少し希望をあげちゃう
夜が明け、智也は目を覚ました。
天井の木目が、何度も見たそのままの配置で視界に広がる。
秋の朝の日差しがカーテンの隙間から差し込む光の角度まで、昨日と同じだった。
智也はゆっくりと体を起こした。
胸の奥が重たかった。
(今度こそ……)
その決意と共に、智也は凛を迎えに行った。
今日は何があっても、彼女のそばを離れないと誓っていた。
⸻
智也は人通りのない小さな公園へ凛を連れて行った。
車もバイクも入れない。
遊具は古く、もう誰も遊んでいないような静けさだった。
凛は少し驚いた表情をした。
「こんなところ、あったんだね。」
「……今日だけはここにいてくれ。」
智也の声は硬かった。
凛は微かに戸惑いを見せたが、頷いた。
二人はベンチに座り、しばらく黙って秋の風を感じていた。
木々の葉が落ち、空は高く、澄んでいた。
智也は凛の横顔をそっと見た。
だがその瞳は、わずかに遠くを見ていた。
何かを思い出そうとするように、ほんの一瞬だけ。
(……?)
智也の胸に小さなざわめきが走った。
⸻
時間が過ぎ、昼を過ぎた頃。
智也は食事もそこそこに、凛から目を離さなかった。
凛は落ち着かない様子でベンチに座り直した。
足元の落ち葉を、そっと靴の先で払いのけた。
「橘くん……なんだろ……この場所……」
その声が小さく震えていた。
智也は耳を疑った。
「……何が?」
凛は自分でも理由がわからない様子で眉をひそめた。
「初めて来たはずなのに、なんだか……嫌な予感がする……そんな感じ。」
智也の心臓が強く打った。
(今の……ただの偶然か……?)
⸻
夕暮れ。
長く伸びる木々の影が公園を覆い始めていた。
智也は周囲を見張りながら、凛の一挙手一投足に集中していた。
凛は黙っていた。
けれど、その瞳がどこか怯えたようにわずかに揺れていた。
そして。
風が強く吹き、落ち葉が舞った瞬間。
凛は反射的に身を竦めた。
「っ……!」
小さく震えたその仕草に、智也の心がざわりと軋んだ。
(……今のは……?)
ただの風に、どうしてここまで怯える……?
凛自身も、戸惑ったように自分の腕を抱いていた。
⸻
夜が訪れるまで、智也は凛を見守り続けた。
その間、凛は何度も遠くの空や木々の影に視線を送り、微かに肩を震わせることがあった。
(やはり……ただの偶然じゃない……?)
智也の頭の中に、ある考えが浮かび始めていた。
(もしかして……凛も……)
でもその考えを自分で振り払った。
期待は怖かった。
もしそうなら、どうして今まで黙っていた?
もし違うなら、これ以上自分を壊したくなかった。
それでも――その疑念は、夜の闇の中で智也の心に根を下ろしていった。
夜の公園。
智也は凛のそばを離れず、必死で周囲を見張っていた。
車も入れない、人も来ない場所。今度こそ、と胸の奥で何度も祈った。
木々の間を風が吹き抜け、落ち葉がかさりとかすかに音を立てた。
冷たい空気が、緊張で張り詰めた二人の間を通り過ぎた。
ピシッ……
乾いた音が木の上から響いた。
(来る……!)
