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【第五話『神の抜け殻』:シーン7『神の動揺』】

水野詩織が、あの古書を、テーブルの上に、静かに置いて、帰っていった後。

笹川は、まるで、時間が止まったかのように、その場から、動けずにいた。

眼下には、宝石をちりばめたような、東京の夜景が、広がっている。


いつもならば、その光景は、彼に、絶対的な、支配者としての、全能感を、与えてくれるはずだった。

しかし、今夜は、その、無数の光の一つ一つが、まるで、自分を、嘲笑っているかのように、見えた。

彼は、テーブルの上に、ぽつんと、置かれた、古書へと、目を落とす。


あの女は、結局、何も、要求しなかった。

金も、名声も、サインすらも、求めなかった。

ただ、この、一冊の本を、返すためだけに、ここへ、来たのだ。


その、あまりにも、理解不能な、行動が、彼の、心を、かき乱し続けていた。

彼は、その本を、手に取ろうとして、やめた。

まるで、触れれば、火傷でもするかのように。


代わりに、彼は、書斎へと、逃げ込んだ。

いつものように、匿名のSNSアカウントを開き、自作への、悪罵を、書き込もうとする。

しかし、指が、動かない。


いつもなら、淀みなく、打ち込めるはずの、冷笑的な言葉が、全く、浮かんでこないのだ。

画面に映る、信者たちの、熱狂的な賛辞が、ひどく、空虚で、滑稽なものに、見えた。

ならば、と、彼は、もう一つの、聖域へと、向かう。


『紙のおもてがわ』。


自分の、魂の、最後の、砦。

彼は、そのファイルを、開く。

しかし、白い画面を前に、彼は、ただ、呆然とするだけだった。


一行も、書けない。

これまで、彼を、かろうじて、支えてきた、あの、虚無を描くための言葉が、まるで、霧のように、消え失せてしまっていた。


彼の、内なる世界が、初めて、完全に、沈黙したのだ。

焦りが、彼の、喉を、締め上げる。

彼は、立ち上がり、部屋の中を、意味もなく、歩き回った。

そして、ふと、ガラスケースの中に鎮座する、あの、父親の万年筆に、目が、留まる。


『お前の物語は、父さんの宝物だ』


あの女が、口にした、父親の言葉が、脳内で、こだまする。

その瞬間、彼の、心の奥底で、何かが、プツリと、切れた。


「うるさい……うるさい、うるさいッ!!」


彼は、獣のような、叫び声を、上げた。

そして、近くにあった、高価な、デザイナーズチェアを、掴むと、それを、ガラスケースに向かって、力任せに、叩きつけた。


ガシャン!という、耳をつんざくような、破壊音。

完璧な静寂を保っていた、神の城に、初めて、響いた、不協和音だった。

ガラスの破片が、大理石の床に、飛び散る。


その、無残な光景の中心で、彼は、肩で、荒い息を、繰り返していた。

しかし、その瞳に、いつものような、冷たい光は、ない。

あるのは、ただ、行き場のない、子供のような、混乱と、絶望の色だけだった。


彼は、初めて、自覚した。

あの女は、彼の、城に、ただ、入ってきただけではない。

彼女は、この、完璧に、静かで、死んでいたはずの、博物館に、「感情」という、最も、厄介な、ウイルスを、持ち込んだのだ。

そして、そのウイルスは、今、彼の、内側から、彼自身を、静かに、しかし、確実に、破壊し始めていた。


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