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【第五話『神の抜け殻』:シーン1『戴冠と虚無』】

その夜、羽月幻斎は、三度目の『世界文学大賞』のトロフィーを、その手にしていた。

会場を埋め尽くす、無数のフラッシュ。

鳴り止むことのない、万雷の拍手。


壇上から見下ろす景色は、まるで、星々の海だ。

誰もが、熱に浮かされたような瞳で、彼を見上げている。

現代最高のストーリーテラー、物語の神、と。


「この栄誉を、私の物語を愛してくださる、全ての読者の皆様に」


マイクを通して、彼の声が、朗々と響き渡る。

感謝、謙遜、そして、未来への抱負。

完璧に計算され、磨き上げられた言葉たちが、聴衆の心を、巧みに、そして、的確に、揺さぶっていく。


人々は、彼のその言葉に、酔いしれ、感動し、涙さえ浮かべていた。

しかし、その言葉を紡いでいる、彼自身の内面は、驚くほど、静かだった。

まるで、嵐の中心にいるかのように、何の感情の波も、立ってはいない。


彼は、壇上から、自分を熱狂的に見つめる、無数の顔、顔、顔を、ただ、ぼんやりと、眺めていた。

それは、彼にとって、人間一人一人の顔ではなく、ただの、巨大な「現象」に過ぎなかった。

彼の目は、その群衆の中の、誰とも、合ってはいない。


その瞳に映っているのは、スポットライトの強い光が作り出す、深い、深い、虚無の色だけだった。

けたたましいサイレンの音を背中で聞きながら、黒塗りのハイヤーは、都会の喧騒を滑るように抜け、やがて、静寂に包まれた、超高層マンションの地下駐車場へと、吸い込まれていった。


エントランスホールには、コンシェルジュが、深々と頭を下げる。

エレベーターは、彼以外の誰も乗せることなく、最上階の、その一つの扉の前へと、彼を運び届けた。

重厚な扉を開けると、そこは、彼の「城」であり、そして、「墓標」でもあった。


リビング、と呼ぶには、あまりにも、生活感のない、だだっ広い空間。

その壁という壁には、温度と湿度が完璧に管理された、ガラスケースが、整然と、並べられている。

そこは、彼の書斎であり、そして、彼が、その無限の富を使い、人知れず作り上げた、私設博物館でもあった。


中身は、彼が失った「過去」の、抜け殻たちだ。

父親が、初めて給料で買ったという、腕時計。

母親が、嫁入り道具として持ってきた、小さな鏡台。


兄が、学生時代に使い古した、野球のグローブ。

彼が、幼い頃に描いた、拙い絵。

その全てが、まるで、聖遺物のように、厳重に、陳列されている。


彼は、その一つ一つを、オークションで、あるいは、元の持ち主から、法外な値段で、買い集めた。

しかし、そのどれに触れても、彼の心に、温かい記憶が蘇ることは、もう、ない。

それは、ただの、冷たい「モノ」でしかなかった。


彼は、そのガラスケースが並ぶ廊下を、ゆっくりと、歩いていく。

そして、一番、奥まった場所にある、一つのケースの前で、いつも通り、足を止めた。

その中には、一本の、何の変哲もない、古い万年筆が、ぽつんと、置かれている。


父親が、生前、愛用していたものだ。

まだ、彼が、笹川拓郎という、ただの子供だった頃。

父親は、この万年筆で、原稿用紙に、あるいは、日記に、何かを、熱心に、書きつけていた。


その、インクの匂いと、カリカリと紙を掻く音を、彼は、今でも、おぼろげに、覚えている。

物語というのはな、こうやって、自分の手で、心を込めて、書くもんだぞ──。

いつか、父が、そう、語りかけてくれたような気もする。


この博物館の中で、唯一、彼が、どうしても、自分の手で、触れることのできない、遺品だった。

今の、キーボードを叩くだけの、この、汚れた手で、それに触れることは、許されない。

そして、もし、触れてしまえば、忘れていたはずの、温かい何かが、この、完璧に静かな心を、かき乱してしまうかもしれない。


その、漠然とした、しかし、確かな「恐れ」が、彼に、ガラス一枚分の、距離を、保たせていた。


彼は、ガラスに映り込んだ、感情の抜け落ちた、自分の顔から、目を逸らすように、その場を、静かに、立ち去った。

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