『描くより先に、伝えたかった』第3話
第三章 九月の空に届いたもの
九月一日。
あれほど続いた猛暑が嘘のように、朝の空気は少しだけひんやりとしていた。
私は、丁寧に梱包した『あの夏の逆光』を抱え、期待と恐怖で張り裂けそうな心臓を必死に押さえつけながら、校門をくぐった。
教室のドアを開ける。
夏休み前と何も変わらない、友人たちの騒がしい声。
しかし、私の目に飛び込んできたのは、窓際の一番後ろ、いつも彼が座っていた席が、もぬけの殻になっている光景だった。
机も、椅子も、そこにはない。
がらんとした空間が、何よりも雄弁に、噂が真実であったことを物語っていた。
ホームルームが始まり、担任の先生が淡々と出席を取っていく。
石川、という名前が、呼ばれることはなかった。
どうやって一日を過ごしたのか、ほとんど覚えていない。
放課後、私は美術室へ向かった。
夏の間にすっかり自分の巣のようになっていたその場所が、今はひどくよそよそしく感じられる。
顧問の白石先生は、梱包されたキャンバスを受け取ると、「ほう、描き切ったか」とだけ言って、その重みを確かめるように軽く揺すった。
「あの、先生。この絵、コンテストには…」
「出すさ。お前がどう言おうと、これは出す。約束だからな」
白石先生は、私の迷いを見透かすように言った。
そして、梱包を少しだけ解き、絵の隅を覗き込むと、ふっと息を漏らした。
「……いい青だな。お前の色を見つけたか」
その一言に、泣きそうになるのを必死でこらえた。
帰り道、ミカが隣を歩いていた。
「……やっぱり、本当だったね」
私がそう言うと、ミカは何も言わずに、ただ空を見上げていた。その横顔が、いつもよりずっと大人びて見えた。
自分の部屋に戻り、ベッドに倒れ込む。
もう、あの絵を見ることも、彼に想いを伝えることも、叶わない。
何のために、私はあの絵を描いたのだろう。
あの苦しみは、一体何だったのだろう。
込み上げてくるのは、怒りにも似た、どうしようもない虚しさだった。
私は勢いよく起き上がると、部屋の隅に立てかけてあった、提出する前に撮っておいた絵の写真が貼られたスケッチブックを手に取った。
そして、そのページを破り捨てようとした。
こんなもの、もういらない。
その瞬間、部屋のドアが開き、ミカが入ってきた。
「やっぱり、そうすると思った」
彼女は私の手からスケッチブックを奪い取ると、そのページをじっと見つめた。
そして、静かに、しかし力強く言った。
「その絵の春樹くん、よう見たら“お別れ”言うてる顔しとるやん」
私は、はっと息をのんだ。
ミカは、私の目を見て、続けた。その瞳は、すべてを見透かしているようだった。
「……描けたってことは、もうあんたの中で答え出てたんやろ?」
その一言が、私の心の奥底にあった、自分でも気づいていなかった鍵を開けた。
そうだ。私は、心のどこかで分かっていたのかもしれない。
この恋が、終わることを。
だから、せめてこの想いを、永遠に閉じ込めるために、あの絵を描いたのだ。
涙が、溢れて止まらなかった。
ミカは、何も言わずに、ただ私の背中をさすってくれていた。
その手が、あの夏の雨の日と同じように、やけに熱い。
ありがとう、とも、ごめんね、とも言えなかった。
この涙の理由の半分は、きっと彼女のものでもあるのだと、なぜか、そう思ったから。
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季節は流れ、秋が深まった十一月。
町の木々が赤や黄色に色づき始めた頃、私はすっかり日常に戻っていた。
春樹君のいない教室にも慣れ、ミカとの他愛ないおしゃべりに笑う日々。
あの夏の痛みは、胸の奥で静かな思い出に変わり始めていた。
三化展の結果は、まだ来ない。
応募したことさえ、時々忘れてしまうくらいだった。
いや、無意識に忘れようとしていたのかもしれない。
あの絵は、もう私の手元にはない。
それでいいのだと自分に言い聞かせていた。
期待して、もし何の評価もされなかった時、私の夏は本当に意味のないものになってしまう。
それが怖かった。
そんなある日の放課後、教室のドアががらりと開き、白石先生が顔を覗かせた。
「桜井、ちょっと来い」
先生は少し興奮した様子で、一枚の封筒を私に突き出した。
そこには『三化展 事務局』と印刷されている。
「お前のあの絵、先生、勝手に出品しといたんだ。そしたら…まあ、見てみろ」
震える手で封筒を開ける。
中には、一枚の通知書。
そこに印字されていたのは、『青年部・金賞』という、現実感のない文字だった。
数週間後、私は母と共に、市民ホールを訪れていた。
三化展の入賞作品が、そこに展示されているのだ。
会場の奥に進むと、ひときわ大きな壁に、見覚えのある絵が飾られていた。
『あの夏の逆光』
アクリル板のプレートに、私の名前と、絵のタイトルが記されている。
スポットライトを浴びた私の絵は、あの薄暗い美術室で描いたものとは別人のように、堂々と、そして静かに、そこに存在していた。
アクリル板の向こう側から、人々の話し声や足音が、くぐもった残響となって聞こえてくる。
多くの人が、私の絵の前を通り過ぎていく。
その中で、ふと、一人の女性が足を止めた。
彼女は、何かを懐かしむように、あるいは、何かを悼むように、じっと私の絵を見つめている。
やがて、その目から一筋の涙がこぼれ落ちるのを、私は見た。
彼女は慌ててそれを指で拭うと、もう一度絵に一礼して、静かに去っていった。
コツ、コツ、という彼女のヒールの音が、磨かれた床に反響し、やがて雑踏の中に消えていく。
その音だけが、やけにクリアに私の耳に残った。
その光景を見た瞬間、私の中で、最後のピースがはまった。
あの夏の彼には、届かなかった。
でも、私が命を削るようにして描き出したこの想いは、この色は、見知らぬ誰かの心の奥にある、大切な記憶と共鳴したのだ。
それで、充分だった。
届かなかったけど、描いたことで私は“自分”に出会えた。
失恋とひきかえに手に入れたこの色は、もう風景じゃない。
紛れもない、“私の色”だ。
私は、胸を張って自分の絵を見上げた。
ホールの大きな窓の外には、雲ひとつない、高く、どこまでも澄み渡った九月の空が広がっていた。
(了)




