笑顔の仮面
## 第一章 完璧な友情
東京の空は、灰色の雲に覆われていた。
「山田、この書類、頼むよ」
何の前触れもなく、デスクに書類が積まれる。健一は画面から目を離さず、わずかに頷いた。それが彼の返事だった。周囲の社員たちは彼の存在にほとんど気づかないまま、日々を過ごしていた。
山田健一、28歳。大学卒業から五年間、同じIT企業でシステムエンジニアとして働いている。彼は言葉少なく、目立たない存在だったが、仕事は正確で、期限までに完璧にこなした。
窓の外から差し込む薄暗い光が、彼のデスクを照らしていた。モニターの青白い光に照らされた顔は無表情だったが、指先は正確にキーボードを叩き続けていた。
「健ちゃん、今日も残業?」
突然声をかけられ、健一は肩をわずかに震わせた。振り向くと、同期の村上大輔が立っていた。
「ああ、この案件、明日までだから」
健一は短く答えた。
「いつもお疲れ様。でも、今日は無理しなくていいんじゃない?」村上は腕時計を見ながら言った。「田中が戻ってくるんだろ?何年ぶりだっけ?」
「三年」
健一の口元にうっすらと笑みが浮かんだ。村上はそれを見逃さなかった。
「田中と会うと、いつも表情が変わるな」村上は椅子に腰掛け、健一の方を向いた。「あいつとはどうやって知り合ったんだっけ?」
健一はキーボードを打つ手を止め、少し視線を上げた。いつもは淡々としているのに、この話題になると少し饒舌になる。
「高校の時だよ。転校した初日、席が隣だった」
健一の目に、懐かしい光が宿った。いじめられっ子だった彼を、誰よりも華やかな存在だった田中雄介が助けてくれた。その日から、彼らは切っても切れない友情で結ばれた。少なくとも、健一はそう信じていた。
「そっか。田中のやつ、外資で出世してるんだってな。相変わらず順風満帆なんだろうな」
健一は微かに頷いた。雄介との思い出が、彼の中でまるで映画のように流れていた。高校時代、大学入試の苦労、大学での四年間、そして卒業。
***
「健一、おまえのおかげで卒業できた。本当にありがとう」
卒業式の日、桜の木の下で雄介は健一に深々と頭を下げた。卒業証書を手にした雄介の笑顔は、春の日差しのように眩しかった。
「そんな大げさに言わなくていいよ」健一は少し照れながら言った。「俺もおまえに助けられたことたくさんあるし」
「いや、本当に感謝してる」雄介は真剣な表情で続けた。「卒論も手伝ってもらって、単位も何とか取れて…おまえがいなかったら、俺、今日この場にいなかったよ」
健一は照れくさそうに笑った。雄介との友情は、彼の人生の宝だった。孤独だった自分に、初めて手を差し伸べてくれた人。才能も容姿も人気も、自分にはないものを全て持っていた雄介が、自分を友達と呼んでくれることが、何よりも嬉しかった。
「これからも、ずっと友達でいような」
健一はそう言って、雄介と固く握手を交わした。
***
「健ちゃん?聞いてる?」
村上の声で、健一は現実に引き戻された。
「ああ、すまない。ちょっと考え事をしてた」
「田中とは夕方から会うんだろ?それなら、今の仕事は俺に任せてくれよ。久しぶりの再会なんだから、早く帰って準備した方がいいだろ」
健一は迷ったが、村上の親切な申し出に素直に甘えることにした。本当は会社を早く出たかったのだ。三年ぶりに雄介と会う前に、少し準備したいこともあった。
「助かる。じゃあ、明日の朝一で確認するよ」
健一は立ち上がり、鞄を手に取った。
「田中にはよろしく伝えてくれ。いつか三人で飲みたいな」
「ああ、伝えておく」
健一は軽く手を振り、オフィスを後にした。エレベーターに乗り込み、下降ボタンを押す。閉まりかけたドアの隙間から、オフィスの明かりが見えた。そこには、いつもの日常があった。
しかし今日は特別な日だ。
三年ぶりに、親友と再会する日。
健一の胸は高鳴っていた。雄介がアメリカに赴任してからの三年間、彼らはSNSで連絡を取り合っていたが、直接会うのは今日が初めてだった。雄介の活躍ぶりはSNSを通して知っていた。外資系企業でのめざましい出世、派手な交友関係、華やかな生活。
エレベーターが地下に到着し、ドアが開く。健一は駐車場に向かいながら、スマートフォンを取り出した。ロック画面には雄介からのメッセージが表示されていた。
「今日は楽しみにしているよ!六時、銀座のバーで待ってる。懐かしい話でもしようぜ」
健一は微笑んだ。雄介の言葉には、いつも彼を元気づける力があった。スマートフォンをポケットに戻し、車に向かいながら、ふと空を見上げた。
いつの間にか、灰色の雲の合間から、かすかに青空が覗いていた。
***
アパートに戻った健一は、久しぶりに服を選ぶことに時間をかけた。
狭い1Kの部屋には、必要最低限の家具しかなかった。質素な暮らしぶりは、彼の性格そのもののようだった。クローゼットから、あまり着ない紺のジャケットを取り出す。雄介と会うときは、いつも少しだけ気合いを入れた。
洗面所の鏡に映る自分の顔を見つめた。やや痩せ型の体、くせのある黒髪、目立たない容姿。雄介との対比を意識してしまう自分に、少し自己嫌悪を感じた。
「変わらないな、俺は」
そう呟いて、健一は鏡から目を離した。部屋の片隅にある棚から、小さな箱を取り出す。中には、大学時代からの思い出の品々が大切に保管されていた。
写真、チケットの半券、卒業式の記念品。そして、雄介からもらった腕時計。卒業祝いだと言って、健一に贈ってくれたものだ。
「おまえのような几帳面な奴には、この時計が似合うよ」
雄介はそう言って、高級な腕時計を彼に渡した。当時の健一には、とても買えない値段のものだった。
健一は時計を手に取り、じっと見つめた。針は止まったままだ。電池が切れてから、わざと交換していなかった。なぜなのか、自分でもよくわからなかった。
時計を箱に戻し、準備を続ける。シャワーを浴び、髪を整え、ジャケットを着る。鏡に映る自分は、少しだけいつもと違って見えた。
スマートフォンが鳴り、画面に「美穂」の名前が表示される。
「もしもし、健一?今日、雄介さんと会うんでしょ?」
優しい声が健一の耳に届く。佐藤美穂、健一の恋人だ。交際を始めてまだ二ヶ月ほどだが、健一は彼女に心を開きつつあった。
「ああ、これから出かけるところ」
「楽しんできてね。あの人とは高校からの友達なんだよね?」
「そうだよ」健一は微笑みながら答えた。「高校から大学まで一緒だった」
「素敵な友情ね」美穂の声には温かみがあった。「また今度、三人で会えたらいいな。健一の大切な友達だもの、私も会ってみたいわ」
「ああ、きっと気が合うよ」
健一は少し間を置いて続けた。
「雄介は、誰とでもすぐに打ち解けるタイプだから」
「それじゃあ、明日また連絡するね。楽しんできて」
「ありがとう」
電話を切った後、健一は少し考え込んだ。美穂と雄介を引き合わせることに、どこか躊躇いを感じていた。理由はわからない。ただ、二人を同じ空間に置くことに、何か違和感があった。
時計を見ると、もう出発の時間だ。健一は深呼吸して、部屋を出た。
***
銀座の夜は、いつも以上に華やいで見えた。
健一は指定されたバーの前に立ち、少し緊張した。高級感のある入口を前に、自分が場違いな存在に思えた。だが、雄介に会える喜びが、そんな不安を押し流した。
「お待ちでしょうか?」
店員が丁寧に声をかけてきた。
「ええ、田中という者と待ち合わせで」
「田中様でしたら、すでにお越しになっております。こちらへどうぞ」
健一は店内に案内された。落ち着いた照明、洗練された内装、グラスの触れ合う繊細な音。すべてが健一の日常とは違う世界だった。
そして奥のテーブルに、彼はいた。
「健一!」
声の主が立ち上がり、健一に向かって手を振った。田中雄介、28歳。健一の親友だ。高級なスーツに身を包み、完璧な笑顔を浮かべている。三年前より少し大人になったが、その魅力的な存在感は変わっていなかった。
「雄介」
健一は笑顔で応え、雄介と固い握手を交わした。
「三年ぶりだな。変わってないな、お前」
雄介は健一の肩を叩き、席に座るよう促した。
「お前こそ、変わってないな」健一は答えた。「いや、もっとカッコよくなったかも」
雄介は嬉しそうに笑った。「アメリカの生活が俺を磨いてくれたんだよ。でも、健一は本当に変わってないな。それがいいんだけどさ」
二人はワインを注文し、旧交を温め始めた。学生時代の思い出、社会人になってからの苦労、仕事での成功と失敗。話題は尽きなかった。
「美穂さんって子と付き合ってるんだって?SNSで見たよ」
雄介が突然言った。健一は少し驚いたが、頷いた。
「ああ、出版社で働いてる子だよ。書店で知り合って」
「写真見たけど、可愛いじゃないか。いつの間にか健一もモテるようになったんだな」雄介はワイングラスを傾けながら、からかうように言った。
「そんなことないよ」健一は少し照れながら答えた。「本当に奇跡的に付き合えただけで」
「謙遜するなよ」雄介は笑った。「健一は昔から誠実で、真面目で、頼りになる奴だったじゃないか。女性が惹かれる要素は十分あるよ」
健一は少し笑みを浮かべた。雄介の言葉には、いつも彼を認めてくれる温かさがあった。
「それより、お前はどうなんだ?アメリカでの恋愛は?」
雄介は少し目を細め、グラスを置いた。
「まあ、それなりにね」彼は肩をすくめた。「でも、長続きしないんだよね。仕事が忙しくて」
「相変わらずだな」健一は少し笑った。「大学の時も、モテるくせに、いつも長続きしなかったよな」
「そうだったっけ?」雄介は少し考える素振りをした。「ああ、でも覚えてるよ。健一がいつも俺の恋愛相談に乗ってくれたこと」
「相談というか、自慢話を聞かされてただけだけどな」
二人は笑い合った。その瞬間、健一は本当に幸せを感じていた。親友との再会、変わらぬ友情、安心感。すべてが完璧だった。
「そういえば」雄介は突然、表情を少し引き締めた。「健一、今の会社でうまくいってる?」
「ああ、まあ」健一は曖昧に答えた。「普通に」
「SNSには、あんまり仕事のこと書いてないからさ」雄介は少し身を乗り出した。「昇進とかは?」
健一は少し視線を落とした。「まだだよ。でも、今年の評価次第で、チャンスはあるかもしれない」
「そうか」雄介の声には少し物足りなさが混じっているようだった。「でも、健一のスキルなら、もっといい会社にも行けるんじゃないか?」
「今の会社で十分だよ」健一は淡々と答えた。「仕事は安定してるし」
雄介は少し首を傾げた。「安定か…健一らしいな」
その言葉に、健一は何か引っかかるものを感じたが、気のせいだと思うことにした。今夜は、ただ親友との再会を楽しむ夜だ。
「また明日も会えるか?」雄介が尋ねた。「今度は美穂さんも誘って、三人で食事でもどうだ?」
健一は少し躊躇った。さっきの美穂との電話を思い出す。彼女は確かに雄介に会いたがっていた。しかし、なぜか健一の中には、二人を引き合わせることへの抵抗感があった。
