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『夏の亡骸ーなきがらー』

プロジェクト『代償台帳』第四話。


人生には、たった一度きりの舞台がある。

それは、誰にも奪うことのできない、かけがえのない瞬間だ。

たとえその結果が望んだものでなくとも、そこに立ったという事実だけは、永遠に消えることがない。


この物語は、そんな一瞬の輝きと、その代償として手に入れたものについて語る、一人の男の静かな証明譚である。


野球を愛し、野球に愛されなかった者たちへ。

第一章


その日の朝、私は、けたたましいほどの蝉時雨で、目を覚ました。

夏が、その命を燃やし尽くさんとばかりに、鳴いている。

ふと、思う。彼らは、この一瞬のために、一体どれだけ長く、暗い場所にいたのだろう、と。

そんなことを考えていたからかもしれない。

その日、集荷先で見かけた、あの男の笑顔が、やけに、心に引っかかったのは──。


彼、今井翔さんと、最後に野球をしたのは、いつのことだったか。

会社の野球チームが、まだ、あった頃だ。市の外れにある、野球専用グラウンドで、ただの練習試合を組んだ、日曜日のこと。

指折り数えてみれば、もう、30年以上も前の、遠い夏の日の記憶だった。


普段、こういった集まりに、今井さんが顔を出すことは、まずなかった。

元プロ野球選手だということは、会社の誰もが知っていたが、彼自身が、その過去を語ることは、決してなかったからだ。

その日も、どうせ断られるだろうと思いながら、ダメ元で声をかけた。


「人数が足りなくて。今井さん、来てくれませんか」と。

すると、彼は、少しだけ驚いたような顔をしてから、「いいですよ」と、静かに頷いたのだ。

試合が始まっても、彼は、ライトの守備位置で、黙々と打球を追っているだけだった。

打席に立っても、軽く流すだけ。周りも、最初は「おぉ、元プロ!」などと騒いでいたが、そのあまりに淡々とした姿に、次第に、特別な目で見ることをやめていた。

空気が、一変したのは、試合の後半だった。

こちらのピッチャーが、疲れから、立て続けにフォアボールを出し、試合がダレてきた時だ。誰かが、言った。


「今井さん、ちょっと投げてみてくださいよ!」

冗談半分の、野次のような声だった。

彼は、少し困ったような顔をして、マウンドへと歩いていった。

その瞬間、私は、息を呑んだ。

マウンドに立った彼の身体は、普段、作業着を着ている時とは、まるで違って見えた。

とにかく、体が大きい。

そして、どっしりと安定した下半身は、まるで、地面に根を張っているかのようだった。

彼が、軽く肩を回し、キャッチャーに向かって、一球、投げた。

ただの、山なりのボールだった。

しかし、キャッチャーミットに収まった瞬間、グラウンドに響いた音は、それまでのピッチャーの誰とも、明らかに違っていた。

「ズドン」という、重く、そして、乾いた音。

それまで騒がしかったベンチが、水を打ったように、静まり返った。

ボールの回転が、全く違うのだ。

素人が投げる、死んだようなボールではない。

生き物のように、ホップして、ミットに吸い込まれていく。

恵まれた体格だけを武器に、プロを目指していた私が、中学のグラウンドで、己のセンスの無さに絶望してバットを置いてから、30年以上。

