楽しいねぇ
秋の風が冷たさを増し、街路樹の葉が色づき始めていた。
智也と凛は、大学からの帰り道、いつもの商店街を歩いていた。
凛は楽しそうに、店先の焼き芋のポスターを見上げていた。
「今度さ、これ買おうよ。」
「寒くなったもんな。」
「橘くん、芋好きそうだもん。」
「……なんでそう思う。」
「なんとなく!」
凛は声を立てて笑った。その声は、いつもより少しだけ心細く響いた。
その夜、智也は見た。
信号が青に変わった時、凛の足が一瞬止まったのを。
「……凛?」
「ううん、なんでもない。……行こ?」
笑ってみせたその顔が、ほんの少しだけ不自然に見えた。
⸻
翌日、智也は違和感を覚えたまま、キャンパスの中庭で凛と話した。
「最近、ぼーっとしてないか?」
「してないよ?」
「……じゃあ、気のせいか。」
凛は笑ったけれど、その目はほんのわずかに曇っていた。
智也は何も言えず、その目を見つめるだけだった。
⸻
数日後。
駅の階段で、凛がつまずきかけた。
「大丈夫か!」
智也がとっさに腕を掴むと、凛は少し驚いて智也を見た。
「ありがと……びっくりした。」
「気をつけろよ。」
「……うん。」
けれど、どこか遠いところを見ているようだった。
⸻
その日、智也と凛は大学の帰りに駅前のカフェに立ち寄った。
窓の外は曇り空で、街の灯りがにじんでいた。
凛はカップを両手で包みながら、じっと外を見ていた。
「……雨、降りそうだね。」
「傘持ってきたのか?」
「ううん。でも平気。」
その横顔はどこか遠くを見ていて、智也はふと胸がざわついた。
「最近、どうしたんだ?」
「なにが?」
「……いや、いい。」
智也は言葉を飲み込んだ。
⸻
数日後の昼休み、商店街で。
智也と凛は並んで歩いていた。
突然、自転車が角から飛び出し、凛の肩すれすれを通り過ぎた。
凛はわずかによろめき、智也が肩を支えた。
「危ねぇ……!」
「……びっくりした……。」
凛は少しだけ笑ったが、その頬は血の気を失っていた。
「もう……気をつけてくれよ……。」
「うん……。」
でも凛の視線は、自転車の去った道の先に向けられたままだった。
⸻
その夜、二人は並んで歩いていた。
街灯の光が濡れたアスファルトに反射していた。
凛は小さく囁いた。
「……なんか、最近ついてないね。」
「お前、気にしてんのか。」
「少しだけ。でも大丈夫だよ。橘くんがいてくれるし。」
智也は黙っていた。
その言葉が嬉しかった。でも、不安は拭えなかった。
⸻
週が明けたある日、キャンパスの階段で。
凛の足元が滑り、危うく転げ落ちかけた。
「凛!」
智也は駆け寄り、手を取った。
「ごめん……!」
凛の目は強張っていた。
「やっぱり、なんかおかしい……。」
智也の声が少し震えた。
「……橘くん。」
凛は小さく微笑んだ。
「私、橘くんに心配されてばっかりだね。」
「……そんなんじゃなくて……。」
智也は何かを言いかけて、口を閉じた。
⸻
その数日後。
交差点。
雨の音が、街の喧騒を覆い隠していた。
智也と凛は、青信号の下、歩道の端に立っていた。
小さな傘の下、凛の頬に雨粒がつたった。
「……渡ろう。」
智也は傘を少し傾け、凛を促した。
そのときだった。
凛の足が止まった。
「凛……?」
凛はわずかに首をかしげ、振り向いた。
「……橘くん、ありがと……。」
微笑んだその顔が、街灯の光に照らされ、どこか儚げに見えた。
そして、視界の端で光が膨れ上がった。
車のヘッドライトだった。
雨に滲んで、巨大な白い塊のように見えた。
タイヤの水を切る音。
ブレーキの悲鳴。
智也は腕を伸ばした。
凛の手をつかもうとした。
だけど、その指先は、ほんのわずかに届かなかった。
凛の体がライトの光に飲まれ、
世界が壊れた音がした。
衝突音。
鈍く重い音が、鼓膜を揺らした。
水たまりがはじけ、赤いものが夜の街に飛び散った。
智也の足元に、凛の髪に似た細いものが落ちた。
何かわからなかった。
時間が止まったようだった。
車が止まり、運転手の叫び声が遠くで響いていた。
でも智也の耳には届かなかった。
雨の音だけが、静かに降り続いていた。
目の前に横たわる凛の体。
濡れたアスファルトに広がる赤。
その赤が、智也の足元までじわりと滲んできた。
(……いやだ……)
胸の奥から声が出ようとした。
でも喉は張り付いたように動かなかった。
目の前に、凛の手があった。
細く、小さく、冷たくなっていく手だった。