「どうした?難しいか?」雄介が尋ねた。
「いや」健一は思考を振り払うように答えた。「いいよ、明日、連絡して調整するよ」
「素晴らしい!」雄介は満面の笑顔で言った。「美穂さんには、健一と俺の学生時代の恥ずかしい話をたくさん聞かせてあげるよ」
健一は苦笑いした。「やめてくれよ」
雄介は笑いながら、グラスを持ち上げた。「健一、久しぶりに会えて本当に嬉しいよ。これからもずっと、変わらない友情を」
健一もグラスを持ち上げ、雄介のグラスと軽く合わせた。
「ああ、変わらない友情を」
グラスが触れ合う音が、バーの中に響いた。健一は微笑みながら、雄介の顔をじっと見つめた。三年ぶりに会った親友は、変わっていないようで、どこか変わっていた。
だがその夜、健一はまだ気づいていなかった。
完璧だと思っていた友情の裏側に、見えない亀裂が走り始めていることに。
***
バーを出た後、二人は夜の銀座を歩いた。街はネオンの光に包まれ、まるで非日常の世界のようだった。健一にとって、こんな場所を歩くのは久しぶりだった。
「やっぱり東京はいいな」雄介は深呼吸しながら言った。「アメリカも悪くないけど、故郷はやっぱり落ち着く」
「もう帰国は決まってるの?」
「まだ完全には決まってないけど、可能性は高いな」雄介は歩きながら答えた。「今度の人事異動で、日本支社のマネージャーになるかもしれない」
健一は雄介を見上げた。「すごいじゃないか。まだ28なのに、マネージャーか」
「運がよかっただけだよ」雄介は謙遜したが、その表情には満足そうな色が浮かんでいた。「でも、健一も負けてないだろ?今の会社で実力を発揮してるんじゃないのか?」
健一は苦笑いした。「俺なんて、まだまだだよ。雄介みたいに華々しい活躍なんて」
「華々しいって言うほどでもないさ」雄介は肩をすくめた。「ただ、チャンスを逃さなかっただけ」
二人は地下鉄の駅に向かって歩き続けた。健一は雄介の横顔を盗み見た。確かに変わっていない。でも、どこか違う。何かが…
「そうそう」雄介が突然立ち止まった。「健一、覚えてる?大学の時、俺がサークルでトラブルになった時のこと」
健一は少し考えた。「ああ、あの時の」
「そう、あの時」雄介は少し真剣な表情になった。「あの時、健一が代わりに謝りに行ってくれたんだよな」
健一は頷いた。雄介がサークルの後輩と口論になり、健一が仲裁に入った事件があった。結局、健一が両方に謝って事を収めた。
「本当に助かったよ。あの時、健一がいなかったら、俺、サークルを辞めることになってたかもしれない」
「そんな大げさな」健一は苦笑いした。「たいしたことじゃないよ」
「いや、本当に感謝してる」雄介は健一の肩に手を置いた。「健一は、いつも俺を助けてくれた。高校の時も、大学の時も」
健一は少し照れくさそうに笑った。「お互い様だよ」
だが雄介の次の言葉で、健一の表情は少し曇った。
「でも、今度は俺が健一を助ける番かもしれないな」
「え?」
「今の会社で、昇進のチャンスがなかなか来ないって言ってただろ?俺の会社、日本支社でシステム系の人材を探してるんだ。もし興味があったら、紹介できるよ」
健一は少し戸惑った。「それは…ありがたいけど」
「給料も今の倍以上は出せると思う。英語ができなくても、システムのスキルがあれば大丈夫だ」雄介は興奮気味に続けた。「どうだ?考えてみない?」
健一は迷った。確かに今の会社での昇進は厳しい状況だった。でも、雄介の会社に転職することに、なぜか抵抗を感じた。
「ちょっと…考えさせてくれ」
「もちろんだよ」雄介は笑顔で答えた。「でも、チャンスはそんなに長く待ってくれないからね。早めに返事をもらえるとありがたい」
健一は頷いたが、心の中では複雑な気持ちだった。友人として助けてくれようとしているのはわかる。でも、なぜか素直に喜べない自分がいた。
地下鉄の駅に着き、二人は別れた。雄介は高級住宅街の方面へ、健一は郊外の方面へ。
電車の中で、健一は今夜の再会を振り返った。楽しかった。本当に楽しかった。でも、何かが引っかかっていた。雄介の言葉、表情、態度。全てが完璧すぎて、逆に違和感があった。
電車が駅に到着し、健一は重い足取りでアパートに向かった。
深夜の街は静まり返っていた。街灯の光が、健一の長い影を地面に落としていた。その影は、まるで彼の心の中の暗闇を映しているようだった。
アパートに戻り、健一はソファに座り込んだ。今夜の出来事を思い返していると、スマートフォンが鳴った。美穂からだった。
「お疲れ様。雄介さんとの再会はどうだった?」
「ああ、楽しかったよ」健一は疲れた声で答えた。
「よかった。明日は三人で会えるの?」
健一は少し間を置いた。「たぶん、大丈夫だと思う」
「楽しみ!健一の親友がどんな人か、本当に会ってみたいの」
美穂の明るい声とは対照的に、健一の心は重かった。彼女の無邪気な喜びが、なぜか彼を不安にさせた。
「美穂」
「何?」
「俺のこと、どう思う?」
美穂は少し驚いたようだった。「急にどうしたの?素敵な人だと思ってるから、付き合ってるんじゃない」
「もっと具体的に」
「そうね…」美穂は少し考えた。「誠実で、優しくて、頼りになる人。ちょっと自信がないところもあるけど、それも含めて魅力的だと思うわ」
健一は微笑んだ。美穂の言葉は、いつも彼を癒してくれた。
「ありがとう」
「どうしたの?今日、何かあった?」
「いや、何でもない」健一は答えた。「ただ、雄介と会って、自分のことを考えただけ」
「比較しちゃダメよ」美穂は優しく言った。「人それぞれ違うんだから。健一は健一のよさがあるの」
「わかってる」
「それじゃあ、明日楽しみにしてるから。おやすみなさい」
「おやすみ」
電話を切った後、健一は深いため息をついた。美穂の言葉は温かかった。でも、雄介と比較してしまう自分を止めることができなかった。
健一は立ち上がり、窓の外を見た。夜空には星がほとんど見えなかった。都市の光が、星の光を消してしまっているのだ。
まるで、雄介の眩しい存在が、自分の小さな光を消してしまうように。
その夜、健一は長い間眠れなかった。明日、美穂と雄介が出会う。その時、何が起きるのだろうか。
彼は知らなかった。この再会が、彼の人生を根底から変えてしまうきっかけになることを。
完璧だと信じていた友情に、深い闇が潜んでいることを。
そして、その闇が、やがて彼自身をも飲み込んでいくことを。
## 第二章 最初の亀裂
翌日の夕方、健一は渋谷のレストランで美穂と雄介を待っていた。
約束の時間より十分早く到着していた。緊張していたのだ。なぜ緊張するのか、自分でもよくわからなかった。ただ、心臓が早鐘を打っているのを感じていた。
「健一!」
振り向くと、美穂が笑顔で手を振っていた。白いブラウスに紺のスカート、清楚で知的な印象の服装だった。健一は安堵した。彼女がここにいることで、少し気持ちが落ち着いた。
「お疲れ様」美穂は健一の隣に座りながら言った。「雄介さんは?」
「まだ来てない。少し遅れるって連絡があった」
「そう」美穂は周りを見回した。「素敵なお店ね。雄介さんが選んだの?」
「ああ」健一は頷いた。「こういう店に詳しいんだ」
美穂は微笑んだ。「健一とは違うタイプの人なのね」
「ああ、正反対だよ」
その時、店の入口に人影が現れた。雄介だった。昨夜と同じように完璧にセットされた髪、高級なスーツ、自信に満ちた歩き方。店内の何人かの女性が振り返って見ていた。
「おお、健一!そして美穂さんですね」
雄介は明るい声で挨拶し、美穂に向かって軽く頭を下げた。
「初めまして、田中雄介です。健一にはいつもお世話になっております」
「佐藤美穂です」美穂も立ち上がって挨拶した。「健一からよくお話を伺ってます」
雄介は美穂の手を軽く握って挨拶した。健一はその光景を見て、何か胸の奥がざわついた。
「いやあ、写真で見るよりも実際の方がずっと美しいですね」雄介は座りながら言った。「健一、うらやましいよ」
美穂は少し照れた。「そんな、お世辞が上手ですね」
「本心ですよ」雄介は笑顔で答えた。「健一は本当に幸せ者だ」
健一は苦笑いしながら見ていた。雄介の自然な社交性に、美穂もすぐに打ち解けているようだった。
「雄介さんは、アメリカにいらしたんですよね?」美穂が興味深そうに尋ねた。
「ええ、三年間ニューヨークにいました」雄介は身を乗り出した。「美穂さんは出版社でお仕事されてるんですよね?どんなお仕事を?」
「文芸書の編集をしています」美穂は答えた。「小説が好きで、この仕事に就いたんです」
「素晴らしい!僕も読書は好きですよ。最近はどんな本を読まれてます?」
二人の会話が弾んでいく。健一は黙って聞いていた。雄介の巧みな話術に、美穂が徐々に引き込まれていくのがわかった。
「健一さんとはどちらで知り合われたんですか?」雄介が尋ねた。
「書店です」美穂は健一を見て微笑んだ。「健一が同じ本を探していて、偶然お話しすることになったんです」
「へえ、どんな本だったんですか?」
美穂は少し恥ずかしそうに答えた。「太宰治の『人間失格』です」
雄介の表情が一瞬変わった。健一はそれを見逃さなかった。
「『人間失格』ですか」雄介は少し考える素振りをした。「重いテーマの本ですね。健一らしい選択だ」
その言葉に、健一は違和感を覚えた。雄介の口調に、どこか皮肉めいたものを感じたのだ。
「太宰治がお好きなんですか?」美穂が雄介に尋ねた。
「昔読んだことがありますが、ちょっと暗すぎて僕には合わないかな」雄介は苦笑いした。「僕はもっと前向きな本が好きですね」
美穂は少し表情を曇らせた。「そうですか…私は太宰の繊細な心理描写が好きなんです」
「いや、もちろん太宰も素晴らしい作家ですよ」雄介は慌てたように付け加えた。「ただ、僕の趣味に合わないだけで」
健一は内心で苛立ちを感じていた。雄介は明らかに美穂の趣味を否定している。しかも、それを巧妙に隠しながら。
「美穂は文学に詳しいんだ」健一が口を挟んだ。「仕事柄、いろんな作家の作品を読んでる」
「そうなんですね」雄介は美穂に向き直った。「どんな作家がお好きですか?」
「最近は現代の作家さんの作品をよく読みます」美穂は答えた。「村上春樹さんとか、川上未映子さんとか」
「ああ、村上春樹!」雄介の目が輝いた。「僕も大好きです。アメリカでも翻訳版がよく読まれてましたよ」
美穂の表情が明るくなった。「そうなんですか!海外での反応はどうでしたか?」
雄介は饒舌に語り始めた。アメリカでの村上春樹人気、現地での文学事情、ニューヨークの書店の話。美穂は興味深そうに聞き入っていた。
健一は取り残されたような気分だった。雄介の話は面白く、知識も豊富だった。そして何より、美穂を楽しませていた。
「健一は読書好きじゃないんですか?」雄介が突然健一に振った。
「まあ、それなりには」健一は曖昧に答えた。
「健一は技術書ばかり読んでるんじゃないの?」雄介は笑いながら言った。「昔からそうだったもんな」
