【第五話『神の抜け殻』:シーン5『無垢の目撃』】
あの一通の手紙を、ゴミ箱から拾い上げてから、数日が、過ぎた。
笹川の日常は、表面上、何も、変わらなかった。
昼は完璧な「羽月幻斎」として物語を製造し、夜は冷笑的な「ドブネズミ」として世界を嘲笑い、深夜は孤独な「笹川拓郎」として虚無を書き連ねる。
その完璧な、三つの貌のローテーションに、乱れはないはずだった。
しかし、彼の、最も、深い部分で、何かが、確実に、狂い始めていた。
深夜、聖域であるはずの『紙のおもてがわ』に向かっても、以前のような、絶対的な集中が、得られない。
白い画面の向こう側に、あの、忌々しいほど、真っ直ぐな、便箋の文字が、ちらつくのだ。
『この、お父様の、温かい記憶を、直接、お返ししたいのです』
馬鹿げている、と彼は、思う。
記憶など、金で、買える。
現に、彼は、そうやって、この「博物館」を、作り上げたではないか。
あの女も、結局は、同じだ。
純粋さを装い、こちらの懐に、潜り込もうとする、ハイエナの一種に、決まっている。
そう、頭では、分かっている。
分かっているのに、心の、どこかで、小さな、しかし、無視できない声が、囁くのだ。
──本当に、そうだろうか?
その声が、彼の、完璧な思考の歯車を、少しずつ、狂わせていく。
彼は、苛立ちを、覚えていた。
この、得体の知れない、心のノイズを、消し去ってしまいたい。
そのためには、相手の、正体を、暴いてやるのが、一番だ。
あの女が、金目当ての、俗物であることを、この目で、確認してやれば、この、馬鹿げた迷いも、消え失せるだろう。
彼は、秘書の相田に、ごく、事務的な口調で、命じた。
「先日、紛れ込んでいた、あの手紙の差出人だが……。水野詩織、とか言ったか。どんな人間か、調べておけ。興信所にでも、投げればいい」
彼の、その、いつになく、個人的な指示に、相田は、少し、驚いた顔をしたが、何も、問わずに、「かしこまりました」と、深く、頭を下げた。
数日後、彼の元に、一冊の、薄いファイルが、届けられた。
そこには、水野詩織という、大学院生の、ごく、平凡な、個人情報が、淡々と、記されていた。
都内の、古いアパートに、一人暮らし。大学院では、近代文学を専攻。そして、週に三日、神保町の、**「夏目書房」**という、老舗の古書店で、アルバイトをしている、と。
その、あまりにも、平凡な、プロファイルが、逆に、笹川の、苛立ちを、煽った。
彼は、ある、日の、午後。
誰にも、告げることなく、一人で、城を、抜け出した。
帽子を、深くかぶり、縁の厚い、伊達眼鏡をかける。
タクシーを拾い、彼は、運転手に、一言だけ、告げた。
「神保町、夏目書房まで」
店の、通りの向かい側にある、喫茶店の、窓際の席。
そこから、彼は、獲物を狙う獣のように、じっと、店の入り口を、見つめた。
ガラス張りの扉の向こうで、エプロンをかけた、一人の女性が、書棚の整理をしているのが、見える。
分厚い眼鏡をかけた、飾り気のない、学生。
ファイルの、写真の通りの、女だった。
彼女は、一冊一-冊を、実に、愛おしそうに手に取り、布で、その表紙を優しく拭いている。
時折、客らしき老人と、何事か楽しそうに言葉を交わし、屈託なく笑っていた。その笑顔には、彼が最も嫌悪する、計算や、下心といった匂いが、全くしなかった。
ただ、本が好きで、この場所にいる。
その、あまりにも、当たり前の事実が、笹川の胸を、鈍い何かで、殴りつけた。
違う。
こんなはずでは、なかった。
もっと、狡猾で、野心に満ちた目をしているはずだった。
そうでなければ、自分の、この世界に対する、認識が、揺らいでしまう。
彼は、コーヒー代の千円札をテーブルに置くと、誰に追われるでもなく、喫茶店を飛び出した。
あの女の「無垢さ」は、彼が、これまで金と権力で築き上げてきた、全ての防御壁を、いとも簡単に、無力化してしまう、危険な光だった。
彼は、その光から、逃げるように、雑踏の中へと、その姿を、消した。
しかし、彼の脳裏には、古書を、慈しむように拭っていた、あの女の、指先の光景が、焼き付いて、離れなかった。




