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『描くより先に、伝えたかった』第1話

第一章 夏の気配


「ねえ、アキ。もし一番大切なものが、なくなっちゃったらどうする?」


 茹だるような昼下がりの美術室で、隣の席のミカが、まるで今日の天気でも尋ねるみたいに唐突に言った。

 机に突っ伏して、夏の気だるさに意識を溶かしていた私は、ゆっくりと顔を上げる。

西日の強い光が目に刺さり、思わず細めた視界の向こうで、ミカの快活な瞳が私をじっと捉えていた。

本校舎から離れた特別棟の三階にあるこの部屋は、私たち美術部員だけの聖域で、今は私とミカの二人しかいない。床に落ちた光の四角形の中で、埃がキラキラと乱舞している。


「……なに、急に」

「いや、ほら、課題」


 ミカはそう言って、イーゼルに立てかけられたばかりの、真っ白なキャンバスを顎でしゃくった。

そこには、数日後に迫った終業式を前に配られた、美術部員だけの夏休みの課題が示されている。


『三化展・青年部出品作品:あなたの一番大切なものを描きなさい』


 ありきたりで、だからこそ残酷なテーマだった。

私の視線が、開け放たれた窓の外、グラウンドの向こうにある本校舎へと吸い寄せられるのを、ミカは見逃さなかった。

教室の窓際、友達と笑い合っている石川春樹君の後ろ姿。その光景が、私の世界のほとんどすべてだった。


「アキは決まったん? その、一番大切なもの」


 ミカの視線が、いたずらっぽく細められる。

声に出した瞬間に、この気持ちは手からこぼれ落ちて、ただのありふれた恋になってしまう。

そんな気がして、私は首を横に振ってごまかすしかなかった。


「まだ、決まってないよ」


 私の小さな嘘を、窓から吹き込む熱風だけがかき消していく。

この時の私はまだ知らなかった。本当に大切なものを失うということが、どういうことなのかを。

そして、失った後に残るものが、何なのかを。

そして、隣で笑うミカもまた、同じ問いを、自分自身の胸に突きつけていることにも、気づかずに。

---

 ミカが「また明日」と手を振って帰っていった後も、私は一人、美術室に残っていた。

夏の夕暮れはどこまでも長く、西日は血のような赤色に変わり、床に伸びるイーゼルの影を黒々と引き伸ばしている。


 油絵の具とテレピン油の匂いが混じり合った、この部屋の静寂が好きだった。

言葉にしなくてもいい、すべてが許されるような気がして。


私は、F10号の真っ白なキャンバスの前に、もう一度座り直す。


 『一番大切なもの』。


 ミカに指摘されるまでもなく、私の心に浮かぶのはたった一つ、石川春樹君の姿だけだ。

転校してきた春、誰にでも平等に注がれる太陽のような彼の笑顔に、私は一瞬で心を奪われた。

だけど、彼は太陽そのもので、私はただ、その光を浴びる地面の片隅の小石にすぎない。

話した言葉の数なんて、両手で数えれば余ってしまう。


(春樹君を描く……?)


 その考えが浮かんだ瞬間、心臓が大きく跳ねて、すぐに恐怖で縮こまった。

彼の顔を思い出そうとする。

いつも友達に囲まれて笑っている、あの屈託のない笑顔。


 それはすぐに思い出せる。

でも、その奥にあるものを、私は何も知らない。

彼が何に悩み、何に心を動かされるのか。


 彼の爽やかな外見に不釣り合いな、使い古されたクマのキーホルダーの意味さえ、私は知らない。

そういえばいつか、彼が友達に「これ? 小さい頃に親父にさ、『また会えるように』っておまじないで渡されたやつ』と笑っていたのを、遠くで聞いたことがある。


 どこにでも溶け込めるのに、どこにも根を張ろうとしない、その危うさに惹かれている自分に気づいていた。

その輪郭に触れたい。でも、触れ方がわからない。


 知らないものを、描けるはずがない。

私の好きなんて、その程度の、薄っぺらいものなのかもしれない。


 思考が空回りし、指一本動かせないまま、時間だけが過ぎていく。

窓の外では、グラウンドを叩きつけていた太陽が力尽き、空が深い群青色に沈み始めていた。

その時だった。ポケットに入れていたスマートフォンが、短く震えた。ミカからのメッセージだった。


『ねえ、アキ。嘘かもだけど』

『春樹くん、夏休みで転校するって噂だよ』


 画面の白い光が、私の世界から、すべての色と音を奪い去っていった。

さっきまであれほどリアルに感じていた油絵の具の匂いが、嘘のように消えていた。


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