【第五話『神の抜け殻』:シーン8『神の彷徨』】
ガラスケースを破壊した翌日から、笹川の世界は、完全に、その均衡を失った。
昼の「羽月幻斎」の貌は、かろうじて、保っていた。
オンライン会議では、相変わらず、的確な指示を出す。
しかし、その言葉には、以前のような、絶対的な確信が、消えていた。
時折、ふと、思考が途切れ、アシスタントに、同じことを、聞き返す。
その、僅かな揺らぎに、秘書の相田だけが、気づいていた。
夜の「ドブネズミ」の貌は、もはや、機能しなかった。
書評サイトを開いても、そこに並ぶ、賛辞も、罵倒も、彼には、ただの、意味のない、文字の羅列にしか、見えない。
世界を、冷笑する、その視点そのものを、彼は、失ってしまったのだ。
そして、最も、深刻だったのは、深夜の「笹川拓郎」だった。
聖域であったはずの『紙のおもてがわ』は、一行も、進まない。
白い画面は、彼の、空っぽになった、内面を、ただ、無慈悲に、映し出す、鏡のようだった。
書けない。
物語を、紡げない。
それは、彼にとって、呼吸が、できないことと、同義だった。
彼を、神たらしめていた、根源的な力。
物語を、自在に、生み出す、その能力が、まるで、砂の城が、崩れるように、指の間から、こぼれ落ちていく。
焦燥と、彼自身にも、理解できない、恐怖。
それに、突き動かされるように、彼は、再び、城を、抜け出した。
今度は、変装すらしなかった。
彼は、まるで、夢遊病者のように、夜の街を、彷徨い始めた。
高級レストランの、ショーウィンドウに、自分の姿が、映る。
そこにいるのは、紛れもなく、時代の寵児、「羽月幻斎」だ。
しかし、その顔は、彼自身には、まるで、他人のように、見えた。
彼は、その店には、入らない。
代わりに、彼は、路地裏の、古びた、大衆食堂の、暖簾を、くぐった。
カウンターの隅に座り、ただ、壁の、黄ばんだメニューを、眺める。
油の匂い。酔客たちの、がなり声。
テレビの、けたたましい、バラエティ番組の音。
その、猥雑な、しかし、生々しい、人間の営みが、今の彼には、ひどく、眩しく、そして、遠いものに、感じられた。
彼は、自分が、かつて、どこに、住んでいたのか、思い出そうとした。
成功する前の、笹川拓郎が、どんな部屋で、どんな飯を食い、どんな夢を見ていたのか。
しかし、思い出せない。
その記憶は、彼が、富と名声を得る過程で、あまりにも、多くのものを、捨てすぎたせいで、完全に、摩耗してしまっていた。
彼は、自分の「過去」という、故郷を、失った、難民だった。
彼は、食堂を出て、また、歩き出す。
公園のベンチで、眠りこける、ホームレス。
高架下で、ギターをかき鳴らす、若い、ミュージシャン。
その、一つ一つの光景が、彼の、空虚な心を、抉っていく。
彼らは、貧しいかもしれない。成功しているとは、到底、言えない。
しかし、彼らは、生きている。
この、地面に、足をつけ、必死に、呼吸をしている。
それに比べて、自分は、どうだ。
天空の城で、全てを手に入れたはずの自分は、もはや、物語を、生み出すことすら、できない。
自分は、生きていると、言えるのだろうか。
彼は、無意識のうちに、神保町へと、足を、向けていた。
夜の、静まり返った、古書街。
シャッターが下りた、「夏目書房」の前で、彼は、足を止めた。
あの女が、働いていた、場所。
彼は、ただ、その、閉ざされた店の前で、立ち尽くす。
まるで、迷子になった子供が、母親を、探すように。
彼が、失ってしまった「何か」の、手がかりが、この場所にあるような、気がして、ならなかったのだ。