美穂は少し驚いたような顔をした。「そうなんですか?」
健一は少し恥ずかしくなった。確かに仕事関連の本ばかり読んでいて、小説はほとんど読まなかった。
「いや、小説も読むよ」健一は弁解した。「ただ、あまり詳しくないだけで」
「健一は実用的なものが好きなんです」雄介は美穂に向かって説明した。「効率重視というか。昔から無駄なことは嫌いでしたからね」
雄介の言葉に、健一は胸の奥で何かが燃え上がるのを感じた。無駄なこと。美穂の好きな文学は、雄介にとって無駄なことなのか。
「でも、それはそれで素晴らしいことですよね」美穂がフォローした。「実用的な知識も大切ですし」
「そうですね」雄介は頷いた。「健一は本当に頭がいいんです。大学の時も、僕より成績よかったですし」
「えっ、そうなんですか?」美穂は健一を見た。
健一は困った顔をした。確かに成績は雄介より良かったが、それは雄介が勉強以外のことに時間を使っていたからだ。
「雄介の方がずっと優秀だよ」健一は謙遜した。
「いやいや、謙遜しなくていいって」雄介は笑った。「健一は本当にすごかったんです。特に数学なんか、僕なんか足元にも及ばなかった」
美穂は感心したような顔をした。「健一って、そんなに数学が得意なんですね。知らなかった」
健一は恥ずかしくなった。数学が得意だったことを、わざわざ美穂に話したことはなかった。自慢しているようで嫌だったのだ。
「でも今は、雄介の方がずっと成功してるよ」健一は苦笑いしながら言った。
「それは環境の違いですよ」雄介は手を振った。「僕はたまたまチャンスに恵まれただけ。健一だって、同じ環境にいたら、僕より成功してたはずです」
その言葉は慰めのつもりだったのかもしれない。でも健一には、どこか上から目線に感じられた。
「そういえば」雄介は話題を変えた。「美穂さんは健一のどこに惹かれたんですか?」
美穂は少し照れながら答えた。「優しくて、誠実なところです。あと、とても頭がいいのに全然自慢しない謙虚さも」
「ああ、それは確かに健一の長所ですね」雄介は頷いた。「昔から変わらないなあ」
健一は複雑な気持ちだった。褒められているのに、素直に喜べない。雄介の言葉には、どこか見下すような響きがあった。
「でも、健一はもっと自信を持っていいと思うんですよね」雄介は続けた。「昔から、自分を過小評価しすぎる傾向があって」
美穂は頷いた。「そうなんです。もっと自分に自信を持ってほしいといつも思ってるんです」
二人が自分について話しているのを聞いて、健一はますます居心地が悪くなった。まるで、分析されているような気分だった。
「健一は、昔から人のために尽くすタイプでしたからね」雄介は美穂に向かって言った。「僕も何度助けられたかわからない」
「そうなんですか?」美穂は興味深そうに聞いた。
「ええ、レポートを手伝ってもらったり、試験勉強を教えてもらったり」雄介は振り返るように言った。「本当に感謝してるんです」
健一は不快感を覚えた。雄介は自分を「人のために尽くす人」として紹介している。それは確かに事実だが、なぜか「都合のいい人」と言われているような気がした。
「素敵な友情ですね」美穂は微笑んだ。「健一は本当に優しい人なんですね」
「ええ、でも時々心配になるんです」雄介は少し真剣な表情になった。「健一は人がよすぎて、利用されやすいんじゃないかって」
健一の表情が硬くなった。利用される?雄介は何を言っているのだ?
「まあ、それも健一の魅力の一つなんですけどね」雄介は慌てたように付け加えた。「ただ、もう少し自分を大切にしてもいいんじゃないかと思うんです」
美穂は健一を心配そうに見た。「確かに、健一は自分のことより、他の人のことを優先しがちですね」
健一は黙って聞いていた。二人の会話が、まるで自分の欠点を列挙しているように聞こえた。
「でも、そういうところも含めて、健一を好きになったんです」美穂は健一に向かって微笑んだ。
健一は少し救われた気持ちになった。でも、雄介の次の言葉で、その気持ちは吹き飛んだ。
「美穂さんのような素敵な女性と一緒にいると、健一も変わるかもしれませんね」雄介は意味深に笑った。「いい影響を受けて」
その言葉に含まれた意味を、健一は敏感に感じ取った。美穂がいなければ、自分は変われない。つまり、今の自分はダメな人間だということか。
「そんなことないですよ」美穂は慌てて否定した。「健一は今のままでも十分素敵です」
「もちろんです」雄介は手を振った。「僕が言いたかったのは、お互いにいい影響を与え合える関係ってことです」
表面的には何の問題もない会話だった。でも健一には、雄介の言葉の裏にある毒気が見えていた。
食事が終わり、三人は店を出た。雄介は会計を済ませていた。健一が支払おうとしたが、雄介が笑顔で止めた。
「今日は僕が誘ったんですから、当然僕の奢りです」
美穂は申し訳なさそうにしていたが、雄介は気にしないでくださいと言った。
「ご馳走になってしまって、すみません」美穂は深々と頭を下げた。
「とんでもない」雄介は手を振った。「美穂さんとお知り合いになれて、本当によかったです」
三人は駅に向かって歩いた。美穂は雄介と楽しそうに話していた。健一は少し後ろを歩きながら、二人の会話を聞いていた。
「雄介さんって、本当に紳士的ですね」美穂が言った。
「そんなことないですよ」雄介は謙遜した。「ただ、素敵な女性と一緒にいると、自然と紳士になってしまうんです」
美穂は笑った。健一はその笑い声を聞いて、胸が締め付けられるような気がした。
駅に着き、三人は別れることになった。雄介は高級住宅街の方面、健一と美穂は同じ方向だった。
「雄介さん、今日は本当にありがとうございました」美穂は丁寧に挨拶した。
「こちらこそ、楽しい時間をありがとうございました」雄介は美穂の手を軽く握った。「また今度、三人で会いましょう」
「ぜひお願いします」美穂は嬉しそうに答えた。
雄介は健一に向かって言った。「健一、美穂さんは本当に素晴らしい人だね。大切にしなよ」
「ああ」健一は短く答えた。
「それじゃあ、また連絡するよ」雄介は手を振って去っていった。
電車の中で、美穂は興奮気味に話していた。
「雄介さんって、本当に素敵な人ね。頭もいいし、紳士的だし、話も面白い」
健一は曖昧に頷いた。
「健一は幸せね、あんな友達がいて」美穂は続けた。「きっと、健一のことを本当に大切に思ってくれてるのね」
健一は答えなかった。確かに雄介は魅力的だった。でも、今夜の会話の中で、健一は雄介の別の顔を見たような気がしていた。
「健一?どうしたの?元気がないみたい」美穂が心配そうに尋ねた。
「いや、ちょっと疲れただけ」健一は作り笑いを浮かべた。
「そう?雄介さんと会えて嬉しくなかった?」
「嬉しかったよ」健一は嘘をついた。「久しぶりに会えて」
美穂は安心したような顔をした。「よかった。一時、険しい顔をしてたから、心配しちゃった」
健一は苦笑いした。美穂は気づいていたのだ。自分の表情の変化を。
「今度は二人きりで会いたいな」美穂が言った。「雄介さんと、もっとゆっくり話してみたい」
健一の心に、暗い影が差した。美穂が雄介に興味を持っている。それは明らかだった。
「ああ、機会があったら」健一は曖昧に答えた。
美穂の駅に着き、二人は別れた。健一は一人で電車に揺られながら、今夜の出来事を振り返った。
雄介の言葉の一つ一つが、頭の中で繰り返されていた。「人がよすぎて、利用されやすい」「自分を過小評価しすぎる」「いい影響を受けて変わるかもしれない」。
表面的には親友としての心配や励ましに聞こえる。でも健一には、それが微妙な攻撃のように感じられた。
自分の考えすぎなのかもしれない。雄介は本当に自分のことを心配してくれているのかもしれない。でも、今夜美穂が見せた雄介への関心を思い出すと、健一の心は穏やかではいられなかった。
アパートに戻り、健一は鏡の前に立った。映っているのは、平凡で目立たない男だった。雄介のような華やかさも、魅力も、自信もない。
「利用されやすい男か」
健一は鏡の中の自分に向かって呟いた。
その時、雄介の笑顔が頭に浮かんだ。完璧で、魅力的で、人を惹きつける笑顔。でも今夜、健一はその笑顔の裏に、何か冷たいものを感じ取っていた。
まるで、仮面をかぶっているような。
健一は深いため息をついた。これからも、雄介と美穂は会うことになるだろう。そして、二人の間に何かが生まれるかもしれない。
その可能性を考えるだけで、健一の心は暗くなった。
でもまだ、彼は知らなかった。今夜感じた違和感が、やがて確信に変わることを。そして、それが彼の人生を根底から変えてしまうことを。
完璧だと思っていた友情に、最初の亀裂が入った夜だった。
## 第三章 疑念の種
それから一週間が過ぎた。
健一は会社でいつものように仕事をしていたが、集中力を欠いていた。雄介と美穂のことが頭から離れなかった。三人での食事の後、美穂は何度か雄介の話題を持ち出していた。
「雄介さんって、本当に国際的なお仕事をされてるのね」
「アメリカの話、とても興味深かった」
「また今度、お食事でもしましょうって言ってくれたの」
美穂の言葉を聞くたびに、健一の心は重くなった。
「山田、ちょっといいか?」
村上の声で、健一は現実に引き戻された。
「ああ、何?」
「今度のプロジェクトの件なんだけど」村上は椅子に座りながら言った。「リーダーを任せたいと思ってるんだ」
健一は驚いた。「俺が?」
「ああ。君のスキルなら十分できると思う」村上は真剣な表情で続けた。「どうだ?やってみるか?」
健一は少し考えた。プロジェクトリーダーは、彼が長い間望んでいたポジションだった。昇進への大きなステップになる。
「やらせてもらいます」
「よし」村上は満足そうに頷いた。「今度の案件は大きいから、成功すれば君の評価も上がるはずだ」
健一は嬉しかった。ようやく認められたのだ。雄介に負けてばかりいるわけではない。
その夜、健一は美穂にそのことを報告した。
「すごいじゃない!」美穂は電話の向こうで喜んでくれた。「ついにプロジェクトリーダーなのね」
「ああ、まだ決まったわけじゃないけど、チャンスはもらえた」
「健一なら絶対うまくいくわ」美穂の声は弾んでいた。「雄介さんにも報告した?」
健一は少し躊躇した。「まだ」
「きっと喜んでくれるわよ。親友が出世するなんて、嬉しいに決まってるもの」
電話を切った後、健一は雄介に連絡しようかどうか迷った。でも、結局連絡しなかった。理由はわからない。ただ、雄介に話すことに、なぜか気が進まなかった。
***
翌日の夕方、健一は会社でプロジェクトの準備をしていた。すると、スマートフォンが鳴った。雄介からだった。
「健一、今時間ある?ちょっと話したいことがあるんだ」
「今?仕事中だけど」
「そっか。じゃあ、今度の土曜日はどう?久しぶりに二人でゆっくり話そう」
