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プロローグ

緒方洪、二十八歳、独身。趣味はブッシュクラフト。彼は若くしてIT会社を創業し、たった七年でそれを上場させた後、二十七歳で売却した。手にした有り余る資金を元に、緒方は新たな計画を立てていた。それは、地元に戻り、私塾を開くことだ。特に、これからの時代に必須となるAI人材の育成に力を入れたいと考えていた。


地元に戻った緒方は、かつて母校でもあった廃校の中研修センターを購入した。広大な敷地は塀に囲まれており、私塾として使うには申し分ない環境だった。彼はこの場所に、自身の理想を詰め込むことにした。


まず、電力はソーラー発電で全てを賄い、水は地下水を汲み上げるシステムを構築。万が一の事態に備え、シェルター機能と大量の食糧備蓄も用意した。学習環境も徹底的に整えた。教材用のタブレットを多数導入し、かつての図書室は蔵書を大幅に増やして充実させた。プールは温かい露天風呂へと姿を変え、最新の大型コンピューターも設置した。

宿泊用の施設も充実させたもはや学校というより研修センターだ

校庭の一角には、自身の自宅となる瀟洒な戸建てを建築した。


数ヶ月をかけ、環境は完全に整った。いよいよ、AI人材育成のための私塾「緒方塾」の塾生募集に着手しようとした、まさにその時だった。


緒方は、自宅のリビングで募集要項の最終確認をしていた。窓の外に目をやった瞬間、突然、強烈な光が敷地全体を包み込んだ。視界は真っ白になり、同時に全身に浮遊感のような感覚が走った。


どれほどの時間が経ったのか。光が収まり、緒方が目を開けると、見慣れたリビングの天井があった。しかし、窓の外の景色は全く違っていた。鬱蒼とした木々が生い茂り、遠くには険しい山並みが見える。鳥の声も、車の音も一切しない。異常な静寂が支配していた。


慌てて外に出てみると、そこは紛れもない研修センターの敷地だった。見慣れた校舎、自宅、塀。しかし、塀の外に広がるのは、見渡す限りの深い森だった。そして、研修センターの敷地全体は、森の真ん中にぽっかりと開けた、広大な草原の上に存在していた。


呆然とする緒方の頭に、直接響くような声が聞こえた。


『ようこそ、異世界へ。私はこの世界の神だ』


声は静かで、威圧感はなかった。


『あなたには、この世界の教育レベル向上に貢献してほしいと思っている。だが、それは強制ではない。あなたには自由に生きてくれればよい。この世界は、あなたの人生を謳歌する場所だ』


神の声はそれきり途絶えた。緒方は、自分が研修センターごと未知の世界に転移してしまったことを理解した。そして、その世界で「自由に生きる」ことを許された、ということも。


神の声が途絶え、自分が研修センターごと異世界に転移したことを理解した緒方は、まず現状把握に努めることにした。混乱はあったが、持ち前の冷静さがすぐに頭をもたげた。


「まずは生活の基本だ」


彼は自宅を出て、母屋となる研修センター校舎へと向かった。廊下を歩き、手近な教室の電気スイッチを押してみる。カチリ、と心地よい音を立てて蛍光灯が灯った。電気は生きている。続いて、蛇口を捻ってみる。勢いよく水が流れ出した。水も問題ない。ソーラー発電システムと地下水汲み上げシステムが異世界でも機能していることを確認し、緒方は安堵の息をついた。


次に、研修センターの外の状況を確認しようと、窓に近づいた。その時、一羽の鳥が校舎に向かって飛んできたが、目に見えない壁にぶつかったかのように弾かれ、慌てた様子で飛び去っていった。続いて、小さな獣が塀に近づこうとしたが、やはり同様に跳ね返される。どうやら、研修センター全体がドーム型の結界のようなものに守られているらしい。あの広大な森の中に、ぽつんと存在するこの場所が、無防備ではないことに緒方は少しだけ心強く感じた。


周囲の様子をさらに詳しく見るため、緒方は校舎の屋上へと繋がる階段を昇った。屋上に出ると、眼下に広がる光景に息を呑んだ。塀の内側は確かに見慣れた研修センターの敷地だが、その外はどこまでも続く、緑一色の広大な森だった。地平線の彼方まで木々が続いており、人間の営みの痕跡は全く見当たらない。転移した場所が「魔の森」と呼ばれる場所であるという神の言葉が、現実として突きつけられた。


