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【第五話『神の抜け殻』:シーン12『紙のおもてがわ』(エピローグ)】

あれから、一年という、季節が、流れた。

世間では、「天才作家・羽月幻斎、突然の失踪」というニュースが、一時期、大きな話題となったが、次から次へと現れる、新しい才能の輝きの中に、そのニュースも、いつしか、埋もれていった。


人々は、神の不在に、すぐに、慣れた。

神保町の、あの、古書店「夏目書房」。

その、カウンターの奥で、水野詩織は、いつものように、客の応対をしていた。


大学院は、無事に、卒業したが、彼女は、結局、この、愛する場所に、そのまま、就職した。

カラン、と、ドアベルが、鳴る。

彼女が、「いらっしゃいませ」と、顔を上げると、そこに、一人の、穏やかな表情をした、中年男性が、立っていた。


「……笹川さん」


彼女が、そう、呼びかけると、男──笹川拓郎は、少し、照れくさそうに、笑った。

この一年で、彼の、纏う空気は、すっかり、変わっていた。

かつての、神のような、近寄りがたいオーラは、消え失せ、そこには、ただ、穏やかで、少し、不器用そうな、一人の男がいるだけだった。


彼は、時折、こうして、ふらりと、この店に、顔を出すようになっていた。

高価なスーツではなく、くたびれた、セーターを着て。


「やあ。……これ、君に、読んでほしくて」


彼は、そう言うと、少し、厚めの、原稿の束を、カウンターの上に、置いた。

それは、製本もされていない、ただの、原稿用紙の、束だった。

表紙には、万年筆で、こう、書かれている。


『紙のおもてがわ』

著者:笹川拓郎


詩織は、そのタイトルを見て、息を呑んだ。

そして、ゆっくりと、その原稿を、手に取る。

一枚、一枚、丁寧に、万年筆で、書かれた文字。


そこには、インクの、僅かな、濃淡があり、時折、修正液で、消された、跡もある。

それは、キーボードで打たれた、無機質な文字とは、全く違う、書き手の、体温や、呼吸、そして、迷いまでもが、伝わってくるような、生きた、文字だった。


「……読んでも、いいんですか?」

「ああ。君が、最初の、読者だ」


笹川は、そう言うと、少しだけ、視線を、逸らした。

その仕草は、まるで、初めて、自分の作品を、人に見せる、若い作家のようだった。

詩織は、ゆっくりと、最初のページを、めくった。


そこに書かれていたのは、一人の、不器用な父親と、その息子が、古い万年筆を、巡る、ささやかな、しかし、愛に満ちた、物語だった。

事件は、起こらない。誰も、死なない。


ただ、失われた時間が、静かに、取り戻されていくだけの、物語。

しかし、その、一行、一行から、彼女は、作者の、魂の、震えを、感じ取っていた。

彼女は、顔を上げ、目の前の、笹川拓郎に、微笑みかけた。

それは、彼女が、初めて、彼に、見せた、心からの、笑顔だった。


「……とても、温かい、物語ですね」


その、たった、一言。

その言葉を聞いた瞬間、笹川拓郎は、自分が、本当に、救われたことを、知った。

彼は、もう、神ではない。


巨万の富も、世界的な名声も、失った。

しかし、彼の、手の中には、一本の、父の万年筆と、たった一人、しかし、かけがえのない、読者がいる。

それだけで、十分だった。


いや、それこそが、彼が、本当に、欲しかった、全てだったのだ。

彼は、彼女の、その笑顔を見ながら、ただ、静かに、頷き返した。

古書店の、窓から、柔らかな、午後の光が、差し込み、二人の、その、新しい物語の始まりを、優しく、照らしていた。

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