健一は少し考えた。「ああ、いいよ」
「ありがとう。それじゃあ、土曜日の六時、例のバーで」
電話を切った後、健一は不安を感じた。雄介の声に、いつもとは違う何かがあった。
土曜日になり、健一は約束の場所に向かった。バーに着くと、雄介はすでに到着していた。いつものように完璧な身なりだったが、どこか疲れているように見えた。
「健一、お疲れ様」雄介は立ち上がって迎えた。
「お疲れ様」健一は席に座った。「話したいことって?」
雄介は少し躊躇した後、口を開いた。
「実は、美穂さんから連絡があったんだ」
健一の心臓が跳ね上がった。「美穂から?」
「ああ」雄介は少し困ったような表情をした。「僕に会いたいって」
健一は言葉を失った。美穂が雄介に直接連絡を取った。それも、健一に黙って。
「もちろん断ったよ」雄介は急いで付け加えた。「君の恋人だし、誤解されたくないから」
「そうか」健一は力なく答えた。
「でも、気になることがあるんだ」雄介は身を乗り出した。「美穂さん、君のこと、不満に思ってるんじゃないか?」
「不満?」
「ほら、この前の食事の時も、君があまり話に参加してなかっただろ?彼女、物足りないんじゃないかな」
健一は雄介を見つめた。何を言っているのだ、この男は。
「君はもっと積極的になった方がいいよ」雄介は続けた。「せっかく素敵な彼女がいるんだから、もっと大切にしないと」
健一の心に、怒りが湧き上がった。大切にしていない?雄介に何がわかるというのだ。
「余計なお世話だ」健一は低い声で言った。
雄介は少し驚いたような顔をした。「ごめん、でしゃばりすぎたかな」
「俺の恋愛に口出しするな」健一はきつい口調で言った。
「健一」雄介は困ったような顔をした。「君、最近様子がおかしいよ。何かあったのか?」
健一は答えなかった。何と言えばいいのかわからなかった。
「もしかして、僕が原因?」雄介は心配そうに尋ねた。「何か気に障ることをしたかな?」
健一は雄介の顔を見た。完璧な心配顔だった。まるで、本当に友達のことを心配している親友のような。
「いや、何でもない」健一は答えた。「仕事が忙しくて、ちょっと疲れてるだけ」
「そうか」雄介は安堵したような表情を見せた。「そういえば、仕事の方はどう?昇進の話、進んでる?」
健一は迷った。プロジェクトリーダーの話をするべきか。でも、結局口を開いた。
「実は、プロジェクトリーダーに抜擢されたんだ」
雄介の表情が一瞬変わった。驚き、そして何か別の感情。でもすぐに、満面の笑顔に戻った。
「それは素晴らしい!おめでとう、健一」雄介は健一の肩を叩いた。「ついに認められたんだね」
「ありがとう」健一は複雑な気持ちで答えた。
「どんなプロジェクト?」雄介は興味深そうに尋ねた。
健一は簡単に説明した。雄介は熱心に聞いていたが、その目の奥に何か冷たいものを感じた。
「なるほど」雄介は頷いた。「でも、プロジェクトリーダーって、責任も重いよね。失敗したら、逆に評価が下がることもあるし」
健一の表情が硬くなった。「何が言いたい?」
「いや」雄介は手を振った。「ただ、君には慎重にやってほしいなと思って」
「心配してくれてるのか?」
「もちろんだよ」雄介は真剣な顔で答えた。「君は僕の親友だからね」
その言葉を聞いて、健一はさらに違和感を覚えた。親友。本当にそうなのか?
「雄介」健一は突然口を開いた。「俺たちって、本当に親友なのか?」
雄介は驚いたような顔をした。「何を言ってるんだ?当然だろ」
「でも、最近思うんだ」健一は続けた。「俺たちの関係って、対等じゃないよな」
「対等じゃない?」
「俺はいつも君を助けて、君はいつも助けられて」健一は今まで胸に秘めていた思いを吐き出した。「高校の時も、大学の時も、俺はいつも君のために何かしてた」
雄介は困ったような顔をした。「それは…君が優しいから」
「優しいから?」健一は笑った。「それとも、君にとって都合のいい人間だったから?」
雄介の表情が変わった。一瞬、仮面が剥がれたような。でもすぐに、いつもの笑顔に戻った。
「健一、君は本当に疲れてるんだね」雄介は心配そうに言った。「少し休んだ方がいいんじゃないか?」
健一は雄介を見つめた。この男は、自分の問いから逃げている。そして、自分を病人扱いしている。
「俺は正常だ」健一は静かに言った。
「もちろんそうだよ」雄介は慌てたように答えた。「ただ、ストレスが溜まってるんじゃないかと思って」
健一は立ち上がった。「帰る」
「健一、待ってくれ」雄介も立ち上がった。「何か誤解があるんじゃないか?話し合おう」
「話すことはない」健一は背中を向けた。「会計は割り勘で」
「健一!」
雄介の声を背に、健一はバーを出た。外は冷たい夜風が吹いていた。健一は深呼吸した。
胸の中で、何かが大きく変わったのを感じていた。今まで美しいと思っていた友情の記憶が、別の色に染まっていく。
もしかしたら、自分は今まで利用されていただけなのかもしれない。都合のいい友達として。
その夜、健一は一人でアパートに戻り、過去の写真を見返した。高校時代、大学時代の写真。そこには、いつも笑顔の雄介と、その隣でぎこちなく笑う自分が写っていた。
でも今見ると、違って見えた。雄介の笑顔は完璧すぎて、まるで演技のよう。そして自分は、まるで雄介を引き立てるための脇役のよう。
健一は写真を閉じた。そして、ある決意を固めた。
過去を見直してみよう。本当に、雄介は自分にとって親友だったのか。それとも、自分は単なる都合のいい人間だったのか。
健一の中で、疑念の種が芽を吹き始めていた。
***
翌週、健一は会社で集中して仕事に取り組んだ。プロジェクトリーダーとしての責任を果たすために、全力で頑張った。
すると、村上が嬉しそうに近づいてきた。
「健一、いいニュースがあるよ」
「何ですか?」
「君のプロジェクトの評価が上がってるんだ。クライアントからも高評価で、上層部も注目してる」
健一は嬉しかった。自分の努力が認められている。雄介に負けていない。
「本当に頑張ってるな」村上は感心したように言った。「この調子で行けば、昇進も夢じゃないよ」
その夜、健一は美穂に電話でその報告をした。
「すごいじゃない!私も誇らしいわ」美穂は心から喜んでくれた。
「ありがとう」健一は嬉しかった。美穂がこれほど喜んでくれるとは。
「でも、無理しちゃダメよ」美穂は心配そうに付け加えた。「最近、ちょっと疲れてるみたいだから」
「大丈夫だよ」健一は答えた。「充実してる」
「それならいいけれど」美穂は少し間を置いて続けた。「そういえば、雄介さんからメールが来たの」
健一の心が止まった。「雄介から?」
「ええ。健一のことを心配してるって。最近、元気がないようだけど、大丈夫かって」
健一は愕然とした。雄介が美穂に、自分の悪口を吹き込んでいる。
「それで、何て答えたの?」
「仕事が忙しくて疲れてるけど、基本的には元気だって答えた」美穂は答えた。「でも、雄介さん、本当に健一のことを心配してくれてるのね」
健一は黙って聞いていた。雄介の狡猾さに、寒気を感じた。
「健一?聞いてる?」
「ああ、聞いてる」健一は答えた。「雄介が心配してくれてるのか」
「そうよ。いい友達を持ったわね」
健一は苦笑いした。いい友達。本当にそうだろうか。
電話を切った後、健一は深く考え込んだ。雄介は何をしようとしているのか。美穂に自分の悪印象を植え付けようとしているのか。
その時、健一は決心した。過去をもっと詳しく調べてみよう。雄介との関係を、客観的に見直してみよう。
健一は大学時代の日記を引っ張り出した。当時の記録が残っているはずだ。
日記を読み返すうちに、健一は愕然とした。記録された事実は、今まで美化していた記憶とは大きく違っていた。
雄介のために何度もレポートを書いたこと。試験前に徹夜で勉強を教えたこと。雄介のトラブルの後始末をしたこと。そして、雄介はそのたびに感謝を示したが、実際に健一のために何かをしてくれたことは、ほとんどなかった。
健一は頭を抱えた。自分は、本当に利用されていただけだったのか。
そして、もっと恐ろしい可能性が頭に浮かんだ。もしかしたら、雄介は今でも自分を利用しようとしているのではないか。今度は、美穂を使って。
健一の心に、暗い感情が芽生えた。それは、憎しみの種だった。
完璧だと思っていた友情は、実は一方的な奉仕だった。そして、その「親友」は今、自分の恋人を狙っているかもしれない。
健一の中で、何かが壊れ始めていた。そして、何かが生まれ始めていた。
雄介への、深い憎しみが。
## 第四章 裏切りの発覚
健一の調査は続いた。
大学時代の同窓生に連絡を取り、当時の雄介の行動について尋ねてみた。返ってきた答えは、健一の予想以上に衝撃的だった。
「田中雄介?覚えてるよ」古い友人の佐伯は電話の向こうで言った。「計算高い奴だったな。人気者だったけど、裏では結構エグいことしてたぞ」
「エグいこと?」
「ほら、あの時の学園祭の件、覚えてないか?田中が企画委員長をやってた時」
健一は思い出そうとしたが、はっきりしなかった。
「田中が予算を使い込んでたんだよ。で、責任を他の委員に押し付けて、自分だけうまく逃げた」佐伯は続けた。「結局、山田が尻拭いしたんじゃなかったっけ?」
健一の記憶が蘇った。確かに学園祭の後、帳簿が合わないということで問題になった。そして、健一が自腹で不足分を補填したのだ。雄介は「申し訳ない」と言っていたが、結局返してもらえなかった。
「山田は人がよかったからな」佐伯は苦笑いした。「田中にいいように使われてたよ」
電話を切った後、健一は愕然とした。雄介の使い込み。それは、健一が美化していた記憶では、単なる計算ミスだったはずだ。
健一はさらに調べ続けた。そして、次々と新しい事実が明らかになった。
雄介は健一の研究資料を盗用して、自分の名前で発表していた。健一の彼女に言い寄って、別れさせたこともあった。就職活動でも、健一が苦労して集めた企業情報を、無断で使用していた。
すべてが、健一の知らないところで行われていた。そして、雄介はいつも感謝の言葉を口にしながら、健一を利用し続けていた。
健一は震えていた。怒りで、そして自分の愚かさで。
***
その事実を知った翌日、健一は会社で仕事に集中できなかった。
「健一、大丈夫か?」村上が心配そうに声をかけてきた。「顔色が悪いぞ」
「ちょっと寝不足で」健一は作り笑いを浮かべた。
「無理するなよ。プロジェクトは順調に進んでるんだから」
その時、健一のスマートフォンが鳴った。美穂からだった。
「もしもし、健一?今日の夜、空いてる?」
「ああ、どうして?」
「実は」美穂は少し躊躇った後、続けた。「雄介さんと会うことになったの」
健一の心臓が止まった。「雄介と?」
「ええ。偶然、出版社の近くで会って。それで、今夜お食事をしましょうって」
健一は握りしめた拳が震えるのを感じた。偶然?雄介が美穂の職場の近くにいたのが偶然?
