【第五話『神の抜け殻』:シーン11『神の葬送』】
水野詩織が帰った後も、笹川は、書斎で、一人、夜明けを迎えた。
彼の右手には、あの、古い万年筆が、固く、握りしめられている。
何十年ぶりかに触れた、その、ひんやりとした感触が、忘れていた、多くのことを、彼に、思い出させていた。
彼は、ゆっくりと、立ち上がると、書斎の、巨大なモニターの前に、立った。
そして、これまで、彼が、築き上げてきた、全ての「帝国」を、一つ、また一つと、自らの手で、解体し始めた。
まず、彼は、匿名のSNSアカウントを開いた。
夜な夜な、自作への、悪罵を、書き連ねていた、あの「ドブネズミ」のアカウント。
彼は、何の、躊躇もなく、「アカウントを削除」のボタンを、クリックした。
画面から、その、歪んだ、もう一人の自分が、あっけなく、消え去る。
彼は、もう、世界の「外側」から、自分を、冷笑する必要は、なかった。
次に、彼は、秘書の相田に、短い、メールを送った。
『陰陽師譚、及び、全ての商業作品の、執筆活動を、無期限で、休止する。関係各社への連絡は、任せる』
それは、羽月幻斎という「物語の神」の、死を、意味していた。
巨万の富を生み出す、金の卵を、自らの手で、絞め殺す、行為。
しかし、彼の心に、もはや、何の、未練も、なかった。
そして、最後に。
彼は、パスワードで、厳重に、ロックされていた、あのファイルを開いた。
『紙のおもてがわ』。
彼の、最後の、聖域であり、そして、呪縛でもあった、物語。
彼は、その、膨大な量の、虚無のテキストデータを、全て、選択した。
そして、震える指で、デリートキーを、押した。
画面に、「完全に削除しますか?」という、無機質な、問いかけが、表示される。
彼は、一瞬、目を閉じた。
これで、本当に、自分は、空っぽになるのかもしれない。
しかし、彼は、もう、恐れてはいなかった。
彼は、静かに、エンターキーを、押した。
彼の、内面の、全てであったはずの、虚無の言葉たちが、一瞬で、画面から、消え去った。
空っぽになった、白い画面。
しかし、それは、以前、彼を、絶望させた、あの、虚無の白さとは、違って見えた。
それは、これから、何かを、描くことができる、可能性に満ちた、始まりの「白」だった。
彼は、ゆっくりと、デスクに向かう。
そして、引き出しの奥から、一枚の、真っ白な、原稿用紙を、取り出した。
彼が、この紙に、向かうのは、何十年ぶりのことだろうか。
彼は、右手に握りしめていた、父の万年筆の、キャップを、外す。
そして、インク壺に、そのペン先を、浸した。
インクの、懐かしい匂いが、彼の、鼻腔を、くすぐる。
彼は、原稿用紙の、一番上の行に、ゆっくりと、万年筆を、下ろした。
そして、たった、一言。
こう、記した。
『父さんへ』
その、たった、四文字を、書いただけで、彼の、目からは、再び、涙が、溢れ出した。
しかし、それは、もはや、絶望の涙ではなかった。
彼は、書ける。
まだ、自分には、書くべき「物語」が、残っていた。
それは、世界中の、誰も、評価してくれないかもしれない。
一円の、金にも、ならないかもしれない。
しかし、それは、紛れもなく、彼、笹川拓郎自身の、ただ、一つの、本当の物語だった。
彼は、涙を、拭うこともせず、ただ、ひたすらに、ペンを、走らせ始めた。
まるで、初めて、物語を書く、喜びに、打ち震える、一人の、少年のように。
神の、長い、葬送の儀式が、終わり、今、一人の、人間が、静かに、生まれ変わろうとしていた。