一目で、わかった。これは、「本物」のボールだ、と。

そして、ランナーを一人出した場面で、「事件」は起きた。

今井さんは、セットポジションに入ると、ごく自然な動きで、ふっと、一塁に腕を振った。

牽制球。

しかし、そのモーションは、あまりにも、滑らかで、自然すぎた。

一塁ランナーは、完全に油断していた。何が起きたか分からない、という顔で、呆然と、塁の途中で立ち尽くしている。ボールは、とっくに、ファーストミットの中にあった。

アウト。

グラウンドに、どよめきが起こった。

だが、彼は、マウンドの上で、少し照れくさそうに笑うだけだった。

あの瞬間からだ。

私の中で、大きな問いが、生まれたのは。

これほどの男が、なぜ。

私が持ち得なかった全てを持っていたはずの男が、なぜ、プロの世界で、その名を残すことなく、今、私たちと同じ、この場所にいるのだろうか、と。


その問いは、いつしか、日々の忙しさの中に埋もれ、忘れていた。

彼が会社を辞め、私もまた、別の部署へと移り、顔を合わせることも、なくなっていた。

30年という時間は、あの日のグラウンドの土の匂いも、ミットに響いた重い音も、記憶の奥底へと、押し流してしまっていたのだ。

そう、今日、この場所で、彼の笑顔を見るまでは──。


その問いが胸に浮かんだ瞬間、私の意識は、遠い過去へと引き寄せられていった。

今井翔という男が、たった一度だけ、その全てを懸けてマウンドに立った、あの8月の日へ──。



第二章


その頃の彼の世界は、驚くほどに、狭かった。

阪神国道駅から歩いて数分、古びた選手寮「集勇館」の、4畳半の自室。

そして、寮のすぐ南側にある、西宮第2球場の、黒土と、色褪せた芝生の匂い。

その往復が、彼の7年間の、ほとんど全てだった。

夏の「集勇館」は、地獄だった。

壁に染みついた汗とカビの匂いが、むわりと鼻をつく。

窓を開けても、グラウンドの熱風が入ってくるだけで、部屋の空気はよどんだまま。

ぎし、と音を立てるパイプベッドに横たわると、すぐ隣の1軍本拠地、西宮球場から聞こえてくる大歓声が、彼の耳を嫌でも打った。

すぐそこにあるのに、世界で一番遠い場所。その歓声を聞くたびに、彼は、テレビの音量を少しだけ上げた。

冬は冬で、隙間風が容赦なく吹き込んだ。

ストーブをつけても、部屋はなかなか暖まらない。

冷え切った身体で、一人、黙々とシャドウピッチングをする夜もあった。


「便利屋」というのが、2軍での彼の立ち位置だった。

先発が初回でKOされれば、無死満塁の場面からでもマウンドに上がる。

中継ぎが足りなければ、昨日投げたばかりの肩に鞭打って、ブルペンへ走る。

時には、20点差以上も開いた、誰もが早く帰りたがっているような試合の、最後のマウンドを任されることもあった。


腐らなかった、と言えば嘘になる。

特に、あの男の存在は、彼の心を静かに、しかし、確実に蝕んでいった。

星野伸之。

自分より9つも年下の、高卒3年目のサウスポー。

ドラフト5位で入団してきた、ひょろりとした、まだ少年の面影を残すその後輩は、今井が7年間かけても掴めなかったものを、いとも簡単に手に入れていた。

「集勇館」の食堂で、今井が一人、黙々と白飯をかき込んでいる横で、星野は、先輩たちに囲まれ、その独特のスローカーブの投げ方を、屈託なく話している。その輪の中心にいる彼は、眩しいほどに輝いて見えた。

