追え!**というテロップが踊る。
カメラは意図的に揺らされ、不安を煽る低い音楽が流れ続けている。
安っぽい再現VTRでは、サイズの合わないベージュのトレンチコートを着た女優が、おぼつかない足取りで公園の茂みから現れ、子供を追いかけていた。
マスクの下から覗く口元は、明らかにメイクで作られた傷跡だった。
その陳腐さが、僕には滑稽にすら見えた。
警察署で真実を知ってしまった自分だけが、この茶番を見抜いているのだという、奇妙な優越感があった。
教室では、健太がその週刊誌を、まるで聖書でも読むかのように食い入っていた。
彼はまだ、あの熱狂の只中に取り残されていた。
表紙には「全国に出現!恐怖の口裂け女、その正体を追う」という見出しが躍り、中には目撃談と称する体験談がずらりと並んでいる。
「なあアキラ、この記事によると、岐阜が発祥らしいで。やっぱりほんまにいるんや…。俺、昨日も塾の帰り、電信柱の影が全部女の人に見えて、泣きそうやった」
健太の声は震えていた。彼の手は、ページをめくる度に小刻みに震えている。
「テレビと雑誌が金儲けのために騒いでるだけやろ。警察がいないって言ってたやんか」
僕は、読みかけの『リングにかけろ』から顔も上げずに答えた。
健太が息を呑む気配がした。
彼が何かを言いかけて、やめる。
そして、僕の顔を一度じっと見てから、ふいと目を逸らし、黙って週刊誌を鞄にしまった。
その一連の仕草が、僕らの間に見えない、けれど決して越えられない壁ができたことを、何よりも雄弁に物語っていた。
決定的な出来事は、その数日後に起きた。
休み時間、クラスの女子たちが輪になって、真剣な顔で話し込んでいる。
「ポマードって、お父さんのやつ、本当に効くんかなあ」
「べっこう飴の方がええって聞いたで」
「でも、『ポマード』って三回言うんやろ? 間違えたらどうなるん?」
彼女たちの表情は、まるで明日の試験対策を話し合っているかのように真剣だった。
その光景を見て、僕はこらえきれずに鼻で笑ってしまったのだ。
「まだそんなん信じてるんか。アホらし」
僕の一言で、場の空気が凍り付いた。
僕に向けられる、非難と侮辱が入り混じった数人の女子の視線。
教室の他の生徒たちも、いつの間にか僕の方を見つめている。
その中心にいた一人が、吐き捨てるように言った。
「アキラ君にはわからんよ。信じてない人には」
僕は一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。
ただ、彼女たちの輪から弾き出されたという事実だけが、肌に突き刺さるように感じられた。
なんでそんな顔をされなきゃいけないんだ? 僕が何か間違ったことを言っただろうか。
その日から、教室の空気は確実に変わった。
僕がグループの近くを通ると、ひそひそと交わされていた怪談話が、ぴたりと止む。
まるで僕の存在が、彼らの神聖な儀式を汚すかのように。
机の並びも、いつの間にか僕だけが少し離れた位置に置かれるようになった。
昼休みになると、みんなは自然に別の場所に集まり、僕は一人、教室に取り残される。
僕は、噂の輪から完全に弾き出されたのだ。
それでよかった。
むしろ、愚かな迷信から抜け出した、特別な存在にでもなった気分だった。
僕はもう、噂を語り、怯える側の人間ではなかったからだ。
オカルトブームという熱狂の中で、ただ一人だけ"怪異から卒業した存在"として、僕は冷めた目で周りを眺めていた。
だが、夜。一人、布団の中で目を閉じると、時折、胸の奥が奇妙に疼いた。
ふと目を開けたとき、天井の木目が、まるで裂けた口のように見えて、僕は思わず飛び起きて電気をつけた。
心臓が早鐘を打っている。怖いんじゃない。
ただ、忘れようとしていたものを、不意に思い出してしまっただけだ。そう自分に言い聞かせた。
それは、何か大切なものを、どこかに置き忘れてきたような、ひどく心許ない感覚だった。
子供時代の想像力、あるいは、目に見えないものを信じる心。
僕はそれを失うことで大人への階段を一つ上ったのだと、自分を納得させた。
噂を語る"語り手"の輪から、自ら離脱したのだ。
昭和が終わり、平成が過ぎていく。
僕は大人になり、いつしかあの日の疼きも、健太の戸惑った顔も、僕を非難した女子の視線も、すべて忘れてしまった。