この結界がある限り、当面は安全だろう。しかし、いつまでもここに閉じこもっているわけにはいかない。いずれは外の世界に出て行くことになるはずだ。そのためにも、まずはこの場所での生活を安定させ、情報収集の準備をする必要がある。


緒方は、これから始まる異世界での生活に備え、まずは一日の流れや天候の変化など、身の回りの環境を記録していくことを心に決めた。そして、まずは敷地の外がどうなっているのか、少しだけ自分の目で確かめてみることにした。


自宅に戻り、入念な準備に取り掛かった。趣味であるブッシュクラフトで培った知識と、有り余る資金で購入しておいた装備が役に立つ時だ。バックパックには、ファーストエイドキット、水筒、非常食、火起こし道具など、基本的なサバイバルキットを詰め込んだ。身につけるものは、防御力を重視する。上半身には防刃ベストを装着し、下半身は厚手の防塵タイツで補強した。手には、扱い慣れた大型のマチェットを握る。万全とは言えないまでも、考えうる限りの準備をして、緒方は研修センターの正門へと向かった。


重厚な門扉を内側から開け、一歩外へ踏み出す。門扉を閉め、周囲を警戒しながら数歩、森の中へと足を進めた。空気が変わる。結界の内側とは違う、湿気を帯びた土と草木の匂いが鼻をくすぐる。視界はすぐに鬱蒼とした木々に遮られ、薄暗い。地面は柔らかく、落ち葉や小枝を踏む音がやけに響く。


その時、茂みから何かが飛び出してきた。それは、耳は長いが、額に鋭い角を生やしたウサギのような生物だった。角うさぎ。事前に危険な生物がいるという漠然とした情報はあったが、まさかこんな姿の、しかもこれほど小さく見える生物が、いきなり攻撃してくるとは。


角うさぎは警戒する様子もなく、いきなり緒方目掛けて突進してきた。その速さは尋常ではない。小さな体躯からは想像もつかない鋭い動きだった。緒方は咄嗟に腕を交差させ、ブッシュクラフトで身につけた野生の勘と反射で体勢を低くする。角うさぎの鋭い角が、防刃ベストを着込んだ緒方の胸に突き刺さった。


グッと衝撃があり、ベストが角の貫通を防いだ。しかし、その衝撃と圧力は軽減されつつも体に伝わり、肋骨が軋むような鈍い痛みが走った。息が詰まる。


「ぐっ……!」


痛みで体が硬直しかけるが、ブッシュクラフトで何度か危険な目に遭い、咄嗟の判断力を鍛えていた緒方は、ここで動かなければ終わりだと本能的に悟った。角うさぎが角を引き抜く一瞬の隙を突き、手に持ったマチェットを振り下ろす。狙いは定まらないかもしれない。だが、とにかく動く。


重みのあるマチェットは、緒方の腕力に乗って振り下ろされた。それは、趣味で木を伐採したり枝を払ったりするうちに、いつの間にか鍛え上げられていた腕力だった。マチェットは正確に角うさぎの首筋を捉えた。


一閃。角うさぎは甲高い鳴き声を上げる間もなく、その場に倒れ伏した。ピクリとも動かない。


初めての異世界での戦闘は、あっけなくも激しいものだった。胸に残る鈍い痛み。体の震え。全身から嫌な汗が噴き出す。倒れた角うさぎを見下ろしながら、緒方は理解した。外の世界は、安全な結界の中とは全く違う。気を抜けば、あっという間に命を落とすことになる。


痛みと疲労を感じながら、緒方は一度研修センターに戻ることを決めた。この場所で情報収集を続けるのは無謀だ。まずは体制を立て直すべきだ。


警戒を怠らず、来た道を数歩戻る。門扉が見えてきた。開け放したままの門をくぐり、敷地内に足を踏み入れた、その瞬間だった。


ズキン、と痛んでいた胸の痛みが、文字通り一瞬で消え失せた。まるで、痛みが存在しなかったかのように。


「え……?」


思わず立ち止まり、胸を触ってみる。痛みは全くない。不思議に思いながら自宅に戻り、防刃ベストを脱いだ。攻撃を受けた箇所を確認する。防刃ベストには確かに角が当たった痕があるのに、その下のシャツは破れておらず、皮膚にも痣一つできていない。


