『裂けたのは、女の口か、少年の心か』第1話
第一幕:噂と確かめ
昭和五十四年。
僕たちの世界は、まだ噂で出来ていた。
テレビのチャンネルはガチャガチャと回すもので、電話には長いカールコードがついていた時代。
体育館裏には、誰がいつから描いたのかわからない心霊落書きがあり、職員室前の掲示板には"ポマード注意"という走り書きが、いつの間にか貼られていた。
情報とは、そんなふうに誰かの口から口へと熱を帯びて伝わる、生きた粘菌のようなものだった。
その年、日本中を覆い尽くした粘菌の名を「口裂け女」といった。
放課後の教室は、その噂の培養基として最適だった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り終えても、誰もが席を立とうとしない。
西日が差し込み、空気中に舞う無数の埃を金色に照らし出していた。
まるで目に見えない胞子が、僕らの間で浮遊しているかのようだ。
チョークの乾いた匂いに、誰かがこっそり食べている甘いガムの匂いが混じる。
僕は無意識に、口の中に広がる粉っぽい味を飲み込んだ。
「なあ、聞いたか? 口裂け女やって」
友人の健太が、声を潜めて切り出した。
その目は、恐怖と興奮がないまぜになった子供特有の輝きを宿している。
僕らは机を寄せ合い、まるで共犯者のように身を屈めた。
その瞬間、ガタ、と窓が風に揺れた。誰もがびくりと肩を震わせる。
「ベージュのトレンチコート着て、マスクしてるんや。でな、『私、きれい?』って訊いてくる」
健太はそう言うと、一度ごくりと唾を飲み込み、芝居がかった仕草で自分の口の端を指でなぞってみせた。
僕は思わず吹き出しそうになるのを、奥歯を噛んでこらえた。
「『きれいやない』って言うたら、大きなハサミで殺される。『きれい』って言っても、『これでも?』言うてマスクを外して、同じように口を裂かれるんやって」
どう答えても逃げられない。
その理不尽な袋小路こそが、怪異の持つ抗いがたい魅力だった。
僕らはまだ、世の中の全ての物事にはっきりとした答えがあると信じていたから、答えのない問いに惹きつけられた。
「でもな、『ポマード』って三回唱えたら、臭いが嫌で逃げていくらしいで」
「べっこう飴をあげてもええんやって」
次々と付け加えられる、後付けの弱点や攻略法。
それは、制御不能な恐怖をどうにか自分たちの理解の範疇に収めようとする幼い知恵の防衛本能だった。僕は黙って話を聞きながら、心の中で冷めた声がするのを感じていた。「ほんまか?」と。
(……ほんまに? でも、もし万が一、そんな女が本当に路地の角で待っていたら、どうする?)
一瞬よぎった迷いを、僕は頭を振ってかき消した。
恐怖は確かにあった。夜、一人で便所に行くのが怖い。
塾からの帰り道、暗い路地の向こうに揺れる人影に心臓が跳ねる。
だが、その恐怖を認めることは、もっと怖かった。
噂に踊らされるのは、愚かな者のすることだ。僕はそう信じたかった。
「確かめたらええんや」
僕の口から、乾いた言葉がこぼれた。
シン、と教室が静まり返る。
それまで聞こえていたはずの、校庭で遊ぶ下級生の声も、廊下を歩く教師の足音も、すべてが遠のいた気がした。
ただ、壁の時計が「カチ、カチ」と時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。
「どこへ?」
健太が唾を飲み込む音が聞こえた。
「決まってるやろ。警察や。ほんまにそんな女がいるんなら、誰かが見てるはずや。そしたら、とっくに騒ぎになってる」
その発想は、あまりに単純で、そしてあまりに合理的だった。
僕たちは、まだ世界のすべてが大人の管理下にあると信じて疑わなかった。
怪異でさえも、警察の管轄なのだと。
数日後、僕と健太は、意を決して近所の警察署の分厚いガラス戸を押し開けた。
途端に、煙草と革靴と、そして大量の書類が発する紙の匂いが混じった独特の空気が僕らを包んだ。
薄暗い入り口から差し込む光に照らされて、受付カウンターの向こうには、見たこともない機械がいくつも並んでいる。
壁には、僕らには読めない法律の条文がびっしりと書かれたポスターが貼られ、その隣には手配書らしき写真が何枚も並んでいた。
大人たちが作り上げた、秩序という名の巨大な装置の一部に、僕らは足を踏み入れたのだった。
生活安全課の札が下がった窓口で、僕らが恐る恐る事情を話すと、受話器を置いていた初老の警官は、少し驚いた顔をした後、椅子から立ち上がってカウンターの向こうから出てきてくれた。
その制服は、近くで見ると思っていたよりもずっと重そうで、胸に付いた銀色のバッジが蛍光灯の光を反射してきらりと光った。
警官は僕らの目線まで屈むと、皺の刻まれた顔を優しくほころばせた。
「口裂け女、なあ。坊主たちの間でも流行ってるんか」
彼は分厚い台帳をカウンターに置き、ザラリ、ザラリと乾いた音を立ててページをめくった。
その台帳には、細かい文字でびっしりと何かが書き込まれている。
僕と健太は、その指先が止まるたびに固唾を呑んだ。
警官は僕らの緊張を察したのか、わざとらしく「うーん」と唸ってみせた後、ぱたんと台帳を閉じた。
「安心しい。そんな女がいるなんて話、一件も届いてないで」
その言葉を聞いた瞬間、僕の心を縛っていた見えない鎖が、音を立てて砕け散った気がした。
安堵。
そうだ、やっぱりただの噂だったのだ。
健太と顔を見合わせ、僕らはこっそりと笑った。
警察署を出ると、夕方のチャイムが鳴り響いていた。
童謡『夕焼け小焼け』のメロディが、僕にはまるで怪異の時代の終わりを告げるファンファーレのように聞こえた。
それが、代償の始まりだった。
僕はあの時、信じる心を捨てて「安心」という名の甘い果実を手に入れたのだ。
それがどんな毒を孕んでいるかを、僕はまだ知らなかった。