智也は膝をつき、その手を握った。
握っても、もう何も返ってこなかった。
「……凛……」
その声は、自分のものじゃないように震えていた。
「……頼むから……目を……開けてくれ……」
街灯の光に照らされ、凛の顔は穏やかだった。
でも、その瞳はもう二度と開かないと、智也はわかっていた。
雨が強くなった。
街の光を滲ませ、凛の頬を濡らした。
それは涙のようだった。
智也はただ、その手を離せず、ずっと震えながら座り込んでいた。
⸻
病院の夜はひどく長かった。
救急車、警察、医師の声、全てが遠くで響く雑音のようだった。
智也は廊下の椅子に座り込んでいた。
足元の床に、雨のしずくがぽたぽたと落ちる音だけがはっきり聞こえた。
胸の奥が、ひたすら空洞だった。
(……俺は……何を……)
ふと、視界の隅で何かが揺れた。
ゆっくりと顔を上げると、そこに白い影があった。
見たことのない白いローブをまとった人影。
顔はよく見えなかった。輪郭さえ曖昧だった。
「君、頑張ったね。」
声は妙に明るく、どこか子供が遊んでいるような響きがあった。
智也はぼんやりとその影を見上げた。
頭の中は霧のようで、何も考えられなかった。
「……誰……だ……?」
やっと絞り出せた声は、自分のものじゃないみたいにかすれていた。
「ぼく? 神様、ってとこかな。」
神?
何を言ってるんだ、こいつは。
「楽しかったよ。」
その言葉に、智也はようやく眉を寄せた。
「……何が……だ……?」
声が震えた。理解が追いつかなかった。
目の前の存在が何を言っているのか、頭が受け付けなかった。
神は楽しそうに続けた。
「君の頑張り、涙、あがく姿……見応えあったよ。」
胸の奥で何かがずしりと重くなった。
でも、怒りの炎は上がらなかった。
ただ、寒さだけが広がった。
そのとき、智也の視界が白くかすんだ。
光の中に沈んでいくような感覚。
⸻
静かな朝の光。
目を開けると、自室の天井があった。
(……夢……だったのか……)
時計の針が視界に入った瞬間、智也は息を詰めた。
(……なんで……)
あの日の朝と、同じ時刻。
同じ光の差し方。
同じ外の音。
震える手でリモコンを取った。
テレビをつける。
ニュースのキャスターが、昨日と同じセリフを口にした。
『今日未明、国道沿いの飲食店で……』
その原稿までの抑揚、タイミング。全てが同じだった。
智也の背筋に、冷たいものが走った。
(……まさか……)
外から、あの日と同じ犬の鳴き声が聞こえた。
智也は手のひらを見つめた。
凛の冷たい手の感触が、まだそこに残っている気がした。
(……どうなってる……これ……)
全身が震えた。
吐き気がこみ上げた。
⸻
大学の構内。
秋の風が木々の葉を揺らし、落ち葉が舞っていた。
智也はその中を、無言で歩いていた。
胸の奥は氷のようだった。
全て夢だったんじゃないか。
もしかしたら本当にというわずかな期待、けれど怖くて顔を上げることができなかった。
(……いるはずがない。……でも……)
角を曲がったそのとき。
「橘くん!」
声がした。
あの声だった。
智也は息を呑んだ。
ゆっくりと顔を上げた。
そこに凛がいた。
いつもの笑顔。
秋の光の中で、風に髪を揺らしながら、こちらに向かって小さく走ってくる。
「どうしたの? そんな顔して……」
凛が目の前で立ち止まり、首をかしげた。
その瞬間、智也の胸の奥で何かが決壊した。
「……凛……」
声が震え、喉が詰まり、次の言葉が出なかった。
気づけば、頬を涙が伝っていた。
次から次へと、こぼれ落ちた。
「橘くん……? 大丈夫……?」
凛の手が、そっと智也の袖をつかんだ。
その温かさに、さらに涙があふれた。
「……ごめん……」
「……なんで謝るの?」
智也は首を振った。
ただ、ただ、生きていてくれたことが、今は奇跡だった。
凛は少し驚いた顔をしながらも、そっと笑った。
「何があったか知らないけど……橘くんのそういうとこ、私……好きだよ。」
智也は何も返せなかった。
ただ、凛のその姿を目に焼き付けるように、見つめ続けた。
⸻
その日、智也はずっと凛の後ろ姿を見ていた。
授業の合間も、昼食のときも。
(今度こそ救う……。絶対に……)
凛は何も気づかず、いつものように笑った。
「橘くん、どうしたの? 変だよ?」
「……なんでもない。」
目が合ったとき、胸の奥がきしんだ。
こんなに近くにいるのに、どこか遠くに感じた。
⸻
帰り道。
交差点の信号が青に変わる。
(ここだ……!)