風呂場で鉢合わせになれば、星野は「今井さん、お疲れ様です!」と、人懐っこい笑顔を向けてくる。悪気など、ひとかけらもない。だからこそ、余計に、惨めだった。

自分にはない「華」と、首脳陣からの「期待」。

その全てを持つ後輩が、あっという間にこの「集勇館」を"卒業"し、1軍のローテーションに定着していく。

その姿を、彼は、ただ、見ていることしかできなかった。


「腐るなよ、今井。お前のまっすぐは、まだ死んでねぇ」

時折、ブルペンで球を受けてくれる、ベテランのキャッチャーだけが、そんなことを言ってくれた。

その一言があるから、かろうじて、心は折れなかった。


セミが、なぜ鳴くのかを知らないのと同じように、彼もまた、なぜ投げ続けるのか、その理由を深く考えたことはなかった。

ただ、マウンドに立つことだけが、星野のような天才にはなれなかった自分が、それでも「プロ野球選手」として、ここに存在しているという、唯一の証明だったからだ。

そして、その8月。

8月の終わりの、蒸し暑い一日だった。

練習を終え、汗まみれのユニフォームのまま、監督室に呼び出された彼は、その言葉を、どこか遠い世界のことのように聞いていた。


「今井。明日から、1軍に行ってもらう」



第三章


品川で降り、京浜東北線を乗り継いで、川崎へ。

駅から15分ほど歩くと、独特の雰囲気を纏った球場が、姿を現した。

阪急西宮球場のような、威風堂々とした甲子園の隣人としての風格はない。

近隣には川崎競輪場があり、雑多な下町の空気の中に、そのコンクリートの塊は、まるで忘れられたように、ぽつんと建っていた。


クラブハウスで、渡されたばかりの真新しいユニフォームに袖を通す。

背番号は「68」。

2軍でつけていた3桁の番号ではない、支配下選手としての証。

しかし、その数字は、彼が1軍の「主力」ではないことを、無言で物語っていた。


恐る恐る、ダグアウトへと足を踏み入れる。

その瞬間、彼は、2軍のそれとは全く違う種類の空気に、息を呑んだ。

ベンチの隅では、世界の盗塁王・福本豊が、若手の弓岡あたりを相手に、身振り手振りを交えながら、スタートの極意を説いている。

その会話は、今井には、まるで異国の言葉のように聞こえた。

ダグアウトの奥では、主砲のブーマーが、山のような巨体でサンドイッチを頬張りながら、隣の石嶺和彦と陽気に談笑している。

その輪に、加わることなど、到底できそうにない。

ブルペンに目をやれば、大エース・山田久志が、まるで仁王像のように、静かにグラウンドを見つめている。

その背中からは、近寄りがたいほどのオーラが放たれていた。

神々の遊び場に、迷い込んでしまったかのようだった。


ここに、私の居場所はない。

「集勇館」で過ごした7年間という時間は、この場所では、何の意味も持たない。

圧倒的な才能と実績の前では、自分の努力など、砂の城のように脆く、滑稽でさえある。

強烈な「疎外感」と、それでも「この場所にいたい」と願う、焦がれるような「高揚感」。

その2つの相反する感情が、彼の胸の中で、激しく渦巻いていた。


「今井、いつでもいけるようにしとけよ」

投手コーチの、何気ない一言。

その言葉で、彼の心臓は、大きく一度、跳ね上がった。

試合は、序盤から荒れた展開になった。

先発投手が、ロッテの強力打線に早々と捕まり、失点を重ねる。

ベンチの空気は、みるみるうちに重くなっていく。

そして、3回の裏。ついに、その声がかかった。


「今井、行け」

ブルペンで肩を作りながら、彼は、遠いマウンドを見つめた。

そして、スタンドに目をやって、再び、眩暈を覚えた。

観客が、いない。

いや、いるにはいるのだが、その数は、あまりにも、まばらだった。

思いの強さを嘲笑うかのような、平日のダブルヘッダーのデーゲーム。

3塁側の内野席では、数人のファンが、まるでピクニックのように弁当を広げている。

外野席に至っては、人影を探す方が難しいほどだ。

そんな閑散としたスタンドから、数少ないファンの、しかし、やけにクリアに聞こえるヤジが飛んでくる。


「おい、阪急!ピッチャー代わったぞ!誰だ、あいつは!」

7年間、夢にまで見た1軍のマウンド。

その現実が、この「閑古鳥が鳴く、寂しい風景」だというのか。

強烈な皮肉が、彼の胸を突いた。


「ピッチャー、今井」

場内アナウンスが、彼の名前を告げる。

