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【第五話『神の抜け殻』:シーン10『静かなる対話』】

天空のペントハウスには、重い、沈黙が、流れていた。

笹川は、全てを、吐き出した後、まるで、抜け殻のように、ソファに、深く、身を沈めている。

彼の、神としての、仮面は、完全に、剥がれ落ちていた。


そこにいるのは、ただの、迷子になった、中年男、「笹川拓郎」だった。

詩織は、しばらく、黙って、彼の、その、痛々しい姿を、見つめていた。

そして、彼女は、ゆっくりと、歩き出す。


彼が、先ほど、指差した、書斎の、巨大なモニターの前へ。

そこに映し出された、真っ白な『紙のおもてがわ』のページを、彼女は、静かに、見つめた。

やがて、彼女は、振り返ると、笹川に、静かに、語りかけた。


その声には、同情も、憐れみも、なかった。

ただ、一人の、文学を愛する人間としての、純粋な、問いかけだけがあった。


「……先生は、なぜ、これを、書いているのですか?」


その、あまりにも、根源的な問いに、笹川は、虚ろな目で、彼女を、見返した。


「……分からない」

「では、なぜ、書くのを、やめないのですか?」

「……それも、分からない。ただ……これを、書くのをやめたら、俺は、本当に、空っぽになって、消えてしまうような、気がするんだ」


か細い、しかし、偽りのない、彼の、心の声。

詩織は、小さく、頷いた。

そして、彼女は、ゆっくりと、部屋の中を、歩き始めた。


彼女の目は、この、完璧な、しかし、どこか、冷たい、博物館のような部屋の、細部を、一つ一つ、確かめるように、見て回っている。

壁に飾られた、高価なアート。床に、無残に散らばった、ガラスの破片。


そして、彼女の視線は、一つの場所で、ぴたりと、止まった。

破壊された、ガラスケース。

その中心で、奇跡的に、無傷のまま、横たわっている、一本の、古い万年筆。


「……これは?」


彼女の、問いに、笹川は、答えない。

ただ、苦しげに、顔を、歪めるだけだった。

詩織は、ゆっくりと、そこに、近づくと、ガラスの破片を、避けながら、そっと、その万年筆を、拾い上げた。


そして、それを、両手で、優しく、包み込むように、持つと、笹川の元へと、戻ってきた。

彼女は、彼の、目の前に、その万年筆を、差し出した。


「先生」


彼女は、初めて、彼を、そう呼んだ。


「これを、お父様から、もらった時のこと、覚えていますか?」


その言葉は、まるで、魔法の呪文のようだった。

笹川の脳裏に、忘れていたはずの、遠い記憶の断片が、鮮やかに、蘇る。

小学生の頃。初めて、コンクールで、作文が、入賞した日。

無口だった父が、照れくさそうに、この万年筆を、差し出してくれたこと。


「物語というのはな、こうやって、自分の手で、心を込めて、書くもんだぞ」


そう言って、自分の、ごつごつした、大きな手で、彼の、小さな頭を、不器用に、撫でてくれたこと。

インクの、独特の匂い。

原稿用紙の、ざらりとした、感触。


物語を、書くことの、ただ、純粋な、喜び。

彼の、乾ききっていたはずの、瞳から、一筋、涙が、こぼれ落ちた。

それは、彼が、何十年も、忘れていた、温かい、塩の味がした。


「俺は……」


彼の、声は、震えていた。


「俺は、いつから、忘れてしまったんだろう。書くことが、ただ、楽しかった、あの頃を……」


詩織は、何も、言わなかった。

ただ、静かに、彼の、隣に、座る。

そして、彼が、自分の力で、立ち上がるのを、待っているかのように、じっと、彼の、魂の、夜明けを、見守っていた。


彼女は、彼に、答えを、与えはしない。

ただ、彼が、失ってしまった、自分自身の「物語」を、見つけ出すための、最初の、問いを、投げかけただけだった。

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