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【第五話『神の抜け殻』:シーン6『亀裂』】

神保町から逃げ帰った後も、笹川の心は、静まらなかった。

水野詩織という女の、あの「無垢な目」が、彼の思考に、深く、突き刺さったまま、抜けない。

彼は、決断した。


この、忌々しい棘を、引き抜くには、もはや、直接、対峙するしかない。

彼女を、自らの「城」に招き入れ、その、圧倒的な富と、権威の前に、ひれ伏させる。

そうすれば、必ずや、化けの皮は、剥がれるはずだ。


金目のない善意など、この世には、存在しないのだから。

彼は、秘書の相田を通じて、水野詩織に、連絡を取らせた。


「羽月幻斎先生が、直接、お会いしたい、と、おっしゃっています」


その言葉に、電話の向こうの彼女が、どれほど、驚き、恐縮したか。

笹川には、手に取るように、分かった。

そして、約束の日。

都心にそびえ立つ、超高層マンションの、最上階。


専用エレベーターの扉が、静かに、開く。

迎えの秘書に案内され、足を踏み入れた水野詩織は、目の前に広がる、現実離れした光景に、呆然と、立ち尽くしていた。

床から、天井まで、一面のガラス窓。

その向こうには、東京の街並みが、まるで、ミニチュアのように、広がっている。


大理石の床、ミニマルながらも、明らかに高価な、デザイナーズ家具。

そして、壁に飾られた、美術館でしか見たことのないような、現代アートの数々。

彼女は、ただ、小さく、息を呑むだけだった。


やがて、リビングの奥から、笹川が、姿を現した。

完璧に仕立てられた、高級なルームウェア。

感情の読めない、静かな、しかし、全てを見透かすような、鋭い眼光。


「羽月幻斎」という、神の、オーラ。

彼は、目の前の、場違いなほど、素朴な女子学生を、値踏みするように、見下ろした。


「……君が、水野詩織さんか」


「は、はい!あの、この度は、突然、このような、貴重な機会を……」


緊張で、上ずる彼女の声を、笹川は、冷たく、遮った。


「本題に入ろう。君が、持っているという、その本。いくらで、売る気だ?」


その、あまりにも、直接的で、侮蔑に満ちた問いに、詩織は、一瞬、言葉を、失った。

彼女は、慌てて、カバンから、丁寧に、布で包まれた、古書を、取り出した。


「い、いえ!お金を、いただこうなんて、そんな……!私は、ただ、これを、お返ししたくて……」


「ほう。では、何が望みだ?私の、サインか?あるいは、デビューの、口利きでも、してほしいのか?」


笹川は、嘲るような笑みを、浮かべた。

彼は、彼女が、狼狽し、やがて、隠していた、欲望を、露わにすることを、期待していた。

しかし、彼女の反応は、彼の、予想を、完全に、裏切った。


詩織は、その、侮辱的な言葉に、傷ついたように、少しだけ、顔を、伏せた。

だが、すぐに、顔を上げると、その、分厚い眼鏡の奥の瞳で、まっすぐに、笹川を、見つめ返した。

その瞳には、もはや、怯えは、なかった。

あるのは、静かな、しかし、凛とした、悲しみの色だった。


「……あなたは、羽月幻斎先生、なんですよね?」

「いかにも」

「……では、なぜ、分からないのですか?」

「何がだ」

「この、言葉の、価値が、です」


彼女は、震える指で、本の、見返しを、開いた。

そして、そこに書かれた、父親の言葉を、ゆっくりと、指で、なぞった。


『拓郎へ。お前の物語は、父さんの宝物だ。いつか、世界一の作家になれよ。父より』


「これは……お金や、名声なんかじゃ、絶対に、買えないものじゃ、ないですか。作家である、先生なら、そのことが、誰よりも、分かるはずでは、ないのですか?」


その、あまりにも、純粋で、あまりにも、本質を突いた、問い。

その瞬間、笹川の、完璧に構築された、心の壁に、初めて、決定的な「亀裂」が、入った。

目の前の女は、ハイエナではなかった。


彼女は、ただ、純粋に、物語を、そして、そこに込められた、人の想いを、信じているだけだった。

それは、かつて、彼自身が、持っていたはずの、しかし、あまりにも、遠い昔に、捨ててしまった、感情だった。

彼は、言葉を、失った。


初めて、彼の、完璧な仮面が、剥がれ落ち、その下に隠されていた、「笹川拓郎」という、ただの、孤独な男の、動揺が、露わになった。

彼は、彼女の、その、真っ直ぐな瞳から、逃れるように、目を、逸らした。

完璧な静寂に包まれた、天空のペントハウスに、彼の、呼吸だけが、荒く、響いていた。

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