これはどういうことだ? 疲労からくる錯覚か? しかし、体の痛みも消えている。全身が軽くなったような感覚だ。


緒方のエンジニア魂に火がついた。これは偶然ではないかもしれない。検証する価値がある。


早速、能力のテストを始めることにした。まず、安全なリビングで、指先に爪で軽く傷をつけてみる。ピリリとした痛みが走り、皮膚が白く傷つく。これは当然、治らない。


次に、その傷がついたまま、再び正門を開けて外に出た。傷はそのままだった。やはり、外では回復しない。


そして、傷ついた指を確認しながら、門扉をくぐって研修センターの敷地内に戻った。敷地に入った、その瞬間。指先の傷が、まるで巻き戻し映像のようにスーッと消え失せた。痛みも全くない。


「……マジか」


驚きを隠せないまま、緒方は検証を続けた。今度は少し大きな傷を、カッターナイフで腕に浅くつけてみる。血が滲み、痛みが走る。これも外に出て戻る。結果は同じだ。研修センターに戻った途端、傷は綺麗に消え、出血も止まる。


さらに、意図的に少し深い切り傷を作ってみる。通常なら絆創膏や縫合が必要なレベルの傷だ。しかし、研修センターの敷地内に入った途端、まるで何事もなかったかのように皮膚が再生し、傷跡すら残らない。


どうやら、この「研修センターの敷地内」というのが、回復能力の発動条件らしい。敷地内に入った瞬間に、身体的なダメージが全てリセットされる。体力や魔力が回復するだけでなく、怪我や病気まで治るというのは、想像以上のチート能力だった。しかも、備蓄食料も翌日補充されるという漠然とした感覚がある(これはまだ検証していないが)。


これは、この危険な異世界で生き抜く上で、とてつもないアドバンテージになる。外でどんなに傷ついても、研修センターに戻りさえすれば万全の状態に戻れるのだ。緒方は、この能力をどう活用していくか、思考を巡らせ始めた。


腕の傷が跡形もなく消えたのを確認し、緒方は深く息を吐いた。間違いない。この研修センターの敷地内に入ると、身体的なダメージがリセットされる。体力も、怪我も、病気もだ。


「これなら……帰れさえすれば、死ぬことはないな」


この異世界の森がどれほど危険だろうと、もし命の危機に瀕しても、研修センターに戻ることができれば助かる。これはとてつもない保険だ。恐れが完全に消え去ったわけではないが、これで一気に現実的な行動が可能になった。


では、どうやってこの世界を探索していくか。一番重要なのは、研修センターの位置を見失わないことだ。どんなに遠くに行っても、研修センターの方角さえ把握していれば、いざという時に戻ってこられる。方向感覚を頼りに進み、定期的に方角を確認しながら探索すれば、遭難のリスクを減らせるだろう。


緒方は立ち上がり、再び校舎の屋上へと向かった。屋上からの景色は、魔の森の広大さを改めて思い知らせる。この中に、これから足を踏み入れていくのだ。


屋上から周囲を見渡し、方角を確認する。転移してきた際に、研修センターの正門が南に正対していることは確認済みだ。太陽の位置と照らし合わせることで、大まかな方角は把握できる。


四方を見渡すと、森の様子は方角によって微妙に異なっているように見えた。東や西は木々が密生しているように見えるが、南の方向は、比較的木々の間隔が広く、地面もあまり起伏がないように感じられた。角うさぎが出たのは門からすぐだったが、もう少し進めば、少しは歩きやすい場所があるかもしれない。


「よし、まずは南だ」


探索する方向を南に決め、緒方は計画を立てた。いきなり遠出するのは危険すぎる。まずは、研修センターからそう離れない範囲で、日帰りの探索をしてみよう。今日の内にできる限りの情報を集め、明日に備える。異世界での新たな生活が、本格的に始まろうとしていた。


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