「健一も一緒にって誘ったんだけど、雄介さんが『今日は美穂さんとゆっくり話したい』って」
健一は言葉を失った。雄介の狙いは明らかだった。
「健一?聞いてる?」
「ああ」健一は力を振り絞って答えた。「楽しんでこい」
「ありがとう。でも、なんだか申し訳ないな。健一の親友なのに」
「気にするな」健一は偽善的な笑顔を作った。「親友なんだから」
電話を切った後、健一は机に突っ伏した。雄介が美穂を狙っている。それは間違いない。
そして今夜、二人きりで会う。
健一の心に、今まで感じたことのない激しい感情が渦巻いていた。それは嫉妬、怒り、そして憎悪だった。
***
その夜、健一は自宅で待っていた。美穂からの連絡を。
午後十時過ぎ、ようやく電話が来た。
「お疲れ様。今、帰宅したところ」美穂の声は、いつもより弾んでいた。
「どうだった?」健一はできるだけ平静を装って尋ねた。
「とても楽しかった」美穂は答えた。「雄介さんって、本当に魅力的な人ね」
健一の心に、ナイフが刺さったような痛みが走った。
「そうか」
「アメリカでの体験談とか、仕事の話とか、とても興味深かった」美穂は続けた。「それに、とても紳士的で」
健一は黙って聞いていた。美穂が雄介に魅了されているのは明らかだった。
「でも」美穂は少し声のトーンを落とした。「ちょっと気になることもあったの」
「気になること?」
「雄介さん、健一のことをとても心配してるのね」美穂は続けた。「最近、性格が変わったとか、攻撃的になったとか」
健一は愕然とした。雄介が美穂に、自分の悪口を吹き込んでいる。
「攻撃的?」健一は声を上げそうになったが、必死に抑えた。
「ええ。仕事のストレスで、ちょっと不安定になってるんじゃないかって」
健一は歯を食いしばった。雄介の狡猾さは想像以上だった。
「でも、私は健一のこと、よくわかってるから」美穂は優しく続けた。「雄介さんには、健一は大丈夫だって伝えたの」
「ありがとう」健一は絞り出すように言った。
「雄介さんも安心してた。『美穂さんがついてくれてるなら大丈夫だ』って」
健一は怒りで震えていた。雄介は美穂を自分の味方にしようとしている。
「それじゃあ、おやすみなさい」美穂は明るく言った。「明日も頑張りましょう」
電話を切った後、健一は部屋を歩き回った。怒りと悔しさで、頭がおかしくなりそうだった。
雄介は美穂を取ろうとしている。そして、自分を悪者に仕立て上げようとしている。
健一は拳で壁を殴った。痛みが手に走ったが、心の痛みの方がはるかに大きかった。
***
翌朝、健一は重い頭で会社に向かった。一晩中眠れなかった。
会社に着くと、村上が心配そうに近づいてきた。
「健一、本当に大丈夫か?昨日からずっと調子悪そうだぞ」
「大丈夫です」健一は答えた。「ちょっと疲れてるだけで」
「無理するなよ。プロジェクトは大事だが、体を壊したら元も子もない」
その時、健一のスマートフォンにメッセージが届いた。雄介からだった。
「健一、昨夜は美穂さんと楽しい時間を過ごさせてもらった。彼女は本当に素晴らしい女性だね。君は幸せ者だ。でも、君のことが心配だ。最近、様子がおかしい。今度、二人でゆっくり話そう」
健一は携帯を握りしめた。このメッセージに込められた悪意が見えた。
雄介は挑発している。そして、自分が正義の側にいるかのように振る舞っている。
健一は返信した。
「心配してくれてありがとう。でも、俺は大丈夫だ。美穂を楽しませてくれて感謝する」
送信した後、健一は自分の返事に驚いた。表面的には感謝しているが、その下に隠された怒りを、雄介は感じ取れるだろうか。
数分後、雄介から返信が来た。
「よかった。君が元気なら安心だ。美穂さんは君を本当に愛してる。大切にしろよ」
健一は冷笑した。大切にしろ、だと。おまえが奪おうとしているくせに。
その日の午後、健一は意外な人物から連絡を受けた。大学時代の後輩、田村からだった。
「山田先輩、お久しぶりです。ちょっとお聞きしたいことがあって」
「何だ?」
「実は、田中先輩のことなんですが」田村は躊躇いがちに続けた。「最近、うちの会社に転職の相談に来られて」
健一は驚いた。「雄介が?」
「ええ。それで、山田先輩のことを引き合いに出されたんです」
「俺のこと?」
「はい。山田先輩が推薦してくれたって言われて」田村は困ったような声で続けた。「でも、先輩からは何も連絡をいただいてないので」
健一は愕然とした。雄介が自分の名前を勝手に使っている。
「俺は何も言ってない」健一は静かに答えた。
「やはり」田村は納得したような声を出した。「実は、田中先輩の話、何だか胡散臭くて」
「どんな話だった?」
「山田先輩の仕事ぶりを褒めながら、でもちょっと頼りないところもあるとか、最近精神的に不安定だとか」田村は続けた。「なんだか、褒めてるのか貶してるのかわからない感じで」
健一は怒りで震えた。雄介は自分の名前を使って転職活動をしながら、同時に自分の悪口も広めている。
「田村、その件は断ってくれ」健一は言った。「俺は雄介を推薦していない」
「わかりました。実は、あまりいい印象を受けなかったので、お断りしようと思ってたんです」
電話を切った後、健一は震えていた。雄介の狡猾さは想像を絶していた。
自分の名前を利用し、美穂を誘惑し、周囲に自分の悪評を広める。すべて、完璧な笑顔の裏で。
健一の心に、確信が生まれた。雄介は敵だ。自分を破滅させようとしている敵だ。
そして、この戦いに負けるわけにはいかない。
***
その夜、健一は一人でアパートにいた。怒りと憎しみで胸がいっぱいだった。
雄介の本性がわかった今、健一にはやるべきことがあった。
まず、美穂を雄介から守ること。そして、雄介の偽善の仮面を剥がすこと。
健一は机に向かい、雄介について知っている事実を整理し始めた。大学時代の使い込み、盗用、裏切り。そして現在の悪行。
証拠を集めよう。雄介の正体を暴こう。
健一の目に、今まで見たことのない光が宿った。それは、復讐への意志だった。
雄介が完璧な笑顔で隠してきた悪意に、健一も笑顔で応えてやろう。
仮面には仮面で。
健一の顔に、不気味な笑みが浮かんだ。戦いは始まったのだ。
親友への復讐という名の、暗い戦いが。
## 第五章 恨みの増殖
健一の復讐計画は、静かに、しかし確実に進んでいた。
まず彼が行ったのは、雄介の過去をより詳細に調査することだった。大学時代の同窓生、サークルの仲間、後輩たち。健一は巧妙に連絡を取り、雄介についての情報を集めた。
そして明らかになったのは、想像以上に醜い真実だった。
雄介は学生時代から、一貫して他人を利用し続けていた。友人の恋人を奪い、仲間の功績を横取りし、困った時だけ人に頼り、用が済めば冷たく捨てる。しかも、それらすべてを巧妙に隠し、常に被害者を演じていた。
「田中って、最初はいい人に見えるんだよね」ある同窓生は電話で語った。「でも、付き合いが長くなると、だんだんおかしいことに気づくの。何でも自分に都合よく解釈するし、困った時だけ助けを求めるし」
健一は一つ一つの証言を記録していた。いつか、これらが雄介を破滅させる武器になるかもしれない。
***
三週間後、健一は雄介から連絡を受けた。
「健一、久しぶりに会わないか?君のことが心配なんだ」
健一は冷静に答えた。「心配?俺は元気だよ」
「そうは見えないな」雄介の声には、作り物めいた優しさがあった。「美穂さんも心配してるよ」
健一の心に怒りが湧いたが、表面的には平静を保った。「美穂が?最近、よく会ってるのか?」
「いや、偶然会うことが多くて」雄介は嘘をついた。「君のことを話すんだ」
偶然。健一は心の中で冷笑した。雄介が美穂の行動パターンを調べ、意図的に接触していることは明らかだった。
「今度の土曜日、三人で会わないか?」雄介が提案した。
健一は少し考えた。雄介の策略を直接観察する機会だ。
「いいよ」健一は答えた。「楽しみにしてる」
電話を切った後、健一は微笑んだ。今度は、こちらが観察する番だ。
***
土曜日、三人は高級レストランで食事をしていた。雄介の提案で選ばれた店だった。
健一は注意深く二人の様子を観察していた。美穂は雄介の話に夢中になり、雄介は巧妙に健一を会話から排除していた。
「健一は最近、仕事が忙しいみたいで」雄介は美穂に向かって言った。「ストレスも溜まってるんじゃないかな」
「そうなんです」美穂は心配そうに健一を見た。「プロジェクトリーダーになってから、本当に忙しそうで」
「責任重大だからね」雄介は同情的な表情を作った。「でも、健一なら大丈夫だよ。昔から真面目で、コツコツ努力するタイプだから」
表面的には励ましているように聞こえる。でも健一には、その言葉に込められた毒が見えた。「真面目でコツコツ」は「地味で面白みがない」という意味。「昔から」は「今も変わっていない」という意味。
「でも、時には息抜きも必要よ」美穂は健一に優しく言った。
「そうですね」雄介は頷いた。「健一は自分を追い込みすぎる傾向があるから」
また来た。健一は内心で毒づいた。「自分を追い込みすぎる」は「精神的に不安定」という印象を植え付ける言葉。
しかし健一は冷静だった。感情を露わにしては、雄介の思う壺だ。
「心配してくれてありがとう」健一は穏やかに答えた。「でも、俺は大丈夫だ。仕事も順調だし」
「それならいいんだけど」雄介は少し困ったような表情を見せた。「ただ、美穂さんが心配してるからさ」
健一は美穂を見た。彼女は確かに心配そうな顔をしていた。雄介の巧妙な誘導の結果だ。
「美穂、俺のこと、そんなに心配?」健一は優しく尋ねた。
