研修センターに戻れさえすれば
回復能力という強力な保険を手にした緒方は、早速行動に移すことにした。まずは初日。無理はせず、研修センターの敷地が見える範囲で、南の方向を扇状に広がりながら探索してみる。方角を見失わないよう、時折振り返り、校舎の位置を目に焼き付けながら森の中へ踏み出した。
昨日、数歩で角うさぎに襲われた場所だ。当然、警戒は最大レベルで行う。マチェットを手に、周囲の音に注意を払いながら慎重に進む。木々の間隔は確かに比較的広いが、それでも視界はすぐに遮られる。
歩き始めてすぐに、茂みから角うさぎが飛び出してきた。昨日倒した個体と同じ、額に角を生やしたウサギだ。素早い動きで襲いかかってくる。緒方はマチェットでこれを迎え撃つ。一度経験しているだけあって、昨日のような不意打ちは食らわない。とはいえ、その動きは俊敏で、仕留めるのに苦労する。なんとか一撃で仕留めたが、その間にも、別の場所から複数の角うさぎの気配を感じた。どうやら、このあたりには角うさぎが大量に生息しているらしい。
しばらく進んでは立ち止まり、周囲を観察し、角うさぎを相手にする。研修センターが見える範囲といっても、森の中ではすぐに視界が悪くなる。それでも、時折開けた場所に出たり、方角を確認したりしながら、扇状に探索を進めていった。
探索の途中で、緒方はいくつか興味深い事実に気づいた。まず、倒した角うさぎの死体を、試しに研修センターの敷地内に運び込んでみたところ、問題なく門をくぐることができた。しかし、生きている角うさぎを捕まえようと試み、そのまま敷地内に連れ込もうとすると、見えない結界に弾かれるように、ウサギだけが激しく抵抗し、中に入ることができなかった。
さらに、死体についていた小さなノミのような虫が、門をくぐる瞬間にパラパラと死体から剥がれ落ちるように弾かれるのを目撃した。生きている小さな生物は、意図せずとも結界で拒否されるらしい。
一方で、森の中で見つけた珍しい形をした植物の葉や、落ちていた木の実などを持ち込んでみたところ、これらは全く抵抗なく敷地内に持ち込むことができた。
「なるほど、生きているか死んでいるか、あるいは生物かどうかで基準が違うのか? でも、虫は生きているのに弾かれたし、植物は生きているのに持ち込める。この結界の基準、どうなってるんだ?」
結界の性質について、まだ明確な法則は見出せないが、少なくとも魔物の死体や植物資源は持ち込めるらしい、という収穫は大きかった。
初日の扇状の探索は、角うさぎとの戦闘の連続で思ったほど広範囲は回れなかったが、結界の性質や周囲の危険度を知る上で有意義だった。研修センターが見える範囲での探索は、安全ではあるが効率が悪い。
「明日は、もう少し踏み込んでみるか」
緒方はそう決意した。方角を見失わないよう、コンパス代わりになるものや、目印の付け方を工夫しながら、明日からは南に直線状に探索範囲を広げていこう。回復能力がある限り、多少の危険は冒せる。この広大な異世界の秘密を解き明かすために、一歩ずつ確実に進んでいくのだ。
夜の森から戻り、改めて昼間中心の探索方針を固めた緒方は、ホッと一息ついた。しかし、そのまま寝るわけにはいかない。日中に倒した角うさぎの死体が、まだ校庭の隅に置いてある。貴重な食料になるかもしれない。寝る前に処理しておこう。
緒方は角うさぎの死体を、自宅の裏にある作業スペースへと運んだ。ブッシュクラフトの経験は、こういう時に役に立つ。慣れた手つきで角うさぎを解体していく。まずは内臓を丁寧に取り出し、敷地内に設置しておいたコンポストに廃棄した。異世界にも微生物は存在するのだろうか? 分からないが、現代的なゴミ処理方法を試す価値はある。
次に、鋭利なナイフで慎重に皮を剥いでいく。毛皮は厚く、ある程度の保温性がありそうだ。剥いだ肉は、使える部分だけを選り分け、自宅のキッチンにある大型冷凍庫に放り込んだ。電力はソーラー発電で賄われているため、問題なく稼働している。これで当面の食料は確保できた。
剥いだ毛皮を手に取り、緒方は少し考えた。この世界の毛皮に価値があるのかどうかは分からない。防寒具に使えるかもしれないが、今はそれほど必要性を感じない。かといって、保管しておく場所にも限りがある。結局、これもコンポストに放り込むことにした。「まあ、追々考えよう」と、緒方は割り切った。
処理作業を終え、手についた血や汚れを洗い流す。一日の疲れがどっと押し寄せてきた。こんな時は、あの設備に頼るのが一番だ。緒方は自宅の横に増築した露天風呂へと向かった。かつて研修センターのプールだった場所を改修した、贅沢な温泉だ。
