つまんないなぁ
また朝が来た。
智也は目を開け、天井の木目を見つめた。
呼吸が苦しかった。それでも、心の奥に熱が残っていた。
(凛も……記憶が残っているなら……やれることは、まだいくらでもある……!)
智也は震える手で携帯を掴み、凛に連絡を取った。
必死で探し、駆け寄り、そして問いかけた。
「昨日の夜……何か……覚えてることはないか……?」
凛は首を傾げ、小さく微笑んだ。
「……どうしたの、橘くん……?」
その目に、何もなかった。
前の夜、あの温もりの中で交わした言葉も、抱き合ったあの涙も、何も残っていなかった。
智也の心の奥で、何かが音を立ててひび割れた。
(……そうか……そうだよな……そう簡単に奇跡なんて……)
それでも、智也は走り出した。
足掻き続けた。
⸻
智也は凛の手を引き、あらゆる道を選んだ。
小さな神社、閉ざされた倉庫、車も人も届かない渓谷の奥。
だが、凛は死んだ。
倉庫の天井が崩れた。
渓谷の上から、落石が降り注いだ。
神社の社が強風で倒れ、凛を押し潰した。
智也は家に閉じ込めた。
窓に板を打ち付け、扉に家具を積み上げ、息を潜めて朝を待った。
だが、地震が来た。
瓦礫が凛を飲み込んだ。
ある日は火事だった。
ある日は水害だった。
何を変えても、何を守っても、凛は死んだ。
智也は必死だった。
凛を抱きしめて守ろうとした。
自分の身を盾にした。
けれど、鋼のような理不尽が凛を奪った。
車が突っ込んだ。
看板が落ちた。
暴走したバイクが歩道をなぎ倒した。
智也はそのたびに嗚咽した。
声を枯らして叫んだ。
泣き崩れ、地面を殴り続けた。
(なんで……なんでだよ……!)
それでも朝が来た。
また、同じ光景が広がった。
⸻
ある朝、智也は目を覚ました。
けれど胸の奥に熱はなかった。
数え切れない死の記憶が、重く積もっていた。
どんな道を選んでも、どんな策を尽くしても、凛の運命は変わらなかった。
智也は凛を探し、笑顔を見せた。
「おはよう……凛」
凛はいつものように、何も知らない笑顔で答えた。
「おはよう、橘くん」
智也はその手を取り、ただ優しく言った。
「今日は……少しだけ遠回りしようか」
智也はもう、奇跡を信じることをやめていた。
残された時間を、ただ凛と穏やかに過ごす。
それが智也の選んだ唯一の祈りだった。
夜道を歩き、喫茶店で語り合い、公園で肩を並べた。
智也は凛の笑顔を、声を、手の温もりを、心に焼き付けた。
その先に何が待っているかを、知っていたからこそ。
そして神は、それを見下ろしていた。
退屈そうに、苛立たしげに、冷たい声を風に混じらせていた。
「ふん……つまらないな。君、もう足掻かないの?」
智也は夜空を見上げ、静かに目を閉じた。
答える声は、もう残っていなかった。