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【第五話『神の抜け殻』:シーン9『神の降臨』】

神保町の夜から、彷徨い帰った後も、笹川の症状は、悪化の一途を、辿っていた。

『陰陽師譚』のプロット会議は、ついに、延期せざるを得なくなった。

彼の口から、紡ぎ出されるアイデアは、ことごとく、過去作の、焼き直しに過ぎず、そのことに、彼自身が、誰よりも、気づいてしまっていたからだ。


編集者たちは、困惑し、アシスタントたちは、不安げに、顔を、見合わせる。

神の、絶対的な権威は、静かに、しかし、確実に、失墜し始めていた。

そして、ある夜。


事件は、起こった。

彼は、いつものように、『紙のおもてがわ』の、白い画面と、向き合っていた。

書けない。


一行も、書けない。

焦燥と、恐怖が、彼の、思考を、完全に、麻痺させる。

その時、彼の脳裏に、一つの、声が、響いた。


──お前は、もう、終わりだ。

それは、夜な夜な、SNSに書き込んでいた、匿名の「ドブネズミ」としての、彼自身の声だった。

かつては、自らを、客観視するための、冷笑的な、道具であったはずの声が、今や、彼の、内側から、彼自身を、断罪する、死神の囁きと、なっていた。


──お前は、偽物だ。父親の、才能を、食い潰しただけの、空っぽの、抜け殻だ。

「違う……」

──お前には、もう、何もない。お前の物語は、死んだんだ。

「違うッ!!」


彼は、絶叫と共に、キーボードを、デスクに、叩きつけた。

プラスチックの、砕ける、甲高い音。

彼は、肩で、荒い息を、繰り返す。


視界が、ぐにゃりと、歪む。

このままでは、本当に、狂ってしまう。

彼は、生まれて初めて、心の底から、「助けてくれ」と、思った。


そして、彼の、震える指が、スマートフォンの、画面を、タップする。

呼び出したのは、秘書の相田の、連絡先だった。

深夜にもかかわらず、コールは、数回で、繋がった。


「……先生?どうかなさいましたか?」


電話の向こうの、冷静な声。

「……あの女を、呼べ」

「……は?」

「水野詩織だ。今すぐ、ここに、連れてこい」


彼の、その、あまりにも、常軌を逸した、命令に、相田は、一瞬、言葉を、失った。

しかし、電話口から聞こえてくる、主人の、尋常ではない、呼吸音に、彼女は、事態の、深刻さを、察した。


「……かしこまりました。ですが、どのような、ご用件で……」

「いいから、呼べッ!!」


その、悲鳴のような、怒声に、相田は、ただ、「承知いたしました」と、答えるしかなかった。

一時間後。

深夜の、超高層マンションの、ペントハウスに、水野詩織は、立っていた。


タクシーの中で、事情を聞かされ、何が何だか、分からないまま、ここに、連れてこられたのだ。

彼女の目の前には、数時間前まで、神であったはずの男が、まるで、迷子になった子供のように、ソファに、蹲っていた。


高価な、ルームウェアは、乱れ、その顔には、血の気が、ない。

ただ、その瞳だけが、異常な光を放ち、彼女を、捉えていた。


「……来て、くれたか」


か細い、声だった。

詩織は、どう、応えていいか、分からず、ただ、小さく、頷いた。

彼は、震える指で、書斎の、巨大なモニターを、指差した。

そこには、一行も、書かれていない、『紙のおもてがわ』の、真っ白な、ページが、映し出されている。


「……書けないんだ」


彼は、絞り出すように、言った。


「物語が……生まれて、こない。俺は、もう、空っぽなんだ」


それは、神が、自らの、死を、告白する、瞬間だった。

彼は、全てを、失うことを、覚悟で、目の前の、この、無垢な女に、救いを、求めたのだ。

彼は、初めて、他人に、自分の、弱さを、見せた。


それは、彼が、何よりも、恐れていた、行為だった。

詩織は、ただ、黙って、彼の、その、絶望的な告白を、聞いていた。

彼女の、分厚い眼鏡の奥の瞳は、驚くほど、静かだった。


その瞳は、彼を、哀れんでも、嘲笑っても、いなかった。

ただ、静かに、彼の、魂の、ありのままの姿を、見つめているだけだった。

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