表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
29/34

『裂けたのは、女の口か、少年の心か』第2話

第二幕:ブームと距離


 警察署で「お墨付き」を得てからというもの、僕の世界から怪異は完全に色を失った。

あれほど僕らを震え上がらせた口裂け女は、初老の警官が発した「一件も届いてないで」という一言で、まるで陽光の前に溶ける雪のように、ただの作り話へと成り下がった。


 だが皮肉なことに、僕が真実の側に立ったと確信したまさにその時から、世間は僕らを追いかけるように、熱狂の渦へと身を投じていった。


 火付け役は、平日の昼下がりに主婦層を狙い撃ちするワイドショーだった。

『昼のワイドスペシャル』。

大袈裟なテロップと効果音が売りのその番組で、眉毛の太い司会者が、視聴者の不安を煽るように、わざとらしく声を潜めて切り出した。

スタジオには赤と黄色の原色が溢れ、コメンテーターたちは皆、深刻そうな顔つきで身を乗り出している。


「さあ、奥さん! 今、全国の子供たちが震え上がっているという、この不気味な噂をご存知でしょうか!?」


 画面には、血を思わせるどぎつい赤色のゴシック体で**【緊急特集】白昼の恐怖!謎の女"口裂け女"を追え!**というテロップが踊る。

カメラは意図的に揺らされ、不安を煽る低い音楽が流れ続けている。

安っぽい再現VTRでは、サイズの合わないベージュのトレンチコートを着た女優が、おぼつかない足取りで公園の茂みから現れ、子供を追いかけていた。


 マスクの下から覗く口元は、明らかにメイクで作られた傷跡だった。

その陳腐さが、僕には滑稽にすら見えた。

警察署で真実を知ってしまった自分だけが、この茶番を見抜いているのだという、奇妙な優越感があった。


 教室では、健太がその週刊誌を、まるで聖書でも読むかのように食い入っていた。

彼はまだ、あの熱狂の只中に取り残されていた。

表紙には「全国に出現!恐怖の口裂け女、その正体を追う」という見出しが躍り、中には目撃談と称する体験談がずらりと並んでいる。


「なあアキラ、この記事によると、岐阜が発祥らしいで。やっぱりほんまにいるんや…。俺、昨日も塾の帰り、電信柱の影が全部女の人に見えて、泣きそうやった」


健太の声は震えていた。彼の手は、ページをめくる度に小刻みに震えている。


「テレビと雑誌が金儲けのために騒いでるだけやろ。警察がいないって言ってたやんか」


僕は、読みかけの『リングにかけろ』から顔も上げずに答えた。

健太が息を呑む気配がした。

彼が何かを言いかけて、やめる。


 そして、僕の顔を一度じっと見てから、ふいと目を逸らし、黙って週刊誌を鞄にしまった。

その一連の仕草が、僕らの間に見えない、けれど決して越えられない壁ができたことを、何よりも雄弁に物語っていた。


 決定的な出来事は、その数日後に起きた。


 休み時間、クラスの女子たちが輪になって、真剣な顔で話し込んでいる。


「ポマードって、お父さんのやつ、本当に効くんかなあ」


「べっこう飴の方がええって聞いたで」


「でも、『ポマード』って三回言うんやろ? 間違えたらどうなるん?」


 彼女たちの表情は、まるで明日の試験対策を話し合っているかのように真剣だった。

その光景を見て、僕はこらえきれずに鼻で笑ってしまったのだ。


「まだそんなん信じてるんか。アホらし」


 僕の一言で、場の空気が凍り付いた。

僕に向けられる、非難と侮辱が入り混じった数人の女子の視線。

教室の他の生徒たちも、いつの間にか僕の方を見つめている。

その中心にいた一人が、吐き捨てるように言った。


「アキラ君にはわからんよ。信じてない人には」


 僕は一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。

ただ、彼女たちの輪から弾き出されたという事実だけが、肌に突き刺さるように感じられた。

なんでそんな顔をされなきゃいけないんだ? 僕が何か間違ったことを言っただろうか。


 その日から、教室の空気は確実に変わった。

僕がグループの近くを通ると、ひそひそと交わされていた怪談話が、ぴたりと止む。

まるで僕の存在が、彼らの神聖な儀式を汚すかのように。


 机の並びも、いつの間にか僕だけが少し離れた位置に置かれるようになった。

昼休みになると、みんなは自然に別の場所に集まり、僕は一人、教室に取り残される。


 僕は、噂の輪から完全に弾き出されたのだ。

それでよかった。

むしろ、愚かな迷信から抜け出した、特別な存在にでもなった気分だった。

僕はもう、噂を語り、怯える側の人間ではなかったからだ。

オカルトブームという熱狂の中で、ただ一人だけ"怪異から卒業した存在"として、僕は冷めた目で周りを眺めていた。


 だが、夜。一人、布団の中で目を閉じると、時折、胸の奥が奇妙に疼いた。

ふと目を開けたとき、天井の木目が、まるで裂けた口のように見えて、僕は思わず飛び起きて電気をつけた。

心臓が早鐘を打っている。怖いんじゃない。

ただ、忘れようとしていたものを、不意に思い出してしまっただけだ。そう自分に言い聞かせた。


 それは、何か大切なものを、どこかに置き忘れてきたような、ひどく心許ない感覚だった。

子供時代の想像力、あるいは、目に見えないものを信じる心。

僕はそれを失うことで大人への階段を一つ上ったのだと、自分を納得させた。

噂を語る"語り手"の輪から、自ら離脱したのだ。


 昭和が終わり、平成が過ぎていく。

僕は大人になり、いつしかあの日の疼きも、健太の戸惑った顔も、僕を非難した女子の視線も、すべて忘れてしまった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