チュートリアル発見
温泉の温かさに体の強張りは解けたが、緒方の思考はぐるぐると回転していた。どうやって研修センターに戻れたのか、まだ分からない。だが、分かったこともある。一歩外に出れば、角うさぎのような弱い魔物でさえ脅威となり、サルに似た魔物には文字通り手も足も出ない。このままでは、研修センターの外には安心して出られない。
「やばいな、これじゃあ完全に閉じ込められたようなもんだ」
広大な敷地の中に、現代設備が揃った安全な場所。だが、それは同時に、一歩外に出れば命の危険があるという現実から逃れるための、巨大な「牢獄」のようにも思えた。
神は「自由に生きてくれればよい」と言った。だが、この状況のどこに自由があるというのか? 外部との接触は絶たれ、情報もなく、危険な生物がうろつく森に囲まれている。これは自由ではなく、高い塀に囲まれた中での、限定された自由だ。牢獄の中での自由と何が違う? 神様、冗談きついぜ。
この世界について何も知らないことが、何よりも怖い。どんな危険があり、どんな場所があり、どんな人々がいるのか。それが分からなければ、まともな探索などできるはずがない。まるで説明書なしで高難易度のゲームをプレイさせられているようだ。
「せめて、この世界のことが分かる、説明書みたいなものが欲しい……」
溜息をつく。だが、絶望していても仕方がない。幸いなことに、研修センターの中には時間だけは有り余るほどある。そして、ありとあらゆる現代設備が揃っている。パソコンももちろんある。
緒方は自宅に戻り、書斎に設置してあった高性能なデスクトップパソコンを立ち上げた。インターネットには繋がらないが、ローカルには大量のデータと、そして売却益で購入した際に「いつかやろう」と思って積んでおいた、大量のゲームソフトがインストールされている。少し気分転換に、何かゲームでもやってみるか。
ゲームライブラリを開き、ずらりと並んだタイトルを眺める。SF、ファンタジー、ストラテジー……その中に、一つだけ見慣れない、しかし今の状況にやけに響くタイトルのゲームがあった。
「異世界暮らし」
こんなゲーム、買った覚えがあっただろうか? いや、大量に衝動買いした中の一つかもしれない。それにしても、今の俺にぴったりのタイトルだな。皮肉な笑みを浮かべながら、緒方はそのゲームをダブルクリックした。
ゲームが起動する。派手なオープニングやムービーはなく、静かにタイトル画面が表示された。そして、そのままチュートリアルが始まった。
『ようこそ、アルカディアへ』
画面に文字が表示される。アルカディア。この世界の名前だろうか。
『ここは、テラノス大陸。その広大な森、アビスウッドの中心に、あなたの新たな拠点があります』
テラノス大陸、アビスウッド。具体的な地名が初めて明かされた。画面には簡素な地図が表示され、アビスウッドの中に、ポツンと一つのアイコンが表示されている。それは、上空から見た研修センターの敷地のように見えた。アイコンには『セイントテラ学園』と表示されている。どうやら、この研修センターの敷地はこの世界ではセイントテラ学園と呼ばれているらしい。旧名:テラノス中央学園研修センター、とも小さく表示されていた。
『あなたの最も近い交流先は、西に位置するアステリア王国です』
アステリア王国。今後目指すべき場所が示された。画面の地図が広がり、アビスウッドの西に、城のアイコンと共にアステリア王国という文字が表示される。
さらにチュートリアルは続く。世界の成り立ち、主要な種族、魔法やスキルの体系、魔物について、社会制度や貨幣について……まるで、この異世界そのものの解説書のような内容が、ゲームのチュートリアルという形で次々と表示されていく。
そして、驚いたことに、机の上に置いてあった彼のウェアラブル端末が、ゲーム画面と同期したかのようにピコ、と音を立てた。端末の画面には、彼の名前と共に、見たことのない項目が表示されている。
『緒方 洪 Lv. 1』
『種族:人間』
『スキル:【センターリターン】Lv. ?、【身体能力強化】Lv. ?、【魔力感知】Lv. ?』
『ステータス:力(?), 素早さ(?), 魔力(?), 器用(?), 知力(S), 魅力(?)』
これは……まるでゲームのキャラクター画面ではないか。しかも、自分の能力が項目として表示されている。【センターリターン】はおそらく、あの研修センターに戻る能力のことだろう。【身体能力強化】? 角うさぎやサルに苦戦したが、それでも全く歯が立たなかったわけではないのは、このスキルのせいか? 【魔力感知】? 魔力?
ステータスはまだ全てが数値化されていないが、知力の項目だけがSと表示されている。これは、元々の彼の能力が反映されているのかもしれない。
「このゲーム……いや、これはゲームじゃない」
緒方は鳥肌が立つのを感じた。目の前のパソコンで動いているのは、単なるゲームソフトではない。どういう仕組みかは分からないが、これはこの異世界の情報と、そして自分自身の能力とが連動した、インタラクティブな解説書だ。
「説明書が欲しい、と思ったら……これか!」
絶望は、一瞬にして強い希望へと変わった。外に出られなくても、ここには情報がある。この「異世界暮らし」という名のチュートリアルを通じて、彼はこの未知の世界を学び、生き抜くための戦略を立てることができるのだ。緒方は、パソコンの画面を食い入るように見つめ始めた。
目の前のパソコン画面に表示される「異世界暮らし」のチュートリアル。それは、緒方にとって文字通り、暗闇を照らす光明だった。彼は時間を忘れて画面にかじりついた。表示される情報は膨大で、この世界の基礎知識から、アビスウッドに生息する魔物の生態や弱点、ドロップアイテムに至るまで、詳細なデータが羅列されている。まるで、緻密に作り込まれたMMORPGの攻略サイトを読んでいるかのようだ。
チュートリアルが進むにつれて、緒方は自身のウェアラブル端末に表示されるステータス画面と、ゲーム内の情報を照らし合わせ始めた。アビスウッドの最も弱い魔物として記載されているのは、やはり「角うさぎ」だった。そのステータスや攻撃パターン、危険度などが詳しく解説されている。サルに似た魔物は「フォレストエイプ」と表示されていた。こちらも生態や強さが記されている。
それらの情報と、端末に表示される自身のステータスを比較する。現時点での自分の能力では、角うさぎにも苦戦し、フォレストエイプには手も足も出なかった事実が、改めて数値として突きつけられる。【身体能力強化】スキルがあるとはいえ、まだレベルが低いのか、あるいは訓練が足りないのか、素のステータスが致命的に低いのか。
「これじゃ、外に出てもすぐにやられる。足りないものが多すぎるな」
分析の結果、緒方に圧倒的に足りないのは、この世界の危険に対応できる戦闘能力だと分かった。特に、直接的な「力」や「素早さ」といった身体能力、そしてまだ未知数だが「魔力」に関する能力だ。
どうすればこの足りない部分を補えるか? 緒方は考えを巡らせる。
選択肢はいくつかある。
自身の身体能力・魔法能力を鍛える。
強力な武器や防具、魔道具を入手する。
現代の技術や知識を応用した兵器を開発する。
仲間を見つける。
現時点で最も現実的で、すぐに始められるのは、自身の能力を鍛えることだ。特に、角うさぎやフォレストエイプとの戦闘で痛感したのは、基本的な体力の重要性だった。素早い動きに対応し、攻撃に耐えうる頑丈さ。これらは、スキルや魔法以前の問題だ。