しかし、その声は、まばらな観客のざわめきの中に、虚しく吸い込まれていった。

ロージンバッグを手に取り、プレートを踏む。

スコアボードを見上げると、身の毛もよだつような名前の羅列が、目に飛び込んできた。


「1番・西村」「2番・横田」「3番・リー」「4番・落合」──。

逃げ場はない。

この、世界の果てのような、寂しい舞台で。

私は、これから、あの化け物たちと、戦うのか。



第四章


だが、プレートを踏んだ瞬間、不思議と、全ての雑音が消えた。

目の前には、キャッチャーのサインだけがある。

そして、最初の打者、1番の西村が、俊足を生かした独特の構えで、バッターボックスに入った。

初球。

緊張からか、腕が縮こまった。

投じたストレートは、大きく高めに外れる。ボール。

スタンドから、待ってましたとばかりにヤジが飛ぶ。


「おい、ピッチャー!どこ投げてんだ!」

西村の足を警戒するあまり、クイックモーションも、どこかぎこちない。

結局、一度もストライクが入らないまま、彼は、最初の打者を、ストレートのフォアボールで歩かせてしまった。

無死1塁。

マウンドに、内野陣が集まる。キャッチャーが、今井の背中をポンと叩いた。


「今井、力みすぎだ。気楽にいけよ」

その一言で、少しだけ、肩の力が抜けた。

続くバッターは、2番の横田。

今井は、セットポジションに入ると、一度、深く息を吐いた。

そして、投じた3球目。内角を厳しく突いたシュートが、横田のバットの根元に詰まる。


「カッ」という、鈍い音。

打球は、力なく、セカンドの前へと転がった。

併殺は取れなかったが、なんとか、1つのアウトを取ることができた。1死2塁。

ほっと、胸をなでおろす。

そうだ、やれる。私は、まだ、終わっていない。

7年間の努力は、無駄じゃなかった。

そう、思いかけた、その時だった。


バッターボックスに、あの男が、悠然と入ってきた。

背番号「3」。レロン・リー。

先ほどの横田とは、明らかに違う。

熊のような巨体から放たれる威圧感が、閑散とした川崎球場の空気を、一瞬で支配した。

今井は、大きく息を吸った。


「集勇館」の、汗とカビの匂い。

西宮第2球場の、黒土の感触。

ブルペンで受け止めてくれた、ベテラン捕手の、しわがれた声。

そして、自分を追い抜いていった、星野の、あの屈託のない笑顔。

7年間の全てが、走馬灯のように、脳裏を駆け巡る。

その全てを、この右腕に、この一球に、込める。

それ以外に、彼にできることはなかった。

キャッチャーのサインに、頷く。


インコース高め、ストレート。小細工はない。今の自分にできる、最高のボール。

振りかぶった右腕が、しなる。

指先から放たれた白球は、彼の野球人生そのもののように、ホームベースへと、突き進んでいった。

行け、と、心の中で叫んだ。


その瞬間。

乾いた、硬質な音が、球場に響き渡った。

今井が投じた渾身のストレートは、レロン・リーのバットの芯で、完璧に捉えられていた。

しまった、と思った時には、もう遅い。

打球は、まるで、吸い込まれるように、8月の青空へと舞い上がっていく。

今井は、マウンドの上で、動けなかった。

ただ、呆然と、その白い点の行方を目で追うことしかできない。

それは、スローモーションのように、どこまでも、どこまでも、伸びていく。

やがて、川崎球場のライトスタンド中段に突き刺さるのが、見えた。

その瞬間、閑散としていたスタンドから、今日一番の、しかし、それでもどこか気の抜けたような歓声が上がった。


ダイヤモンドをゆっくりと1周する、背番号「3」。

その姿が、やけに大きく見えた。

呆然とする今井の視線の先で、ネクストバッターズサークルにいた、背番号「6」、落合博満が、静かにバットを構え直すのが、一瞬、映った。

まるで、「この世界では、これが日常だ」と、告げられているかのようだった。

あれが、1軍の世界。あれが、本物の4番打者。

7年間、自分が焦がれてきた場所の、絶対的な答えが、そこにあった。


ベンチから、上田監督が出てくるのが見えた。

ああ、終わりか。

私の、たった一度の8月は。

不思議と、悔しさはなかった。

悲しさも、なかった。

ただ、全身の力が、すーっと抜けていくような、奇妙な安堵感があった。

まるで、力の限り鳴き尽くしたセミが、ふと、静かになる瞬間のように。

マウンドを降り、ベンチへと歩きながら、彼は、自分が投げたマウンドを、一度だけ、振り返った。