智也は凛の手を取った。
「こっちの道にしよう。……なんとなく。」
凛は少し驚いた顔をしたが、にこっと笑った。
「珍しいね、橘くんが自分からそう言うの。」
小道に入った二人。
智也の心臓は早鐘のように打っていた。
これで……これで違う未来になる……そう信じたかった。
⸻
小道を歩いて数分。
智也の耳に聞こえた。
遠くで、タイヤが水をはじく音。
(なんで……ここを選んだのに……)
背筋を冷たいものが走った。
凛は気づかずに、星の出始めた空を見上げていた。
「きれいだね。」
その横顔は、あまりに無防備で。
智也は奥歯を噛んだ。
車のライトが角の向こうに見えた。
予想より速い。
(くそっ……!)
智也は凛の手を強く引いた。
「走れ!」
凛は戸惑った。
「えっ、どうしたの……!?」
だが智也の必死の形相に、問い返す余裕はなかった。
二人は全力で駆けた。
背後でブレーキ音。
タイヤがアスファルトを削る音が、夜の空気を引き裂いた。
智也が振り返ったその瞬間、
車がすぐそこまで迫っていた。
(間に合え……!)
⸻
二人は歩道の植え込みの陰に飛び込んだ。
車はその脇を走り抜け、遠くに去っていった。
智也は肩で息をした。
凛の手は震えていた。
「……びっくりした……」
智也は全身の力が抜けるのを感じた。
「……助かった……」
震える声が喉から漏れた。
凛も深く息をついて、植え込みから顔を上げた。
「橘くん、ありがとう……ほんとに……」
その笑顔は、ほっとした表情だった。
街灯の下で、いつもの優しい凛だった。
智也は、ようやく心臓が落ち着いてくるのを感じた。
(守れた……)
そう思ったその瞬間。
──ズドン
重い衝撃音が響いた。
凛の体が、智也の目の前で不自然に弾け飛んだ。
(……何……?)
目が追いつかない。
何が起きたのか理解できなかった。
凛の体が路上に転がり、夜の光の中に赤が飛び散った。
智也は硬直したまま、足が動かなかった。
そこに、脇道から飛び出してきた大型バイクがあった。
スピードの出し過ぎで制御を失ったのか、凛をはねたまま、数メートル先で転倒していた。
バイクの男の叫び声が遠くで響く。
でも智也の耳には届かなかった。
凛の体の下に赤が広がっていく。
(……守れたはずだろ……なんで……)
喉が張り付いて声が出ない。
歩み寄った時、凛の目はわずかに開いていた。
「……橘……くん……」
その唇が、何かを言おうとして、動かなくなった。
智也はその手を握った。
手の温かさが、どんどん逃げていった。
(やめろ……やめてくれ……)
涙が止まらなかった。
危険は去ったはずだった。
助かったはずだった。
(なんでだよ……!)