「少しだけ」美穂は申し訳なさそうに答えた。「最近、何だか疲れてるみたいで」
健一は微笑んだ。「ありがとう。でも本当に大丈夫だから」
「健一がそう言うなら」雄介は安堵したような顔をした。「でも、何かあったらいつでも相談してくれよ。俺たち、親友だからな」
親友。健一は心の中で反芻した。この男の口から出る「親友」という言葉が、これほど汚らわしく聞こえるとは。
「ありがとう、雄介」健一は完璧な笑顔を作った。「俺も、何でも相談できる友達がいて幸せだ」
雄介の表情に、一瞬違和感が走った。健一の言葉に、何か引っかかりを感じたのかもしれない。
食事が進むにつれ、健一は雄介の策略の巧妙さに感心していた。表面的には健一を心配し、支えているように見える。しかし実際は、美穂に健一の「不安定さ」を印象づけ、自分との対比を際立たせている。
そして美穂は、完全にその術中にはまっていた。
「雄介さんって、本当に優しいですね」美穂は感動したように言った。「健一のことを、こんなに心配してくださって」
「当然ですよ」雄介は謙虚な笑顔を見せた。「健一は僕の大切な友達ですから」
健一は内心で拍手していた。見事な演技だ。でも、もう騙されない。
食事の終わり頃、雄介は爆弾を投下した。
「そういえば、健一」雄介は少し躊躇うような素振りを見せた。「実は、君に相談があるんだ」
「相談?」
「うん」雄介は美穂を見て、少し困ったような顔をした。「美穂さんがいる前で言うのもどうかと思うんだけど」
美穂は興味深そうに身を乗り出した。
「実は」雄介は声を落とした。「僕の会社で、君みたいな人材を探してるんだ。システム開発のマネージャー候補として」
健一の心臓が跳ね上がった。以前にも似たような話があったが、今度はより具体的だ。
「給料は今の倍以上。福利厚生も充実してる」雄介は続けた。「どうだ?興味ないか?」
美穂の目が輝いた。「それって、すごくいい話じゃない?」
健一は雄介の真意を見抜いていた。これは単純な転職の誘いではない。健一を自分の会社に引き込み、完全にコントロール下に置こうとしているのだ。
「検討してみる」健一は慎重に答えた。
「でも、決断は早い方がいい」雄介は急かすように言った。「こういう機会は、そう長くは待ってくれないからね」
健一は頷いたが、心の中では別のことを考えていた。雄介は焦っている。何かを急いでいる。
その理由は、すぐに明らかになった。
「実は」雄介は少し恥ずかしそうに言った。「僕、日本に完全帰国することになったんだ」
美穂は驚いた。「それって、いつからですか?」
「来月から」雄介は答えた。「だから、健一にも早く決めてもらいたくて」
健一は雄介の計画が見えた。完全帰国して、美穂との関係を深めるつもりだ。そして、健一を自分の支配下に置いて、邪魔されないようにする。
「来月」健一は繰り返した。「急だね」
「急な辞令だったんだ」雄介は苦笑いした。「でも、日本にいられるのは嬉しい」
美穂は複雑な表情をしていた。喜んでいるようでもあり、困惑しているようでもあった。
健一はその表情を見て、心の奥で何かが燃え上がるのを感じた。美穂が雄介の帰国を喜んでいる。それは確かだった。
レストランを出た後、三人は駅で別れた。雄介は高級タクシーで帰り、健一と美穂は電車で帰ることになった。
電車の中で、美穂は興奮気味に話していた。
「雄介さんの転職の話、本当にすごいじゃない?給料が倍なんて」
「ああ」健一は曖昧に答えた。
「でも、雄介さんの会社で働くなんて、ちょっと気を遣いそうね」美穂は続けた。「親友の会社だと、いろいろ難しいこともありそう」
健一は美穂を見た。彼女は健一の将来を心配してくれている。でも同時に、雄介のことも考えている。
「美穂」健一は突然口を開いた。「雄介のこと、どう思う?」
美穂は少し驚いた。「どうって?」
「率直な感想を聞かせてくれ」
美穂は少し考えた。「素敵な人だと思うわ。頭もいいし、紳士的だし、健一のことを本当に大切に思ってくれてる」
健一の心に、鋭い痛みが走った。美穂は完全に雄介に魅了されている。
「でも」美穂は続けた。「時々、完璧すぎるなって思うこともあるの」
「完璧すぎる?」
「うん」美穂は少し困ったような顔をした。「何て言うか、隙がないというか。人間らしい弱さがあまり見えないのね」
健一は希望を感じた。美穂にも、雄介の不自然さが伝わっている。
「それに比べて、健一は人間らしくて温かい」美穂は健一に微笑みかけた。「完璧じゃないところも含めて、愛おしいの」
健一は救われたような気持ちになった。美穂はまだ、自分を愛してくれている。
でも同時に、危機感も感じていた。雄介の魅力は強大だ。このまま放っておけば、美穂を奪われてしまうかもしれない。
その夜、健一は一人でアパートにいた。今日の出来事を振り返りながら、雄介への憎しみを深めていた。
雄介は自分の人生に侵入し、すべてを奪おうとしている。美穂を、仕事を、周囲の信頼を。
でも、健一はもう黙っていない。
雄介が仮面をかぶって善人を演じるなら、健一も仮面をかぶってやろう。そして、最後に笑うのは自分だということを証明してやろう。
健一は机に向かい、復讐計画を練り直し始めた。雄介の弱点を見つけ、それを突く方法を考える。
時間はかかるかもしれない。でも、必ず雄介の仮面を剥がしてやる。
健一の心の奥で、暗い炎が燃え上がっていた。それは、復讐への渇望だった。
親友だと思っていた男への、深い憎しみと共に。
## 第六章 復讐の準備
健一の復讐計画は、緻密で冷静なものだった。
彼はまず、雄介の現在の生活パターンを詳細に調査した。どこに住み、どこで働き、どんな人々と関わっているのか。SNSの投稿を分析し、行動パターンを把握した。
雄介は高級マンションに住み、外資系企業でマネージャーとして働いていた。交友関係は広く、特に女性との交流が頻繁だった。そして、その多くが既婚者や他の男性の恋人だった。
健一は冷静に情報を整理していた。雄介の女性関係は、間違いなく弱点になる。
***
ある日、健一は雄介の会社の近くでカフェに座っていた。雄介の行動を直接観察するためだった。
午後六時頃、雄介が現れた。いつものように完璧なスーツに身を包み、自信に満ちた歩き方をしていた。
しかし、雄介は一人ではなかった。若い女性と一緒だった。健一はその女性を見て、驚いた。雄介の会社の同僚らしく、左手薬指に結婚指輪をしていた。
二人は親密そうに話しながら、近くのホテルに向かった。
健一は写真を撮った。決定的な証拠だった。
***
その夜、健一は美穂から電話を受けた。
「健一、雄介さんから連絡があったの」美穂の声は少し興奮していた。
「何の連絡?」健一は冷静に尋ねた。
「転職の件。雄介さんの会社の人事部長が、健一と会いたがってるって」
健一は予想していた展開だった。雄介は自分を取り込もうと必死だ。
「そうか」健一は答えた。
「すごくいい話よ」美穂は続けた。「給料も上がるし、雄介さんがついてくれてるから安心だし」
健一は苦笑いした。安心。雄介がついていることの、どこが安心なのか。
「検討してみる」健一は答えた。
「でも、あまり長く迷ってると、チャンスを逃すかもよ」美穂は心配そうに言った。
その言葉は、間違いなく雄介から吹き込まれたものだった。健一にプレッシャーを与えるために。
「わかってる」健一は答えた。「ありがとう」
電話を切った後、健一は微笑んだ。雄介は焦っている。それは、彼にとって有利なことだった。
***
翌日、健一は村上に相談した。
「転職の話?」村上は驚いた。「どこの会社?」
健一は詳細を説明した。村上は難しい顔をした。
「確かにいい条件だな」村上は言った。「でも、急に転職を考え始めたのか?」
「いえ、前から少し」健一は嘘をついた。「今のポジションに限界を感じてて」
村上は健一を見つめた。「健一、君はここで十分評価されてる。この前のプロジェクトも成功したし、昇進の話も進んでる」
健一は驚いた。「昇進の話?」
「ああ」村上は頷いた。「来月にも発表される予定だ。主任への昇格だよ」
健一は複雑な気持ちだった。ついに昇進のチャンスが来た。でも、雄介の転職の誘いもある。
「まあ、最終的には君の判断だが」村上は続けた。「僕としては、ここに残ってほしいと思ってる」
健一は感謝した。村上は本当に自分を評価してくれている。雄介とは違って。
「ありがとうございます」健一は答えた。「よく考えてみます」
***
その日の夕方、健一は雄介から電話を受けた。
「健一、人事部長との面談、セッティングできたよ」雄介の声は上機嫌だった。
「そうか」健一は答えた。
「明日の夕方六時、僕の会社で。どうだ?」
健一は少し考えた。雄介の会社を直接見る機会だ。
「わかった」健一は答えた。
「素晴らしい!」雄介は喜んだ。「きっといい結果になるよ」
電話を切った後、健一は計画を練った。雄介の会社を訪問する機会を利用して、さらなる情報を収集しよう。
***
翌日の夕方、健一は雄介の会社を訪れた。高層ビルの一角にある、洗練されたオフィスだった。
雄介が迎えに来た。「健一、ようこそ!」
健一は周囲を見回した。確かに素晴らしい職場環境だった。でも、何か違和感もあった。
人事部長との面談は、順調に進んだ。条件も、雄介が言っていた通りだった。
「田中さんからお話は伺ってます」人事部長は健一に言った。「システム開発のエキスパートとして、ぜひ来ていただきたい」
面談後、雄介は健一に会社を案内した。
「どうだった?」雄介は尋ねた。
「いい会社だね」健一は答えた。
「だろう?」雄介は満足そうだった。「ここで一緒に働けたら最高だよ」