湯船に浸かると、じわりと体の芯から温まる。不思議なことに、異世界に転移しても、この温泉は地球にいた時と同じように機能している。湧き出る湯は豊富で、温度もちょうど良い。今日の角うさぎとの戦闘、夜の探索で張り詰めていた心身が、ゆっくりと弛緩していくのを感じた。
「ふぅ……」
湯気立つ中で、緒方は異世界での最初の本格的な一日を振り返った。危険もあったが、それ以上に大きな収穫があった。回復能力、結界の性質、そして食料の確保。これらをどう活かしていくか。明日の探索に思いを馳せながら、緒方は湯船から上がり、温まった体でベッドへと向かった。深い眠りにつく前に、彼は小さく呟いた。
「まあ、なんとかなるだろ」
朝。日の出とともに、緒方は研修センターの正門をくぐった。今日も天気は快晴だ。転移してきてからずっと天候に恵まれているのは幸運だった。今日は日帰りで、南へ直線的に探索範囲を広げる。目印になるものを利用したり、スマートフォンのGPS(圏外だが、位置情報は記録できるかもしれない)を確認したりしながら、方角を見失わないように慎重に進むつもりだ。
二時間ほど歩いただろうか。森の様相が少し変わってきた。木々の密度が緩やかになり、日差しが地面に届く面積が増える。それに伴い、様々な種類の植物が生えているのが目についた。そして、視界の隅に、鮮やかな色が飛び込んできた。果実だ。
木になっているもの、地面を這う草になっているもの。赤、青、黄色、見たこともない色とりどりの果実が、そこかしこに実っている。食料になるかもしれない。持ち帰って、安全な研修センターで成分を分析してみようか。そんな考えが頭をよぎり、緒方の注意は一時的に散漫になった。周囲への警戒がおろそかになった、ほんの一瞬。
その隙を、彼らは見逃さなかった。
「キィッ!」「ギャッ!」
甲高い奇声と共に、複数の影が木の上や茂みから飛び出してきた。それは、地球の猿に似ているが、体毛は灰色で、鋭い爪と大きな牙を持つ異形の生物だった。彼らは一斉に緒方に襲いかかってくる。
反応はした。マチェットを構える。しかし、数の上で圧倒的に不利だ。一匹が素早い動きで接近し、緒方の右腕を掴んだ。細身に見える腕からは想像もつかない怪力だった。
「うぐぁっ!」
腕がミシミシと軋む音。激痛が走り、手首の骨が折れたことを悟った。マチェットを取り落とす。振りほどこうともがくが、まるで鋼の万力に掴まれたかのように、腕はビクともしない。さらに、別のサルたちが足に飛びつき、地面に引き倒そうとする。
これはまずい。いや、まずいどころじゃない。完全に囲まれた。このままでは……死ぬ。
「くそっ! 研修センターに、研修センターに戻れさえすれば……!」
回復能力があることは知っている。研修センターに戻れば、この骨折も、疲労も、全てがリセットされる。だが、どうやって戻る? 神は「いつでもどこからでも研修センターに戻れる」と言っていたが、その方法を何も教えてくれなかった! 念じる? 特定の動作? 何かトリガーがあるのか?
腕は掴まれたままだ。他のサルたちが迫ってくる。恐怖と絶望が緒方の思考を鈍らせる。
「戻りたい! 研修センターに戻りたいよ!」
助けてくれ、神様! こんな能力があるなら、使い方を教えておいてくれよ! 血を流し、痛みに喘ぎながら、緒方はただただ研修センターへの帰還を切望した。安全な場所へ、暖かい温泉へ!
「温泉で、癒やされたい……っ!」
その、切実な願いが頂点に達した、その時だった。
ぐにゃり、と視界が歪んだような感覚。次の瞬間、全身を包む温かい水の感触に気がついた。
「……は?」
水面下から顔を出す。そこにあったのは、見慣れた露天風呂の湯気だった。湯船に浸かっている。ついさっきまで、獰猛なサルたちに囲まれ、骨折の激痛に悶えていたはずなのに。
周囲を見渡す。間違いなく、研修センターの敷地内にある温泉だ。サルたちの姿はどこにもない。体の痛みも消えている。骨折していたはずの腕も、まるで最初から何事もなかったかのように動く。
「……助かったのか?」
呆然としながらも、緒方は自分が無事に研修センターに戻ってきたことを理解した。そして、あの絶体絶命の状況から脱出できたのは、あの「いつでもどこからでも研修センターに戻れる」という能力が発動したからに違いない。
どうやって発動した? 念じたからか? それとも、強く願ったから? 温泉に入りたいと思ったから? まだ基準は不明だが、とにかく自分は、あの危機から脱出できたのだ。湯船の中で、緒方は改めて生還を噛み締めた。