『最後の肖像』最終話
施設の自動ドアを抜けると、じっとりと汗ばんだ首筋に、空調の、冷たい風が、まとわりついた。
受付カウンターにいた、若い女性職員は、息を切らし、汗だくのジャケット姿で立っている朔郎を見て、少し、驚いたような顔をした。
「……ご面会ですか?もうすぐ、終了時間ですが……」
「相羽 千代乃の、息子です。すぐに、済みますから」
朔郎が、ほとんど、懇願するように言うと、職員は、何かを察したように、「では、こちらへ」と、彼を、奥の共有スペースへと、案内してくれた。
ガラス張りの、明るい共有スペース。
その、窓際の一番、日当たりの良い場所で、数人の入所者が、車椅子に座ったまま、ぼんやりと、テレビを眺めていた。
その中に、彼女はいた。
白髪が増え、背中は、小さく丸まっている。
しかし、その横顔は、間違いなく、朔郎の母親、千代乃だった。
朔郎の心臓が、大きく、脈打った。
足が、鉛のように、重い。
一歩、また一歩と、彼は、母親の元へと、近づいていく。
「……母さん」
声を、かけた。
千代乃は、ゆっくりと、その声の方を、振り向いた。
その、穏やかで、何も映していないかのような瞳が、まっすぐに、朔郎を捉える。
朔郎は、震える手で、ポケットから、一枚の、折り畳まれた紙を取り出した。
それは、先ほど、編集者の小林から、ファックスで送られてきた、受賞を知らせる、プレスリリースだった。
「母さん、見てくれ。俺、やったんだ。賞を、取ったんだよ」
彼は、ほとんど、泣きながら、その紙を、彼女の目の前に、広げてみせた。
紙の上には、『新世界文学賞 受賞作 『最後の肖像』 著者 相羽 朔郎』という、大きな活字が、誇らしげに、印刷されている。
「あんたが、ずっと、信じてくれてた通り、俺、ちゃんと、作家先生に、なれたんだよ。すごいだろ?これで、もう、苦労しなくていいんだ。俺が、楽させてやるから。だから……」
だから、すごいって、言ってくれ。
あの時のように、頭を撫でて、喜んでくれ。
その、悲痛なまでの祈りを込めて、朔郎は、母親の顔を、見つめた。
千代乃は、目の前の紙と、必死の形相の男を、不思議そうに、何度か、見比べた。
そして、次の瞬間。
彼女は、にっこりと、花が咲くような、本当に、穏やかな笑顔を、浮かべた。
その、あまりにも、純粋な笑顔に、朔郎の心に、一筋の、希望の光が、差し込んだ。
ああ、よかった。
わかってくれたんだ。俺の思いが、届いたんだ。
しかし。
その、一瞬の希望を、永遠の奈落へと突き落とすように、彼女は、その、優しい笑顔のまま、こう、続けたのだ。
「まあ、ご丁寧に。……どちら様でしたか?」
……。
時が、止まった。
世界の、全ての音が、消えた。
朔郎は、その場に、立ち尽くしたまま、動けなかった。
手にした、受賞を知らせる一枚の紙が、くしゃり、と、音を立てて、握りつぶされる。
彼が、母親の全てを犠牲にして、その人生の、全てを賭けて、ようやく、手に入れた、一枚の紙切れ。
それは、今、この瞬間、世界で、最も、価値のない、ただのゴミ切れに、成り果てた。
彼が、完成させてやりたかった、母親の人生。
彼が、取り戻したかった、母親との絆。
彼が、もう一度、戻りたかった、息子という名の「居場所」。
その全てが、今、目の前で、音もなく、静かに、崩れ落ちていく。
共有スペースの、向こう側から、レクリエーションの時間なのだろうか、職員の、明るい声と、それに合わせる、数人のお年寄りの、間の抜けたような、歌声が、聞こえてきた。
「……いち、にの、さん、はい!」
その、あまりにも、場違いで、無邪気な掛け声が、やけに、はっきりと、耳についた。