その時、先日写真に撮った女性が現れた。雄介を見つけて、親しみやすそうに手を振った。
「田中さん、お疲れ様です」女性は挨拶した。
「お疲れ様」雄介は少し慌てたような表情を見せた。「こちら、友人の山田さん」
女性は健一に挨拶した。健一は彼女の左手を確認した。結婚指輪がある。
「それでは」女性は去っていった。
雄介は少し落ち着かない様子だった。健一はその反応を見て、確信した。
「いい同僚がいるんだね」健一は何気なく言った。
「ああ、まあ」雄介は曖昧に答えた。
健一は内心で笑った。雄介の動揺が手に取るようにわかる。
***
会社を出た後、雄介は健一を食事に誘った。
「どうだった?転職の件、前向きに考えてくれる?」雄介は尋ねた。
「うん、検討してる」健一は答えた。「でも、実は今の会社で昇進の話があるんだ」
雄介の表情が変わった。「昇進?」
「主任への昇格らしい」健一は続けた。「来月発表予定で」
雄介は明らかに動揺していた。健一が昇進することは、彼の計画にとって不都合だった。
「それは…おめでとう」雄介は無理に笑顔を作った。「でも、うちの会社の方が条件はいいよ」
「そうだね」健一は頷いた。「よく考えてみる」
雄介は安堵したような顔をした。でも、健一には別の計画があった。
***
その夜、健一は美穂に昇進の話をした。
「主任への昇進?それってすごいじゃない!」美穂は心から喜んでくれた。
「まだ決定じゃないけどね」健一は謙遜した。
「でも、それなら転職しない方がいいんじゃない?」美穂は言った。「今の会社で認められてるってことでしょ?」
健一は少し驚いた。美穂が転職に反対するとは思わなかった。
「雄介の会社の方が条件はいいけど」健一は言った。
「条件も大事だけど」美穂は続けた。「健一が評価されてる場所にいる方が、長い目で見ていいと思うの」
健一は美穂の考えの変化に気づいた。以前は雄介の転職の話に賛成していたのに。
「雄介にはなんて言おう?」健一は尋ねた。
「正直に話せばいいのよ」美穂は答えた。「きっと理解してくれるわ」
健一は微笑んだ。美穂は確実に変わっている。雄介への盲目的な信頼が、少しずつ薄れている。
***
翌日、健一は会社で村上に報告した。
「転職の件、断ることにしました」
村上は安堵した。「よかった。君がいなくなったら、本当に困るところだった」
「ここで頑張ります」健一は答えた。
その日の午後、健一は雄介に電話した。
「雄介、転職の件なんだけど」
「どうした?」雄介の声に期待がこもっていた。
「申し訳ないが、今回は見送らせてもらう」健一は冷静に言った。
雄介は沈黙した。しばらくして、「どうして?」と尋ねた。
「今の会社で昇進の話が具体化してきて」健一は説明した。「せっかくのチャンスだから、もう少し頑張ってみようと思う」
「そうか」雄介の声は明らかに失望していた。「残念だな」
「機会があれば、また相談するよ」健一は答えた。
「ああ」雄介は力なく答えた。「わかった」
電話を切った後、健一は満足していた。雄介の計画を一つ潰した。
でも、これはまだ始まりに過ぎない。本当の復讐は、これからだ。
健一は机の引き出しから、雄介と既婚女性の写真を取り出した。これを使う時が来るかもしれない。
雄介の仮面を剥がし、本性を暴露する日まで、健一は静かに準備を続けるつもりだった。
復讐は、冷静に、確実に実行されなければならない。
健一の目に、冷たい光が宿っていた。
## 第七章 仮面の下
健一の昇進が正式に発表された。
主任への昇格と共に、給料も大幅にアップした。同僚たちは心から祝福してくれたが、健一の心は複雑だった。
この成功を、雄介はどう受け止めるだろうか。
その答えは、すぐに明らかになった。
***
昇進の発表から三日後、健一は美穂から緊急の電話を受けた。
「健一、大変なの!」美穂の声は動揺していた。
「どうした?」
「雄介さんが…雄介さんが倒れたの!」
健一の心臓が跳ね上がった。「倒れた?」
「過労で入院したって」美穂は息を切らしながら説明した。「お見舞いに行きましょう」
健一は迷った。雄介の入院が本当なのか、それとも演技なのか判断がつかなかった。
「病院はどこ?」健一は尋ねた。
美穂が教えてくれた病院は、都内の高級私立病院だった。
***
病院に着くと、雄介は個室のベッドに横たわっていた。顔色は悪く、点滴を受けていた。
「健一…来てくれたのか」雄介は弱々しい声で言った。
「大丈夫か?」健一は心配そうな表情を作った。
「ちょっと働きすぎたみたいで」雄介は苦笑いした。「君の昇進の話を聞いて、僕も頑張りすぎちゃったかな」
健一は雄介の言葉に注意深く耳を傾けた。まるで、自分の昇進が雄介の病気の原因だと言わんばかりだ。
「そんなこと言わないでください」美穂が雄介の手を握った。「健一の昇進と、雄介さんの体調は別の話よ」
健一は美穂の行動を見て、胸が痛んだ。彼女は雄介の手を、とても自然に握っている。
「美穂さんには迷惑をかけてしまって」雄介は申し訳なさそうに言った。「僕の緊急連絡先に登録してあったから、病院から連絡が行ったんです」
健一は驚いた。雄介の緊急連絡先に美穂が登録されている?いつの間に?
「それは…」健一は言葉を詰まらせた。
「ごめんなさい、健一」美穂は慌てて説明した。「雄介さんから頼まれて。身内が遠くにいるから、何かあった時のためにって」
健一は静かに怒りを燃やしていた。雄介は美穂を、着実に自分の生活に組み込んでいる。
「ありがたいよ」雄介は美穂に微笑みかけた。「君がいてくれて」
その微笑みを見て、健一は確信した。雄介の病気は演技だ。美穂の同情を引くための。
***
お見舞いの帰り道、美穂は沈んでいた。
「雄介さん、本当に大丈夫かしら」
「医者が診てるんだから、大丈夫だよ」健一は答えた。
「でも、あんなに顔色が悪くて」美穂は心配そうに続けた。「一人暮らしだし、身内も遠いし」
健一は美穂の優しさに感謝すると同時に、雄介の狡猾さに怒りを覚えた。
「俺たちにできることは限られてる」健一は言った。
「そうね」美穂は頷いた。「でも、できるだけお見舞いに行きたいと思うの」
健一は内心で舌打ちした。雄介の策略は功を奏している。
***
その夜、健一は一人で考え込んでいた。雄介の入院は、明らかに自分への対抗策だ。昇進で注目を集めた健一に対して、病気の同情を集めることで対抗している。
しかも、美穂を完全に味方につけている。
健一は冷静に状況を分析した。このままでは、美穂は雄介に奪われてしまう。
何か手を打たなければならない。
健一は机の引き出しから、あの写真を取り出した。雄介と既婚女性のホテルでの写真。
この証拠を使う時が来たのかもしれない。
***
翌日、健一は病院を訪れた。今度は一人で。
雄介は相変わらずベッドに横たわっていたが、健一の姿を見ると表情を変えた。
「健一、どうしてまた?」
「お前と話がある」健一は椅子に座った。
「話?」雄介は警戒するような目をした。
「お前の本性を知ってるんだ」健一は静かに言った。
雄介の顔から血の気が引いた。「何のことだ?」
「大学時代の使い込み、盗用、そして今の不倫」健一は淡々と続けた。「全部知ってる」
雄介は沈黙した。しばらくして、小さく笑った。
「何の証拠もないだろう」
健一はスマートフォンを取り出し、写真を見せた。雄介と既婚女性がホテルに入る瞬間の写真だった。
雄介の表情が変わった。「それは…」
「どう説明する?」健一は冷たく尋ねた。
雄介は長い間沈黙していた。そして、突然笑い出した。
「やるじゃないか、健一」雄介の声は、今まで聞いたことのないものだった。冷たく、計算高い声。
「本性を現したな」健一は言った。
「本性?」雄介は嘲笑した。「お前に本性を見せる必要があったとは思わなかった」
健一は雄介を見つめた。目の前にいるのは、もはや親友の仮面をかぶった男ではなく、冷酷な計算機だった。
「お前は最初から、俺を利用していただけだったんだな」健一は言った。
「利用?」雄介は首を振った。「それは違うな」
「じゃあ何だ?」
「共生だよ」雄介は冷静に答えた。「お前は俺を助け、俺はお前に友情という幻想を与えた」
健一は愕然とした。友情という幻想。
「でも、お前は変わった」雄介は続けた。「昔は従順だったのに、最近は反抗的だ」
「当然だ」健一は怒りを込めて言った。「お前の正体がわかったからな」
「正体?」雄介は笑った。「俺の正体を知って、お前は何をするつもりだ?」
健一は写真を持ち上げた。「これを美穂に見せる」
雄介の表情が一瞬変わった。しかし、すぐに元に戻った。
「どうぞ」雄介は肩をすくめた。「でも、美穂がお前を信じるかな?」
健一は雄介の自信に動揺した。
「考えてみろよ」雄介は続けた。「最近のお前、美穂にとってどんな存在だった?仕事に忙殺されて、彼女をほったらかし。一方、俺は彼女の話を聞き、心配し、支えてきた」
健一の心に、嫌な予感が広がった。
「そんな状況で、お前が俺の悪口を言ったら、美穂はどう思うかな?」雄介は残酷な笑みを浮かべた。「嫉妬に狂った男の妄想だと思うんじゃないか?」
健一は言葉を失った。雄介の読みは的確だった。
「それに」雄介は最後の一撃を加えた。「俺は病気なんだ。病気の友人を陥れようとする男を、美穂は愛し続けられるかな?」
健一は震えていた。雄介の策略の巧妙さに。
「お前は、俺に勝てない」雄介は断言した。「昔から、そして今も」
健一は立ち上がった。「まだ終わっていない」
「そうかもね」雄介は余裕の笑みを浮かべた。「でも、最後に笑うのは俺だよ」
健一は病室を出た。廊下で、深呼吸した。
雄介は確かに手強い相手だった。でも、健一はまだ諦めるつもりはなかった。