たった、数分間。

しかし、確かに、私は、あそこに立っていた。

そして、最強の打者と、勝負をしたのだ、と。



エピローグ


──蝉の声が、やけに大きく聞こえた。

私は、いつの間にか、集荷用のトラックのドアに寄りかかったまま、立ち尽くしていた。

ほんの数分間の回想だったはずなのに、まるで、30年という時間を、もう一度、旅してきたような、不思議な感覚だった。

もう一度、休憩所に目を向ける。

今井さんは、まだ、仲間たちと笑い合っていた。

くしゃくしゃになった目尻。日焼けした顔にのぞく、白い歯。

それは、先ほどと何も変わらない、どこにでもある、平凡な光景のはずだった。

だが、今の私には、その笑顔が、全く違って見えていた。

あの川崎球場のマウンドは、彼の人生の、たった一度のハイライトであり、そして、絶望の淵だった。

レロン・リーに投じた渾身の一球は、彼の7年間の夢を、未来を、容赦なく打ち砕いた。

彼は、野球の神様に、決して愛されはしなかったのだ。


しかし。

しかし、本当に、そうだろうか。

彼は、逃げなかった。

7年間、集勇館の片隅で腐らずに腕を振り続け、たった一度のチャンスを掴み、そして、最高の舞台で、最強の打者と、真っ向から勝負をした。

その結果が、ホームランだった。

ただ、それだけのことだ。


彼は、あのマウンドで、プロ野球選手としての未来を、全て失った。

だが、同時に、得たものもあったはずだ。

誰にも侵されない、たった1つの「事実」。

「私は、あの場所に立ったのだ」という、永遠に消えない記憶。

草野球で見せた、あの牽制球。

あれは、失われた過去の残像などではない。

あの1イニングを、あの最強打線を相手に戦い抜いた男の身体に、確かに刻み込まれた、魂の証だったのだ。

彼は、あのマウンドに、野球人生の全てを置いてきた。

その代償として、彼は、その後の長い人生を、手に入れた。


元プロ野球選手という肩書を、誇るでもなく、卑下するでもなく、ただ、静かに胸の奥にしまいこんで。

新しい職場で、新しい仲間を見つけ、そして、今、心から笑っている。

彼の笑顔は、敗北者の諦観ではなかった。

それは、全てを懸けて戦い、その代償を払い切り、そして、今この瞬間を生きている人間の、静かで、しかし、何よりも力強い、「証明」そのものだった。


私は、もう、彼に声をかける気にはなれなかった。

プロになれなかった私。プロになったが、夢破れた彼。

私たちは、一度も、野球の話をしたことはない。だが、それでいいのだ。

彼のあの穏やかな笑顔が、センスがないとバットを置いた、あの日の私の人生をも、肯定してくれたような気がしたから。

私が愛し、そして、諦めた野球への、何よりの答えが、そこにあった。


やがて、休憩を終えた今井さんが、仲間と共に、仕事場へと戻っていく。

その背中は、決して大きくはない。むしろ、少し丸まった、ごく普通の中年の男の背中だ。

だが、私の目には、あの8月のマウンドに立っていた若き日の彼の背中よりも、ずっと、ずっと、誇り高く映っていた。


遠くで、また、蝉が鳴いている。

その日の朝に聞いたのと同じ、けたたましいほどの声で。

自らの命の終わりを告げるように、しかし、その8月に生きた証を刻みつけるように、力の限り、鳴いていた。

これはフィクションである。

登場人物は全て架空の人物であり、実在の人物・団体とは一切関係がない。

しかし、プロ野球の世界には、名前を記録に刻むことなく去っていった無数の選手たちがいる。

彼らの中には、たった一度きりのマウンドに全てを懸けた者もいたことだろう。

この物語は、そんな名もなき球児たちへの想いから生まれた。

プロ野球の記録に名前を刻むことなく去っていった無数の選手たちへの、心からの敬意を込めて。

そして、夢を追い、夢に破れ、それでも今日という日を生きている全ての人たちへ。

プロジェクト『代償台帳』について

人は皆、何かの代償を払って生きている。

失ったもの、諦めたもの、手に入らなかったもの。

しかし、その代償の果てに、時として、お金では買えない宝物を手にすることがある。

このプロジェクトは、そんな「代償」と「宝物」の物語を綴るシリーズである。


人生は、美しい等価交換の物語なのかもしれない。

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