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【第五話『神の抜け殻』:シーン3『運命の古書』】

その頃、都内の大学院で、近代文学を研究する一人の女子学生が、神保町の古書街を、彷徨っていた。

彼女の名前は、水野詩織。

分厚い眼鏡の奥の瞳は、いつも、少しだけ、遠い場所を見ているような、夢見がちな光を宿している。


彼女にとって、この、カビと、古い紙の匂いが入り混じった街は、どんなテーマパークよりも、心躍る場所だった。

彼女が、これほどまでに、古書に惹かれるのには、理由があった。

数年前に亡くなった彼女の父親は、昔気質の、無口な男だった。


彼女は、父親と、まともに、会話らしい会話をした記憶が、ほとんどない。

食卓でも、リビングでも、彼は、いつも、黙って、そこにいるだけだった。

そんな父親が、唯一、その表情を、和らげる瞬間があった。


書斎で、古い小説を、読んでいる時だ。

その時だけは、彼の、いつも険しい眉間の皺が、少しだけ、緩んでいるように、幼い彼女の目には、映った。

だから、彼女は、古書を手に取るたびに、まるで、言葉少なだった父親の、心の内に、触れているような、そんな、不思議な感覚になるのだった。


その日も、彼女は、一軒の、雑居ビルの二階にある、目立たない古書店に、吸い寄せられるように、足を踏み入れた。

店主の老人と、軽く会釈を交わし、彼女は、文芸書の棚へと、向かう。指先で、背表紙を、一つ一つ、なぞっていく。

それは、彼女にとって、失われた時間と、対話する、神聖な儀式のようなものだった。


ふと、一冊の本が、彼女の指に、留まった。

何の変哲もない、昭和四十年代に出版された、大衆小説だ。

装丁も、色褪せ、ページの角も、少し、折れている。


なぜ、この本に惹かれたのか、彼女自身にも、分からなかった。

導かれるように、その本を、手に取り、ぱらぱらと、ページをめくる。

そして、見返しを開いた瞬間、彼女は、息を呑んだ。


そこには、インクが少し滲んだ、しかし、力強く、そして、温かい、万年筆の筆跡があった。


『拓郎へ。お前の物語は、父さんの宝物だ。いつか、世界一の作家になれよ。父より』


短い、たった、それだけの言葉。

しかし、その一文に込められた、父親から、息子への、深く、そして、無条件の愛情が、インクの滲みを通して、彼女の心に、直接、流れ込んでくるようだった。


彼女は、そのページから、目が離せなくなった。

見ず知らずの、親子の、ささやかな、しかし、何よりも、美しい「物語」。

こんな、素晴らしい記憶が、どうして、古書店の片隅で、埃を被っているのだろう。


この「拓郎さん」という人は、今、どうしているのだろう。彼は、お父さんの、この言葉を、覚えているのだろうか。

純粋な、知的好奇心。


そして、この、温かい記憶を、あるべき場所へ、返してあげたい、という、衝動にも似た、善意。

彼女は、その本を、胸に抱きしめるようにして、レジへと、向かった。

研究室に戻った彼女は、まるで、難解な文献を解読するかのように、その本と、向き合った。


蔵書印の、かすれた文字。

巻末に、鉛筆で、小さく書かれた、購入日の日付。

わずかな手がかりを、図書館のデータベースや、過去の住宅地図と、一つ一つ、照らし合わせていく。


それは、彼女の、研究者としての、性分でもあった。

そして、数日後。

彼女は、信じられない、一つの事実に、たどり着く。


この本の、元の持ち主と思われる、「笹川拓郎」という名前。

その人物が、あの、現代最高のストーリーテラー、「羽月幻斎」の、本名である、という、衝撃の事実に。

彼女は、途端に、怖くなった。


自分が、触れてはならない、世界の、秘密の扉に、指をかけてしまったような、気がした。

相手は、雲の上の、大作家だ。

こんな、古びた本一冊を、今更、届けたところで、迷惑がられるだけではないか。


彼女は、一度、その本を、机の引き出しの、奥深くに、しまい込んだ。

しかし、彼女の心から、あの、父親の、温かい筆跡が、消えることはなかった。


『お前の物語は、父さんの宝物だ』


その言葉が、彼女の中で、何度も、何度も、こだまする。

これは、ただの、古い本じゃない。

これは、一人の人間が、作家になる、その、原点の、光そのものだ。


その光を、このまま、自分の引き出しの中で、眠らせていては、いけない。

数日間、迷った末に、彼女は、意を決した。

彼女は、一枚の、真っ白な便箋を取り出すと、背筋を伸ばし、ペンを、握った。


宛名は、「羽月幻斎様」。

しかし、彼女の心の中にいたのは、大作家の幻影ではなく、父親から、宝物だと、言われた、一人の青年、「笹川拓郎」の姿だった。

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