【第五話『神の抜け殻』:シーン4『一通の手紙』】
羽月幻斎の事務所には、毎日、段ボール数箱分にもなる、ファンからの手紙や、贈り物が、届いていた。
その全てに、彼自身が、目を通すことなど、あり得ない。
それらは、有能な秘書である、相田という女性によって、機械的に、処理されていく。
熱烈なファンレターは、定型文の礼状と共に、ファイルへ。
高価な贈り物は、丁重に、送り返す。
批判や、脅迫めいた手紙は、顧問弁護士のチームへと、転送される。
それが、彼女の、日々の、ルーティンだった。
水野詩織から届いた、その、飾り気のない、茶封筒も、本来であれば、その他、大勢のファンレターと、同じ運命を、辿るはずだった。
相田は、いつものように、ペーパーナイフで、その封を開け、中から、一枚だけの、折りたたまれた便箋を、取り出した。
そして、その、あまりにも、素朴で、実直な文面に、彼女は、ふと、手を止めた。
そこには、羽月幻斎という作家への、称賛の言葉は、一言も、書かれていなかった。
書かれていたのは、一冊の、古い小説のこと。
そして、その見返しに書かれていた、父親から、息子への、短いメッセージのこと。
そして、最後に、こう、結ばれていた。
『この、お父様の、温かい記憶を、直接、お返ししたいのです。ただ、それだけが、私の、願いです』
金銭の要求も、自己のPRも、何もない。
あるのは、ただ、ひたむきなまでの、善意だけ。
相田は、この業界で、長く、働いてきた。人間の、欲望や、嫉妬、名声欲といった、どす黒い感情を、嫌というほど、見てきた。
だからこそ、この手紙が放つ、異質なまでの「純粋さ」が、彼女の、職業的な警戒心を、ほんの少しだけ、麻痺させた。
あるいは、彼女自身、鉄の仮面を被った、孤独な上司の、その、人間的な部分を、どこかで、信じていたのかもしれない。
「……まあ、たまには、いいか」
彼女は、誰に言うでもなく、そう、呟いた。
そして、普段の彼女なら、決して、しないであろう、行動に出た。
その、一枚の便箋を、他の、重要書類のファイルに、そっと、紛れ込ませたのだ。
それは、彼女の、ほんの、気まぐれ。
あるいは、神の城の、鉄壁の守りに、空いた、ほんの、小さな、綻びだった。
その日の夕方。
笹川は、書斎で、秘書の相田から、業務報告を、受けていた。
分厚いファイルを、機械的に、めくり、サインをしていく。
その、流れ作業の、途中で、彼の指が、ふと、止まった。
明らかに、他の、ビジネス文書とは、異質な、手書きの便箋。
「なんだ、これは」
「ああ、申し訳ありません。ファンレターが、紛れ込んでしまったようです」
相田の、事務的な声。
笹川は、一瞬、眉をひそめた。
そして、その便箋を、指で、つまみ上げると、読まずに、ゴミ箱へと、捨てようとした。
ファンからの、個人的な感情など、彼にとっては、もはや、ノイズでしかない。
しかし。
彼の目が、便箋の、冒頭の、その一文を、捉えてしまった。
『笹川拓郎様』
その、あまりにも、懐かしい、そして、今は、もう、誰も呼ばない、自分の、本当の名前。
その、たった、四文字が、彼の、完璧にコントロールされていたはずの、思考を、一瞬、停止させた。
彼は、ゴミ箱へと、伸ばしかけた手を、止め、無言で、その便箋を、開いた。
一行、また、一行と、読み進めるうちに、彼の、能面のような表情に、初めて、微かな、変化が、現れた。
それは、驚きでも、喜びでもない。
もっと、複雑な、警戒と、そして、戸惑いが、入り混じったような、色だった。
父親の、万年筆の、筆跡。
『お前の物語は、父さんの宝物だ』という、言葉。
忘れていたはずの、過去の断片が、彼の、心の、固く閉ざされた扉を、外側から、ノックする。
「……くだらん」
彼は、そう、吐き捨てると、今度こそ、その便箋を、くしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱へと、投げ捨てた。
そして、何事もなかったかのように、残りの書類に、サインを、再開する。
相田も、それ以上、何も、言わなかった。
しかし、その夜。
深夜、一人になった書斎で、彼は、もう一度、ゴミ箱へと、手を伸ばしていた。
そして、丸められた、あの便箋を、拾い上げると、その皺を、ゆっくりと、伸ばし、もう一度、その、忌々しいほどに、真っ直ぐな文章を、読み返すのだった。
彼の心に、一本の、小さな、しかし、決して、抜くことのできない、棘が、深く、突き刺さった、瞬間だった。