でも、凛の命はまた奪われた。
凛の体から温かさが失われていく中、
智也は、ただその手を握りしめたまま、地面に崩れた。
足元で広がる赤。
夜の風がそれを冷たく乾かしていく。
(守れたはずだろ……助けたはずだろ……)
どこで間違った。
どこで。
そのとき、ふと背後から声がした。
「惜しかったねぇ。」
震えるような、でもどこか楽しげな声だった。
ぞわり、と背筋が凍った。
智也はゆっくりと振り向いた。
路地の暗がりに、白い影が立っていた。
街灯の光に照らされず、顔は見えない。
だけどその存在だけが、夜の闇の中で異様な重みを放っていた。
「ほんの少しだったんだけどなあ。惜しい、惜しい。」
声には悪意がなかった。
ただ無邪気に遊んでいる子供のようだった。
「……お前……」
智也の声は震えた。
何かを言おうとしても、喉が張り付いて声にならなかった。
神のようなその影は、少し首をかしげた。
「でも、君のあの必死な顔、すっごく良かったよ。あれ、ほんと好きなんだ。」
智也の視界が滲んだ。
血の匂いと、神の声が混ざり合って、世界が歪んで見えた。
「……楽しい……のか……?」
声になったのは、それだけだった。
神のようなその影は、にやりと口元を歪めたように見えた。
「うん。楽しいよ。君って、面白いもん。」
風が吹き、神の姿は夜の闇に溶けるように消えた。
智也は、その場に崩れ落ちた。
全身の力が抜け、ただ凛の手を握ったまま、動けなかった。
──
目覚めの朝。
時計の針は、またあの日の時刻を刻んでいた。
朝の光が部屋を照らす。
でも智也の中には、もう何の救いもなかった。
(今度こそ……絶対に……)
智也は震える手で顔を覆った。
次に目を開けたとき、その瞳には決意しかなかった。
⸻
智也は凛を待ち伏せた。
いつもの通学路、角を曲がった瞬間、凛の前に立ちはだかった。
「橘くん? どうしたの?」
智也は答えず、腕を引いた。
「……来るな。今日は、絶対外に出るな。」
凛は驚き、眉をひそめた。
「なにそれ……どうしたの?」
「お願いだ。外に出ないでくれ。俺の頼みだ。」
その必死な目に、凛は一瞬言葉を失った。
でも次の瞬間、不安そうに目を伏せた。
⸻
智也は凛の手を強く握ったまま、駅前の小さなカフェに飛び込んだ。
雨粒がガラスを濡らし、外の世界を滲ませていた。
「橘くん……どうしたの……?」
凛は不安そうに見上げた。
その瞳に涙が滲んでいた。
智也は何度も頭を下げた。
「ごめん……でも、お願いだ……ここにいてくれ。外に出ないでくれ……」
凛は震える唇で言った。
「……怖いよ……橘くん……そんな顔しないで……」
智也は席の向こうの通路を見つめた。
誰も入れさせない。誰も近づけさせない。
何があっても、凛をここから出させない。
カフェの個室に二人きり。
智也はドアの前に立ち、時折外を確認した。
雨が静かに降り続いていた。
時間はゆっくり過ぎた。
夕方が来た。夜が来た。
(これで……今度こそ……)
智也は震える手で、凛の手を取った。
「……ありがとう……ここにいてくれて……」
凛は泣いていた。
「……もうやめよう……橘くん、お願いだから普通に戻って……」
智也は首を振った。
「夜が明けたら……元に戻る……全部……」
⸻
閉店間際、店員が「そろそろ……」と声をかけてきた。
智也は「少しだけ……」と懇願し、無理を言って居座った。
そして――
ドンッ!!!
激しい衝撃がカフェのガラスを砕いた。
暴走した車が、店の正面に突っ込んだ。
砕けたガラスと、木の破片の中で、凛の体が倒れていた。
赤が床に滲んで広がった。
智也の足は硬直したまま動かなかった。
耳の奥で、どこか楽しげな声が響いた気がした。
「やっぱり君、最高だねぇ。」
⸻
目覚めた智也の瞳に光はなかった。
ただ、冷たい決意だけが宿っていた。
(次は……車もバイクも届かないところ……絶対に……)
智也は凛を探し、強引に手を引いた。
「橘くん……もうやめて……お願いだから……!」
凛の声が泣いていた。
けれど智也は止まれなかった。
(嫌われていい……憎まれていい……ただ生きていてくれ……)
⸻
智也は街はずれの神社の奥の境内に凛を連れて行った。
古びた石段を上り、車も人もほとんど来ない場所。
雨上がりの湿った土の匂い。
鳥の声だけが響いていた。
「ここなら……ここなら……」
智也は震える声でつぶやいた。
凛は座り込み、顔を覆って泣いた。
「やだよ……こんなの……」
智也はその姿に胸が張り裂けそうだった。
(ごめん……ごめん……でも……)
智也は周囲を見張った。
どこからも音はしなかった。
時間がただ静かに過ぎていった。
夜の帳が下り始め、木々の影が長く伸びていた。
(……これで……今度こそ……)
⸻
その時だった。
上空から、乾いた音がした。
智也が見上げた先。
古い社の屋根の一部が、長年の雨風で腐り、崩れ落ちた。
凛のいる場所に向かって――
(やめろっ……!!)
智也は凛を突き飛ばそうとした。
でも間に合わなかった。
鈍い音が響き、木材が凛の体を押し潰した。
土の上に、また赤が広がった。
智也はその場に崩れ落ち、声にならない嗚咽を漏らした。
どこかで、風に混じってまたあの声が響いた気がした。
「ほんとに……楽しいねぇ、君は。」