表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/34

『描くより先に、伝えたかった』第2話

第二章 感情の格闘


 あれから三日、猛暑は嘘のように鳴りを潜め、空は灰色の雲に覆われ続けていた。

季節を間違えたかのような冷たい雨が、窓ガラスを静かに叩いている。

私の部屋の隅に立てかけられたキャンバスは、あの日から変わらず、真っ白なままだった。

何も手につかず、ただベッドの上で膝を抱えるだけの時間が、意味もなく過ぎていく。


 春樹君が、いなくなる。

その噂は、じっとりとした湿気のように教室に広まり、誰もが真実として受け止め始めていた。


 不意に、部屋のドアが遠慮なく開け放たれた。


「やっぱり、こんなとこで腐ってた」


 ずぶ濡れの制服のまま、ミカが呆れた顔で立っていた。

私が差し出したタオルで髪を乱暴に拭きながら、彼女は私のベッドの縁にどかりと腰を下ろす。

ふわりと漂った、雨とシャンプーの混じった匂いに、なぜか胸がちくりと痛んだ。


「噂が本当かどうかなんて、本人に聞かなきゃわかんないでしょ。いつまでそうやってんの」

「……聞いたって、もし本当だったら、どうすればいいのよ」

「どうもしないよ。いなくなる前に、やることやるだけでしょ」


 ミカの真っ直ぐな言葉が、胸に突き刺さる。


「やることって……」

「描くんでしょ、絵。そして、告白するんでしょ」


 無理だよ、と喉まで出かかった言葉を、私は飲み込んだ。

ミカの瞳が、ただの叱咤激励だけではない、何か別の色を帯びているように見えたからだ。

それは、祈るような、あるいは、何かを諦めるような、痛みをこらえた色だった。


「この夏が、最後かもしれないんだよ」


 ミカの声が、雨音に混じって震えた。

その瞬間、私の中で何かが弾けた。

そうだ。最後かもしれない。

このまま、何も伝えずに、ただ彼がいたという記憶だけを抱えて生きていくのか。

薄っぺらい感傷に浸って、自分を憐れみ続けるのか。


 違う。


 私はベッドから立ち上がり、真っ白なキャンバスの前に立った。

恐怖で震える指で、鉛筆を握りしめる。


「描くよ」

 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。

「絵を完成させて、これを見せて、告白する」


 それは告白というより、自分自身に突きつけた、もう後戻りはできないという悲壮な覚悟だった。

描くより先に、伝えたかった。でも、描くことでしか、私は伝えられないのだから。


 私の言葉を聞いたミカは、一瞬だけ、泣きそうな顔で笑った。

そしてすぐにいつもの笑顔に戻ると、「そんじゃ、さっさと描きな!」と私の背中を強く叩いた。

その夜、私はミカに『ありがとう』とメッセージを送ったが、それが『既読』になることは、ついになかった。


---


 八月に入り、私の夏休みはすべて、キャンバスと向き合う時間に変わった。

来る日も来る日も、私は特別棟の美術室に籠った。

パレットの上で油絵の具を混ぜ合わせ、テレピン油の匂いにむせながら、ただひたすらに筆を動かす。


 最初は、楽しかった。

彼の姿を、私の手で生み出せる。

その事実だけで満たされた。


 だが、描き進めるうちに、キャンバスは私に容赦なく問いかけてきた。


『お前は、彼の何を知っている?』


 思い出せるのは、太陽の下の笑顔ばかり。

逆光の中にいる彼の、本当の輪郭が掴めない。

描いては塗りつぶし、また描く。

その繰り返し。


 一度、私は筆を置いた。

汚れた筆を、テレピン油の入った筆洗器の中で、静かに揺らす。

カシャン、と筆の金属部分が瓶の縁に当たる、乾いた音がした。


 ツンと鼻をつく油の匂いだけが、この部屋のすべてだった。

本当に、これでいいのだろうか。

私のやっていることは、ただの独りよがりな感傷の押し付けではないのか。


 何時間も同じ姿勢でいたせいで、肩は石のように固まり、腰は悲鳴を上げていた。


 八月の終わりが近づく頃、大型の台風が町を直撃した。

窓の外では、暴風が木々を揺らし、激しい雨が窓ガラスを叩きつける。

最初は遠くで聞こえていた雷鳴が、じりじりと距離を詰め、今や頭上で炸裂している。


 一瞬の稲光が、美術室のすべてを青白く照らし出した。

その光に照らされたキャンバスの中の春樹君が、まるで私を嘲笑っているように見えた。


「私の好きって、こんなもんなん?」


 声が、漏れた。


 こんなにも好きなのに、彼の顔ひとつ、満足に描けない。

この気持ちは、この絵は、ただの自己満足じゃないのか。


 感情が爆発し、私はパレットナイフを握りしめると、パレットの上の絵の具をめちゃくちゃに掻き混ぜ、それをキャンバスに叩きつけた。

もう、どうにでもなれ、と。


 その時だった。ガタン、と音を立てて美術室のドアが開いた。


「うわ、停電してるし。アキ、生きてる?」


 懐中電灯の光と共に、ミカの声がした。手にはコンビニの袋を提げている。


「あんた、こんな嵐の日にまで描いてんの。バカじゃない?」


 そう言いながら、ミカは私のめちゃくちゃになったキャンバスを覗き込んだ。

そして、意外な言葉を口にした。


「……なんかさ、この絵の春樹くん、こっち振り返りそうじゃない?」


 懐中電灯の頼りない光が、絵の一部を照らし出す。

私が叩きつけた絵の具が、偶然にも、彼の表情に複雑な陰影を与えていた。

それは、もうただの笑顔ではなかった。

何かを言いたげな、こちらを窺うような、見たことのない彼の顔が、そこにあった。


「……ほんとだ」


 ミカの何気ない一言が、暗闇の中で一筋の光になった。

そうだ。

私は彼のすべてを知っている必要なんてない。

私が感じた彼を、私が願う彼を、描けばいいんだ。


 嵐の夜の美術室で、私はもう一度、静かに筆を握り直した。

夜が明けるまで、あと少しだった。


---


 嵐が嘘のように過ぎ去り、東の空が白み始めた頃、私の筆はついに止まった。

特別棟の窓から差し込む、洗い流されたように清浄な光が、イーゼルに立てかけられたキャンバスを照らし出す。


 そこにいたのは、もう私の知っている石川春樹君ではなかった。

画面の右端に、少し俯き加減に立つ彼の姿。

その顔に、笑顔はない。

何か遠くを見つめるような、あるいは、何かを諦念したような、静かな表情。


 彼の背後、左上から差し込む強烈な逆光が、その輪郭を金色に縁取りながら、曖昧に溶かしていた。

そして、空。私が狂ったように塗り重ねたウルトラマリンとプルシアンブルーは、吸い込まれそうなほどに深く、異様なまでの存在感を放つ、夏の終わりの青になっていた。


 私は、無意識に絵の左隅に視線を落とす。

そこに、いた。

鑑賞者が注意深く見なければ気づかないほど小さく、淡く、私自身の影が。

まるで、彼の世界にどうしても入り込みたいと願う、私の魂の痕跡のように。


 想いは届かないかもしれない。

でも、私はこの夏、確かに彼を見つめていた。

その証だけは、ここに残したかった。


 私は、震える指でパレットナイフの先を拭うと、キャンバスの右下に、小さくサインを入れた。

そして、静かに呟く。


「……タイトルは、『あの夏の逆光』」


 油絵の具の匂いが、達成感と、そしてどうしようもない寂しさと共に、私の胸を満たした。

夏休みは、今日で終わる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