必ず雄介の仮面を剥がしてやる。そして、美穂を守ってみせる。
健一の心に、新たな決意が芽生えていた。これは、単なる復讐ではなく、愛する人を守るための戦いだった。
***
その夜、健一は美穂に電話した。
「今日、雄介のお見舞いに行ったの?」美穂が尋ねた。
「ああ」健一は答えた。
「どうだった?」
健一は迷った。雄介の警告が頭に浮かんだ。でも、真実を伝えなければならない。
「美穂、雄介について話したいことがある」健一は意を決して言った。
「雄介さんについて?」美穂の声に警戒心が混じった。
「明日、二人で会えないか?大事な話があるんだ」
美穂は少し沈黙した。「わかったわ。でも、健一、まさか雄介さんの悪口を言うつもりじゃないでしょうね?」
健一の心が沈んだ。雄介の予想通りの反応だった。
「悪口じゃない」健一は答えた。「真実だ」
「真実?」美穂の声は疑わしそうだった。
「明日話す」健一は言った。「約束してくれ」
「わかったわ」美穂は渋々答えた。
電話を切った後、健一は深いため息をついた。明日の会話が、すべてを決めるかもしれない。
美穂が真実を受け入れてくれるか、それとも雄介の側につくか。
健一は祈るような気持ちだった。愛する人が、まだ自分を信じてくれることを。
戦いの最終局面が、近づいていた。
## 第八章 破滅への道
運命の日がやってきた。
健一は美穂と約束した喫茶店で待っていた。手のひらに汗をかき、心臓が激しく鼓動していた。今日の会話が、すべてを決める。
美穂が現れた。いつもの優しい笑顔だったが、どこか疲れているようにも見えた。
「お疲れ様」美穂は健一の向かいに座った。「昨日の電話、ちょっと心配だったの」
「ありがとう、来てくれて」健一は深呼吸した。「大事な話があるんだ」
美穂は真剣な表情になった。「雄介さんのこと?」
健一は頷いた。そして、用意していた写真を取り出した。
「これを見てくれ」
美穂は写真を見て、顔色を変えた。「これは…雄介さん?」
「ああ。会社の同僚と一緒にホテルに入っているところだ」健一は説明した。「その女性は既婚者だ」
美穂は写真をじっと見つめていた。しばらく沈黙が続いた。
「健一」美穂は静かに口を開いた。「これ、いつ撮ったの?」
「二週間前」
「どうして撮ったの?」美穂の声に、冷たさが混じった。
健一は困った。正直に答えるべきか迷った。
「雄介を調べていたんだ」健一は答えた。
美穂の表情が変わった。「調べてた?なぜ?」
健一は雄介の過去の悪行について説明し始めた。大学時代の使い込み、盗用、裏切り。そして現在の不倫。
美穂は黙って聞いていたが、その表情はますます硬くなっていった。
「健一」美穂は健一の話を遮った。「あなた、おかしいわよ」
健一は驚いた。「おかしい?」
「親友を盗撮して、過去を詮索して」美穂は信じられないという顔をした。「それって、ストーカーじゃない」
健一は愕然とした。「ストーカー?俺は真実を調べただけだ」
「真実?」美穂は首を振った。「あなたが見たいものを見ただけじゃない?」
「美穂、これは事実だ」健一は必死に説明した。「雄介は俺たちを騙してる」
「騙してる?」美穂は立ち上がった。「健一、あなた病気よ」
健一の心に、冷たいものが流れた。雄介の予想通りの展開だった。
「美穂、聞いてくれ」健一は懇願した。
「聞けないわ」美穂は写真を健一に投げ返した。「こんなことをする人とは、もう話せない」
美穂は席を立った。健一は慌てて追いかけた。
「待ってくれ!」
美穂は振り返った。その目には、失望と嫌悪が混じっていた。
「健一、あなたは変わったわ」美穂は悲しそうに言った。「昔の優しい健一はどこに行ったの?」
健一は言葉を失った。
「雄介さんの言う通りだった」美穂は続けた。「あなた、本当に病気なのね」
「雄介の言う通り?」健一は聞き返した。
「雄介さんは、あなたのことをずっと心配してたの」美穂は説明した。「仕事のストレスで、精神的に不安定になってるって」
健一は震えた。雄介が美穂に、自分の病気説を吹き込んでいたのだ。
「そして今日、これ」美穂は写真を指差した。「完全に確信したわ」
「美穂、違うんだ」健一は絶望的に叫んだ。
「もう会わないで」美穂は背中を向けた。「治療を受けて、元の健一に戻ったら、また話しましょう」
美穂は去っていった。健一は一人、喫茶店に取り残された。
***
その夜、健一は自宅で酒を飲んでいた。すべてが終わった。美穂を失い、真実を信じてもらえなかった。
雄介の勝利だった。完璧な勝利。
スマートフォンが鳴った。雄介からだった。
「健一、美穂さんから聞いたよ」雄介の声は、偽善的な同情に満ちていた。「大丈夫か?」
健一は答えなかった。
「君のことが心配だ」雄介は続けた。「精神科の良い先生を知ってる。紹介しようか?」
健一は電話を切った。そして、携帯を壁に投げつけた。
雄介は最後まで、善人の仮面をかぶり続けている。
***
翌日、健一は会社に行かなかった。その次の日も。
村上から心配の電話が来たが、健一は出なかった。
一週間後、健一はようやく会社に現れた。しかし、以前の健一ではなかった。無気力で、やつれていた。
「健一、大丈夫か?」村上は心配そうに尋ねた。
「大丈夫です」健一は力なく答えた。
「何かあったのか?」
健一は答えなかった。何と説明すればいいのかわからなかった。
その日の午後、健一は驚くべき知らせを受けた。
雄介が美穂と交際を始めたという知らせだった。
共通の友人からの連絡だった。「田中と佐藤さんが付き合い始めたって聞いたけど、本当?」
健一は震えていた。予想していたことだが、現実になると耐え難い痛みだった。
雄介は美穂を手に入れた。そして、健一を完全に破滅させた。
***
それから一ヶ月が過ぎた。
健一は生ける屍のような状態だった。仕事も適当にこなし、人との関わりを避けていた。
村上をはじめとする同僚たちは心配していたが、健一は誰とも話そうとしなかった。
ある日、健一は街で雄介と美穂を見かけた。二人は幸せそうに手を繋いで歩いていた。
雄介は健一に気づくと、同情的な微笑みを浮かべた。まるで、病気の友人を見るような目で。
美穂は健一を見て、少し顔を曇らせた。でも、すぐに雄介に促されて視線を逸らした。
健一は立ち尽くしていた。すべてを失った自分と、すべてを手に入れた雄介。
対照的な二人の運命だった。
***
その夜、健一は自宅で一人酒を飲んでいた。
テーブルの上には、雄介との思い出の品々が散らばっていた。写真、手紙、プレゼント。すべてが偽りの友情の証だった。
健一は一つ一つを手に取り、破り捨てていった。
最後に残ったのは、雄介からもらった腕時計だった。卒業祝いの時計。
健一は時計を見つめた。針は止まったままだった。
そして、健一は決心した。
この時計と共に、すべてを終わらせよう。
健一は時計を握りしめ、窓に向かって投げた。時計は窓ガラスを突き破り、夜の闇に消えていった。
同時に、健一の心の中の何かも砕け散った。
雄介への憎しみ。美穂への愛。そして、自分自身への信頼。
すべてが粉々になった。
健一は床に崩れ落ちた。そして、声を上げて泣いた。
完全な敗北だった。
***
翌朝、健一は会社に辞表を提出した。
「健一、何を考えてる?」村上は驚いた。「君はここで必要な人材だ」
「すみません」健一は頭を下げた。「もう、ここにはいられません」
村上は健一を説得しようとしたが、健一の決意は固かった。
健一は荷物をまとめ、会社を去った。
数日後、健一は都内のアパートを引き払い、地方の小さな町に移住した。
母親の実家がある町だった。そこで、静かに暮らすつもりだった。
雄介から遠く離れた場所で。美穂のことを忘れるために。
***
一年後。
健一は地方の小さなソフトウェア会社で働いていた。給料は安かったが、静かな環境だった。
雄介や美穂とは完全に連絡を絶っていた。時々、SNSで二人の近況を確認することもあったが、それも次第にしなくなった。
健一は変わっていた。以前の内向的な性格はより顕著になり、人との関わりを極力避けるようになっていた。
でも、それでよかった。もう誰も信じたくなかった。もう誰にも裏切られたくなかった。
ある日、健一は地元の図書館で本を読んでいた。
突然、誰かが隣に座った。
顔を上げると、見知らぬ女性だった。30代前半くらい、優しそうな目をしていた。
「すみません」女性は小声で言った。「この席、空いてますか?」
健一は頷いた。
女性は本を開いた。それは、健一も読んだことのある小説だった。
「面白い本ですね」女性が話しかけてきた。
健一は警戒した。また騙されるのではないか。また利用されるのではないか。
「ええ」健一は短く答えて、本に視線を戻した。
女性はそれ以上話しかけてこなかった。
しばらくして、女性は立ち上がった。
「失礼します」女性は軽く会釈して去っていった。
健一は女性の後ろ姿を見つめていた。
久しぶりに、人の温かさに触れたような気がした。
でも、健一はすぐに警戒心を取り戻した。
もう二度と、人を信じるものか。
もう二度と、騙されるものか。
健一の心は、完全に閉ざされていた。雄介によって。
これが、友情という名の裏切りが残した傷跡だった。
癒えることのない、深い傷跡。
***
物語の終わり。
健一は雄介との戦いに敗れ、すべてを失った。愛する人を、仕事を、そして人を信じる心を。
雄介は完璧な勝利を収めた。美穂を手に入れ、健一を破滅させ、しかも最後まで善人の仮面を保った。
でも、本当の勝者は誰だったのか。
美穂を騙し続ける雄介か。それとも、真実を知りながら誰にも信じてもらえなかった健一か。