智也が息を呑んだその瞬間だった。
凛が何かに突き動かされるように、智也の腕を引いた。
「……橘くん!」
声は震え、どこか夢の中で聞いたような響きを帯びていた。
二人は転がるようにその場を離れた。
直後、古木の太い枝が轟音を立てて落ち、さっきまで二人がいた場所を打ち砕いた。
土と木片が跳ね、空気が土埃に染まった。
智也はその場に膝をつき、息を切らせたまま凛の顔を見た。
凛も震えていた。
その瞳の奥で、理由のわからない涙が滲んでいた。
「……私……なんで、あんなに怖かったんだろ……」
自分に言い聞かせるような、戸惑いの声だった。
智也の胸が軋んだ。
(今のは……偶然じゃない……。お前……お前も……)
けれど、問いかける言葉は出なかった。
その瞳の奥に確信めいた色が宿るのを、見てしまうのが怖かった。
⸻
智也は凛の手を取った。
震えていた。けれど、温かさがあった。
「助かった……本当に……助かった……!」
凛は泣きながら、小さく微笑んだ。
「……橘くん……怖かった……ありがとう……」
⸻
枝が落ちた地面の割れ目から、土の匂いが立ちのぼった。
智也は凛を引き寄せ、その震える肩を抱いた。
二人の心臓の鼓動が、冷たい夜に重なって聞こえた。
しばらくそのまま、ただ生きていることを確かめ合うように抱き合っていた。
智也は、そっと凛の顔を覗き込んだ。
凛の瞳には涙が浮かび、けれどその奥に、理由のわからない確信の色が宿っていた。
「……凛。どうして今、あのタイミングで俺を引っ張った……?」
凛は戸惑ったように唇を震わせた。
「……わからない。でも……絶対にそこにいちゃダメって、どうしても思ったの……!」
智也の胸が軋んだ。
やっぱり。偶然なんかじゃない。
「……凛……お前……もしかして……」
凛は小さく息を呑み、顔を伏せた。
「わかんない……でも……初めてじゃない気がしたの……さっきの音も、怖さも……」
智也の声がかすれた。
「……俺は……ずっとこの日を繰り返してる。……何度も、何度も……お前を救おうとして……でも、ダメで……」
声が震え、頬を涙が伝った。
凛はその言葉を聞き、震える手で智也の手をそっと握った。
「……橘くん……ありがとう……ずっと……私のために……」
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「私……何も知らなくて……ずっと守ってくれてたのに……私、怖がるばかりで……ごめんね……」
智也は首を振った。
「違う……俺はただ、お前に生きていてほしかっただけだ……」
凛は小さく微笑んだ。
「……今度こそ、助けてくれたんだね……」
智也はその手を強く握り返した。
「……帰ろう。もう大丈夫だ……」
二人は手を繋ぎ、ゆっくりと歩き出した。
夜風が頬を撫で、街灯の光が足元を照らした。
その一歩一歩が、ようやく地獄から抜け出した実感を連れてきた。
「……やっと……」
智也の胸に、熱いものがこみ上げた。
だが――
遠くで、乾いたタイヤのスキール音が響いた。
ブレーキの悲鳴。
焦げるゴムの匂いが風に乗った。
「……え……?」
凛が振り向いた。
智也も反射的に凛の手を強く握りしめた。
脇道の奥。
闇の中から、暴走した車がスピンしながら飛び出してきた。
ヘッドライトの光が二人を白く照らした。
智也は叫んだ。
「凛っ!」
その瞬間、世界がスローモーションになったようだった。
凛の瞳が大きく見開かれ、智也を見つめた。
その瞳には「まだ生きたい」という叫びが宿っていた。
智也は凛を突き飛ばそうとした。
けれど車の鋼鉄の塊が、あまりにも早かった。
乾いた衝撃音。
体が宙を舞う感覚。
智也は地面に叩きつけられた。
息が止まり、視界が白く霞んだ。
手を伸ばした先に、凛の姿があった。
血に染まるその小さな体が、夜道の冷たさに沈んでいた。
「……やだ……駄目だ……嘘だろ……!」
智也は這うようにして凛に近づいた。
その手を取った。
温かさが、ほんのわずかだけ残っていた。
「橘……くん……」
凛が震える声で名を呼んだ。
唇が微かに動いた。
「……ありがとう……」
それきり、凛の瞳から光が消えた。
智也は声にならない叫びをあげた。
胸が、引き裂かれるように痛んだ。
夜の闇に、冷たく乾いた声が響いた。
「だから君たちは……見ていて楽しいんだよ。」
智也の頬を、冷たい風が撫でた。
その風に、神の悪意が滲んでいた。