【第五話『神の抜け殻』:シーン2『三つの顔』】
その城の中では、時間は、三つの貌を持っていた。
昼の貌は、完璧な「物語の神」としての、羽月幻斎のものだった。
書斎の巨大なモニターには、数人のアシスタントや、担当編集者の顔が、オンライン会議の画面として、映し出されている。
議題は、彼の最新作にして、国民的伝奇ファンタジーの最終章となる、『陰陽師譚・血盟の刻』の、プロットの最終確認だ。
「ここの展開ですが、主人公の式神が、一度、敵に奪われる、というのはどうでしょう。読者の絶望感を、一度、極限まで煽っておいて、そこからの、大逆転。カタルシスは、より、大きくなるはずです」
彼の、淀みない提案に、画面の向こうの誰もが、感嘆の声を上げる。
「なるほど!」「さすがです、先生!」
彼は、その称賛の言葉を、BGMのように聞き流しながら、淡々と、しかし、的確に、物語の設計図を、完成させていく。
読者が、どこで驚き、どこで泣き、どこで熱狂するのか。
その全てが、彼の頭の中では、完璧な数式のように、見えている。
彼は、もはや、物語を「創造」しているのではなかった。
大衆の感情を、最も効率よく揺さぶるための、商品を「製造」しているのだ。
そのことに、彼自身、何の、疑問も、抱いてはいなかった。
夜の貌は、名もなき「ドブネズミ」としての、彼のものだった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った書斎で、彼は、全く別の、匿名のSNSアカウントに、ログインする。
そして、巨大な書評サイトの、自作『陰陽師譚』のスレッドを、開く。
そこには、彼の信者たちの、熱狂的な賛辞が、溢れかえっていた。
彼は、その一つ一つを、冷たい目で、スクロールしていく。
そして、おもむろに、キーボードを叩き始めた。
『羽月幻斎は、終わった。ただ、過去の遺産を、切り売りしているだけ。今回の展開も、過去作の、安易な焼き直しに過ぎない。読者を、馬鹿にするのも、大概にしろ』
その、誰よりも的確で、誰よりも辛辣な批判は、即座に、信者たちの、猛烈な反発を、呼び起こした。
「アンチは、黙ってろ!」「お前に、羽月先生の何が分かる!」
彼は、その、燃え盛る炎上の様を、まるで、対岸の火事を眺めるように、無表情で、見つめている。
信者たちの、盲目的な擁護も、アンチである自分への、憎悪も、どちらも、彼にとっては、等しく、空虚なノイズでしかなかった。
この行為だけが、彼に、自分が、まだ、この世界の「外側」にいる、という、歪んだ実感を与えてくれていた。
そして、深夜。
全ての貌が、剥がれ落ちた時、彼は、かろうじて、一人の「笹川拓郎」に、戻る。
彼は、パスワードで厳重にロックされた、一つのファイルを、開く。
タイトルは、『紙のおもてがわ』。
それは、彼が、誰にも読ませるためではなく、ただ、自分自身の、魂の救済のためだけに、書き続けている、難解な、純文学だった。
事件は、起こらない。物語は、進まない。登場人物は、何も、解決しない。
ただ、男が一人、部屋の中で、壁の染みを、見つめている。そんな、描写だけが、延々と、続く。
それは、彼の、空虚な内面を、そのまま、書き写したような、祈りであり、そして、呪詛でもあった。
彼は、その原稿データの中に、一つの、古いフォルダを、残していた。
フォルダ名は、「旧稿」。
中には、数年前に、一度、この『紙のおもてがわ』の全てを、削除しようとして、思いとどまった、その、残骸が、入っている。
なぜ、あの時、消さなかったのか。
なぜ、今も、これを、書き続けているのか。
その答えを、彼自身も、知らない。
ただ、これを書いている時間だけが、彼が、かろうじて、呼吸をすることを、許されているような気がした。
彼は、その日も、たった、一行だけ、その、虚無の物語を、書き足した。
そして、誰に見せるでもなく、そのファイルを、静かに、閉じた。




